5. 祖国
ヴォルクはレイヴンシュラーク王家の真っ黒な髪と瞳を受け継ぎ、第二王子として生を受けた。
王太子と目されていたのは第一王子である兄で、王妃である母は兄の教育にかかりきりだった。父王は政治をやりながら出入りする商人と何やら商売の話をしている。兄本人は授けられる教育に精一杯。ヴォルクを気にかける者はいなかった。父、母、兄。家族との距離は遠い。
ヴォルクに期待されているのは、兄のスペアであることだ。兄に何かが起こったときの、王家の保険。だからあらゆる教育はしっかりと行われる。帝王学、歴史、政治、国内の貴族たちの力関係、他国との関係性を学んだが、すべてが「第一王子に何かあった時のため」のものだと思うと、至極つまらなかった。
唯一、体を鍛え、動かすことは好きだった。現役を引退した元騎士団長の教育係から格闘術や剣を教わる。打ち合う相手の呼吸を読み、太刀筋の先が見えた瞬間、身体は動いている。その感覚だけが城の中で面白いものだった。
「ヴォルク殿下は、その御名のとおり、狼のようですな。隙あらば喉笛を噛みちぎられそうな気迫です」
「だが、まだお前には剣が届かない。もう一本だ」
「よろしい、参ります」
そのようなやりとりをしながら、厳しく扱かれた。実技の授業の合間に、座学で兵法を学んだ。
四つの年の頃、同い年のリコリスが「友人候補」として宛てがわれた。飛び抜けて綺麗な顔をしたエルダーウッド伯爵家の次男で、こちらも向こうも跡取りではない。余り物に余り物を当てがう大人たちの算段だったが、ヴォルクが気に入らなければ断りを入れることもできた。しかし、ヴォルクは自分におとなしく雛鳥のようについてくる、花の名前を持つ銀髪の少年を選んでそばに置くようにした。阿ってくる他のうるさい者たちよりも余程好ましかったので。
週に一度リコリスが城を訪ね、ヴォルクからエルダーウッドの屋敷へ出向くこともあった。大人の来ない丘で穏やかに過ごす時間は、格式も序列も関係なく、何も求められるものがない。リコリスは自分に何かを請うことがない。隣に置いていて気が楽だった。
いつからか銀の髪を指で掬うようになった。さらさらと、絹に似た手触りが指の間を滑り抜ける。愛着らしきものが沸いた。
成長するにつれて、表舞台は兄に任せ、ヴォルクは裏へ回ればよいと考えるようになった。父王の「商い」がどのような薄暗い背景で成り立っているか知る頃には、王位への関心はなくなっていた。市井に降り、酒場などに顔を出し始めたのもこの頃である。学園にも通ったが、第二王子に擦り寄る者は少なく、いたところで打算に満ちていた。心を許せるような学友はできなかった。
リコリスの側も似たようなものだ。もともと綺麗だった顔は年を追うごとに美貌と呼んで遜色ないものになり、男女を問わず言い寄られたり、かと思えば牽制しあった者たちから遠巻きに眺められたりしていた。そのうち、辟易をする段階を超えて諦めていた。
そんな二人が唯一親しいものだから、目立ってはいたと思う。
リコリスと共に街を歩き、学園へ通い、たまにエルダーウッドの丘でぽつぽつとした会話を交わす。
剣を叩き込んでくれた、教育係の元騎士団長は病気で仕事を辞し、その後亡くなった。教育のなかで唯一面白いものを授けてくれたことには感謝して、剣の腕を磨き続ける。だが、騎士団は兄のものなので、親しい者はいない。ヴォルクには暗部の統括を任すという話が出ていた。管轄がわかりやすくて何よりだ。
リコリスの周りで怪我、病気、事故、人死にが続出していても、ヴォルクには何も起こらなかった。理由はわからない。
「俺は不幸になっていない」
リコリスにそう言ったのは事実だ。
どうでもよい他人がどうなろうと、どうだっていい。むしろ、邪魔なものが滅びるのであれば都合がいいのではないかとさえ思っていた。
エルダーウッドの当主がリコリスを離れへ移したとき、ヴォルクは父王に掛け合った。不幸を呼ぶと言うのなら、不幸を呼び込みたい家や、他の国と接点を持たせればいい。この国の裏を引き受ける自分だからこそ御せる、と申し出たのだ。
父は王家への影響を懸念していたが、儲け話が好きな男だったので、最後には頷いていた。
