第26話 死者は嘘をつけない
紗奈さんから届いたスクリーンショットを見た瞬間、俺は息を止めた。
位置情報共有アプリの画面だった。
地図の上に、青い円がにじんでいる。
親水公園ではない。
川沿いでもない。
駅から少し離れた、雨水ポンプ場の近く。
俺のスマホは、充電していたはずなのに熱を持っていた。
窓の外では、夜の湿気に沈んだ蝉の声が細く残っている。
紗奈さんのメッセージには、短く説明が添えられていた。
未羽さんと紗奈さんは、夜道で不安な時だけ位置情報を共有していた。
失踪当夜も、未羽さんが帰るまでのつもりでオンにしていたらしい。
家族が警察へ提出したあと、共有していい範囲を確認して、俺たちにも送ってくれた。
保存されていたのは、最後の反応地点と時刻。
ただし、正確な一点ではない。
円で囲まれた範囲。
その中に、雨水ポンプ場、駐輪場、細い道路、小さな倉庫が入っている。
真白は、机の上に紙を並べた。
未羽さんのノート。
@水底メモのコメントログ。
親水公園の偽ルート。
非公開検証の名前なしコメント。
位置情報共有アプリのスクリーンショット。
「水は水でも、こっち」
俺は言った。
「まだ場所は断定しない」
真白が即座に返す。
「雨水ポンプ場の近く」
「近く、まで」
「はい」
俺は頷いた。
標語が体に染み込んできた気がする。
断定しない。
公開しない。
照合する。
今回は、走らない。
走りたくても、走らない。
スマホの位置情報は、万能の答えではない。
誤差がある。
建物や地下の影響でずれることもある。
真白は、スクリーンショットの時刻表示と、アプリの「おおよその位置」という表示を確認してから説明した。
「だから、ここ、と言わない」
「近く」
「そう。近く」
俺は青い円を見つめた。
死者候補のコメントも、位置情報も、似ているのかもしれない。
何かを指している。
でも、指先の太さがある。
その太さを無視して一点に決めると、親水公園の時みたいに外す。
俺たちは、短い言葉と曖昧な円の間で、慎重に足場を探すしかなかった。
* * *
紗奈さんとは、通話で確認した。
未羽さんの家族は、位置情報のスクリーンショットを警察へ渡している。
俺たちが勝手に現地へ行くことはしない。
ただ、コメント欄の不審な反応と照らし合わせるため、公開されている地図と過去コメントを確認する。
それが真白の決めた線だった。
「雨水ポンプ場って、未羽が行くような場所じゃないと思います」
紗奈さんの声は、通話越しでも疲れていた。
「近くにバイト先とか、友達の家とか」
「ないです。少なくとも、私が知る限りは」
「水の音について、未羽さんが話したことは」
「ありません。ノートで初めて見ました」
「位置情報共有は、よく使っていたんですか」
真白が聞く。
「毎日ではないです。未羽、心配性だけど、人に心配されるのは苦手で」
紗奈さんは少しだけ息を詰まらせた。
「夜に一人で帰る時だけ、帰るまでオンにすることがありました。帰ったら、いつも『着いた』って送ってきて」
「失踪当夜は」
「着いた、が来ませんでした」
その言葉が、静かに落ちた。
ただのアプリの記録ではない。
いつもなら届く短い連絡が、届かなかった。
その穴が、今ここにある。
俺は、何か言いそうになって、やめた。
紗奈さんが一番分かっていることを、俺が言い直す必要はない。
真白がメモを取る。
俺は黙って聞いた。
聞く。
見世物にしない。
自分で決めたことなのに、黙って聞くのは難しい。
何か言いたくなる。
安心させる言葉を探したくなる。
でも、根拠のない安心は、あとで人を傷つける。
「鳴海さん」
紗奈さんが言った。
「未羽は、生きてますか」
その質問に、部屋の空気が止まった。
俺は答えられない。
答えてはいけない。
名前なしコメントが来た。
殺した人が見てる、と流れた。
でも、それをそのまま死亡の証拠にはできない。
俺は、ゆっくり息を吸った。
「分かりません」
最低の答えに聞こえる。
でも、今言える一番誠実な答えだった。
「ただ、手がかりはあります。俺たちは、それを配信にはしません。必要なところに渡します」
紗奈さんは、少し黙ったあと、はい、と言った。
その声は、泣きそうだった。
俺は画面の外で拳を握った。
ここで何かを約束したくなる自分を、必死に押さえた。
