第十六話 ギャリュビョ、と言っても
「ローズ、少しだけでも食べなさい」
夕方になって、伯爵が食事を持った召使を連れてきた。ローズはアンリオンの部屋から自分の部屋に戻っていたが、ずっとベッドの端に腰かけて、窓の外を見ていた。
「お父さま、アンリオンを探せませんか」
「難しいだろう」
「どうしてですか」
「彼は、自分の意志で出ていった。それを、追いかけることが、彼のためになるかどうか」
「でも……」
「ローズ」
伯爵の声が、少し低くなった。
「アンリオンは、賢い男だ。あの子が自分で選んだ道がある。それを、おまえの気持ちだけで引き戻すことが、本当に彼のためになるのか、よく考えなさい。呼び戻して、どうしようというのだ」
父の言葉は正しかったから、ローズは何も言えなかった。
「アンリオンはずっと、おまえを守ろうとしていた。それが、おまえには伝わらなかった。しかし、ローズ、それはおまえだけが悪いのではないよ」
「でも、私が出ていけと言ったのです」
「そうなのか」
「私が、追い出したのです」
「ああ」
伯爵はそれ以上は言わなかった。ただ、娘の隣に座り、しばらく、ふたりで窓の外を見ていた。庭では、バラがまだ咲いていた。夕暮れの光の中で、赤い花びらが、橙色に染まっていた。
「お父さま」
「なんだい」
「アンリオンは、今頃、どこにいるのでしょうか」
「それは、わからない」
「どこにも、行くところはないのに……」
ローズの声が詰まった。
帰る場所もない人が、追い出されて、どこへ行ったのだろう。
寒い夜を、どこで過ごしたのだろう。
お腹は、空かなかっただろうか。七歳の頃のあの子は、三日間、何も食べられなかったと言っていた。そのことを思うと、胸が引き裂かれそうだった。
「アンリオンは、きっと、大丈夫だ」
と伯爵がゆっくりと言った。
「でも……」
「それに、あの手紙を読んだだろう。彼はおまえを恨んでなどいないと思う。アンリオンはローズのことが好きだったから、楽しかったんだよ」
ローズが、膝の上で手を組んだ。
楽しかった。その言葉を、何度も心の中で繰り返した。恨まれるより、ずっとつらかった。怒られるほうが、どれほど楽だったか。ただ、楽しかった、とだけ書いて出ていくのが、アンリオンという人間なのだと思った。
「彼はおまえが思うより、ずっと強い男だよ。彼を信じてみなさい」
*
「ギャリュビョ、ギャリュビョ」
ローズはひとりになると、窓際に行き、何度も言ってみた。
でも、アンリオンはもう助けにきてはくれないのだった。
その言葉を声に出すたびに、思い出すことがあった。
あの夏の日、庭の真ん中に立って、両手を腰に当てたローズが言ったのだ。
困った時とか、悲しい時とか、もうだめだと思った時に、この言葉を言えば、笑えるようにするの、と。どんな時でも、笑えるように。
あの時のアンリオンは、少し考えてから、わかりました、と言った。
真剣な顔をして、でも目の奥は少し笑っていた。意味がない言葉だから、いいのよ。意味があると、真剣に考えてしまうでしょう。
ローズがそう言うと、アンリオンは口の中でギャリュビョと繰り返して、確かに声に出すとおかしい、と言って笑った。その笑顔が、今もはっきりと浮かんだ。
口の横に、縦の皺ができる、あの笑顔が。
今こそ、アンリオンに、来てほしいのに、もう来てくれはしない。
でも、それは仕方がない。私が、追い出したのだから。
ローズはショールを手に取り、肩にかけた。
葡萄色のビロードが、夕暮れの光の中で少し輝いた。アンリオンが置いていったもの。
でも、これだけが、まだここにある。彼はもうここにはいないけれど、彼が抱きしめて寝たショールはある。そう思うと、少し救われた。
「アンリオン、どこにいても、元気でいてね」
ローズは窓の外に向かって、小さく言った。
夕風が吹いて、庭のバラが揺れた。まるで、どこか遠くで、誰かが頷いたように。
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