リコリスを友人から側近候補に格上げし、第二王子である自分の傍に置く。王家の名でそう宣言すれば、貴族の家が逆らえる話ではない。噂を恐れる連中の態度は変わらないが、少なくとも、エルダーウッド伯爵家はリコリスを閉じ込めてはおけなくなった。
リコリスに関わった者の破滅は続いた。噂は広がり、社交界から爪弾きにされ、取引先も離れていき、エルダーウッドの家が傾いていく。当主が大怪我をして寝たきり、夫人は心労で倒れた。ローワンが若い身空で白い顔で家の切り盛りをする羽目になったことには同情する。
幼い時分に、ローワンが草だらけになったリコリスの服の草をひとつずつ払ってやっているのを見ていた。その頃の温かな兄の面影は消え、リコリスのことを憎んでいるとわかる眼差ししかしていない。自然とローワンとは距離ができていた。
凶作、伝染病、病人の隔離、食糧と亡命を求める民衆の暴動。その余波で始まった隣国との戦で兄が死に、王位を継ぐ者はヴォルクしかいなくなった。手塩をかけて育てた息子を亡くした王妃は泣き暮らし、父王は思うようにならないことに苛立っていた。
公の場でリコリスを突き上げた貴族が死に、議会でリコリスの処刑が決まった。リコリスと親しい自分は、その場には呼ばれない。隠し部屋でその決定を聞いていた。
三日後、リコリスは火刑に処される。
ヴォルクは自室で剣を研いだ。日課の訓練を行いながら、今までの人生に思考を巡らせていた。
王家で兄のスペアとして育ち、裏舞台を担当するとばかり思っていたところ、表舞台を担っていた兄が死んだ。
王太子になれる直系の王子は自分しか残っていない。
けれども、重要な決定をする場には、都合が悪いからと呼ばれない。
そしてその場で、唯一、気に入って傍に置いていた者の処刑が決まる。
ふざけている。そんな道理が通ると思っているのだろうか。
——こんな国は滅んでしまえばいい。
ヴォルクは黒装束を身に纏って帯剣し、立ち上がった。
リコリスのもとへ駆けていくために。
---
リコリスはエルダーウッド伯爵家の地下牢に移されていた。王城への移送を命じられた兵が、地下牢の鍵をがちゃがちゃと音を立てて開けようとしている。
不吉だ、という前評判のおかげで手勢は少なかった。ある程度身分のある者は辞退したのだろう、平民出身の者たちだけで構成されていることが漏れ聞こえる会話からわかる。
背後から一人の意識を手刀で刈り取る。人が頽れる音に振り返ろうとした者の目を剣で横に薙ぎ払った。先頭にいた隊長らしき男は手足の腱を切って転がし、牢の鍵を開ける。
暗がりの奥でリコリスが座っている。汚れた服に裸足。銀色の髪だけが闇の中で白く光っていた。
「行くぞ」
ヴォルクは短く言った。
「……どこに?」
リコリスは、途方に暮れた、迷子になった子供のような表情を浮かべた。行く場所がないと思っているのだろう。
「知らん。ここにいれば殺されるだけだ」
リコリスの足に、靴代わりの包帯と布を巻き、腕を掴んで立たせた。
外套を脱ぎ、肩にかける。
今、この世でたった一人を選び、王子として生まれた国を捨てようとしている。
それとは裏腹に「どこかで靴と馬を調達する必要がある」などと、やけに現実的なことを考えていた。
リコリスは、自分のためにヴォルクが自国の兵を傷つけざるを得なくなったことに罪悪感を覚えているのか、謝ろうとしていた。
欲しい言葉はそんなものではない。
「巻き込んで……」
「助けた礼を言え、リリィ」
「……ありがとう」
ありがとう、ヴォル。逡巡ののちにリコリスはそう、静かに言った。
ヴォルクはリコリスの手を取って走り出した。屋敷を出ると空が赤く、どこかで火の手が上がっていた。
エルダーウッドの丘のそばを通り過ぎる。リコリスの足が一瞬遅れたが、止まりはしなかった。
国境が近づく頃、空は白み始めていた。
自分の傍にある、銀の花を処刑しようとした祖国が燃えている。
惜しいものなどもう何もなかった。
ヴォルクは一度も振り返らず、鼻で笑い、リコリスの手を握る力を強めた。
そして二人は国境を超えた。
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