* * *
雨水ポンプ場の周辺を、地図で確認した。
一般立ち入りできない管理区域。
近くには細い道路と、古い駐輪場と、背の低いフェンス。
水路は地下に通っているらしく、地上からはほとんど見えない。
水の音がするとしたら、排水口か、夜のポンプ稼働音か。
真白は、公開されている施設情報だけを見ていた。
「現地へは行かない」
「分かってる」
「警察と家族へ渡す」
「分かってる」
「蓮が分かってるって言う時、だいたい半分」
「今日は七割」
「残り三割が怖い」
俺は言い返せなかった。
その三割は、今すぐ現地へ行きたがっている。
未羽さんのスマホがそこにあるかもしれない。
暗い場所に、まだあるかもしれない。
その想像が、足を動かそうとする。
でも、久我も足を動かした。
親水公園でも、俺は足を動かした。
今回は、止まる。
真白が、別の画面を開いた。
「コメントログ」
「また?」
「現実の記録と照合する」
@水底メモの過去コメントに、雨水ポンプ場という語はない。
水の音も、本人の公開コメントにはない。
でも、@名無しの見物人の返信に「水の音って何」がある。
そして、@匿名考察は親水公園へ流れを作った。
雨水ポンプ場の話は、まだ公開されていない。
真白が、休止告知のコメント欄を開いた。
そこに、新しいコメントがあった。
@匿名考察。
@匿名考察『親水公園ではなかったとしても、水場周辺なのは確定に近い。鳴海側が否定しないなら、何か掴んでるのでは』
@匿名考察『川か排水かは知らないけど、水の近くではあるでしょ』
「また」
俺は低く言った。
「水場周辺」
「広い言葉」
「外しても外してないように見える」
「そう」
真白は保存する。
正しい言葉で、少しだけ向きを変える。
水場周辺。
雨水ポンプ場も、水場周辺に入る。
親水公園も入る。
川沿いも入る。
どこへでも逃げられる言葉だ。
「嘘じゃない」
「だから怖い」
* * *
その夜、非公開検証はしなかった。
俺がやりたいと言い、真白が止めた。
「今日はコメント欄に聞かない」
「でも」
「今日は現実の記録を整理する日」
「聞こえるかもしれない」
「聞こえるからって、毎回聞いたら読ませることになる」
その言葉で、俺は黙った。
久我の時と同じだ。
誰かに最後の恐怖を読ませ続ける。
未羽さんが生きているとしても、死んでいるとしても、俺たちの都合で何度も呼ぶことは違う。
真白は、代わりに一覧表を作った。
死者候補コメントまたは名前なし通知。
現実資料。
公開コメント。
未確認の推測。
管理人偽装の可能性。
五つに分ける。
暗い。
水。
スマホ。
見てる。
まだ。
違う。
そこじゃない。
スマホ。
それぞれに、対応する現実資料を置く。
水は、親水公園ではなく雨水ポンプ場近くの位置情報。
スマホは、未羽さんが持って出て、まだ見つかっていないもの。
見てるは、@水底メモの最後の公開コメントと、久我の断片に重なる。
まだは、未解釈。
「本物の死者なら、嘘はつけない」
俺は言った。
「でも、短い」
真白が言う。
「短いから、こっちが勝手に補う」
「補うと間違える」
「それに、本物じゃない可能性も残す。管理人が死者の声を利用してるなら、嘘かどうか以前に、混ぜられてる」
「だから照合する」
何度も同じところへ戻る。
でも、今回はその繰り返しが必要だった。
俺たちは、赤い傘で学んだ。
親水公園で失敗した。
次に同じことをしたら、それはもう失敗ではなく怠慢だ。
スマホが震えた。
配信アプリではない。
紗奈さんからだった。
警察から連絡がありました。
位置情報の周辺で、スマホらしいものが見つかったそうです。
まだ未羽のものかは確認中です。
俺は画面を見つめた。
真白が、静かに息を吸う。
スマホ。
未判定の名前なし通知は、その断片を出していた。
それが未羽さんの声なのか、管理人に利用された通知なのかは、まだ分からない。
でも、スマホが見つかったことが救いになるとは限らない。
むしろ、ここからが怖い。
誰が持っていたのか。
どこにあったのか。
何が残っているのか。
そして、コメント欄の誰が、それを知っていたのか。
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