第25話 絶体絶命の包囲網と、予期せぬ轟音

 夜の闇へと投げ出された真矢の身体は、空中で鮮やかに反転し、建物の外装に張り巡らされたメンテナンス用の足場の鉄パイプを正確に掴み取った。


 地上22階から吹き上げる猛烈な夜風が、レザージャケットを激しく叩く。肩から腕にかけての筋肉が悲鳴を上げたが、真矢の表情に恐怖は微塵もなかった。

 彼女は片腕で己の体重を支えながら、背中に回した軽量のタクティカルハーネスへと素早く手を伸ばした。先ほど社長室の金庫から奪取した、西園寺の直筆サインが入った決定的証拠。それが封入された特殊防水シリンダーが、固定具にカチリと確実にセットされていることを指先で確かめる。


 眼下には、目も眩むような東京の夜景が広がっていた。だが、真矢の視線はその煌びやかな光の海ではなく、ビルの足元で蠢く不穏な動きを捉えていた。

 当初の予定では、このまま裏路地へと降下し、暗がりに紛れて離脱する手はずだった。しかし、真矢の視界の先――裏路地の入り口付近には、すでに複数の車両のヘッドライトが不自然に集結しつつあるのが見えた。


『真矢さん! 裏手のルートは完全に潰されたわ。敵の増援が早すぎる!』


 インカムから、クロエの焦燥を帯びた声が飛び込んでくる。


「見えてるわ。ただの警備員じゃないわね、陣形の組み方が完全に軍隊のそれよ」


 真矢は冷静に状況を分析しながら、足場の鉄パイプを蹴った。

 裏路地が封鎖されたのなら、別ルートをこじ開けるしかない。彼女は風鳴りの中、足場を軽業師のように飛び移り、ビルに隣接する巨大なコンクリートの塊――立体駐車場のスロープを目指して、一気に降下軌道を修正した。


 頭上の割れた窓枠から、身を乗り出した私兵たちが強力なフラッシュライトで外壁を照らし回している。強烈な光の筋が夜空を切り裂くが、真矢はその光の届かない暗黒の死角だけを縫うように、滑らかに、そして確実に下層へと降りていった。


★★★★★★★★★★★


 同時刻。高野清太郎のマンション。


 薄暗いリビングを照らす三面の巨大なモニターには、ゼニス・パートナーズのビル周辺の監視カメラ映像と、無数の赤い光点が目まぐるしく動くセキュリティマップが映し出されている。


「立体駐車場の方にも、黒のSUVが三台接近してる! 出口を完全に塞ぐ気よ!」


 クロエが血を吐くような声で叫び、キーボードを激しく叩いた。モニターに映る交差点の信号機が次々と赤から青へと切り替わっていくが、画面上の黒い車両の群れは、そんなデジタル上の制御など意に介さず、強引に交差点を突破していく。


「駄目、周辺の信号をハッキングして足止めしようとしたけど、奴ら交通ルールなんか無視して突っ込んでくるわ!」


 隣に座るフレイヤも、エメラルドグリーンの瞳を揺らして画面を凝視していた。デジタルの世界では絶対的な支配者である彼女も、物理的な暴力の連鎖、計算外の力技には冷や汗を流している。


「裏金の警備にここまでプロの傭兵を使うなんて……西園寺、完全に狂ってるわ。このままじゃ彼女、駐車場で蜂の巣にされる。……ボス、あなた何か打つ手はないの!?」


 二人の天才がパニックに陥りかける中、背後のキッチンからは、極めて平和で機械的な音が静かに響いていた。


 ウィィィィン……。


 イタリア製の高級エスプレッソマシンが、厳選されたコーヒー豆を極細挽きにする音だ。


「問題ありません」


 清太郎は、マシンのポルタフィルターに挽き立ての粉をたっぷりと詰め、専用のタンパーで均一な圧力をかけて水平に押し固めた。その所作には、一グラムの狂いも、一ミリのズレもない。まるで精密機械のような美しさがあった。


「彼女の役割は、『証拠の奪取』までです」


 カチリとフィルターをマシンにセットし、抽出ボタンを押す。

 琥珀色の濃厚な液体が、あらかじめ温められていたデミタスカップへと、細い糸を引くように落ちていく。表面には、ヘーゼルナッツ色の完璧なクレマが厚く形成されていく。立ち昇る芳醇な香りが、リビングの張り詰めた空気を微かに和らげた。


「にゃっ」


 清太郎の足元で、小さな鳴き声がした。

 生後一ヶ月半ほどの黒猫、ルカだ。彼は清太郎の完璧に折り目のついたスラックスの裾に、小さな前足を引っ掛けてよじ登ろうと格闘していた。


 清太郎は抽出を終えたカップをソーサーに乗せると、ゆっくりとしゃがみ込み、片手でルカの柔らかい腹をすくい上げた。ルカは「ミィ」と満足げに鳴き、清太郎の手のひらにプニプニとした小さな肉球を押し付けてくる。


「ここからは、輸送の専門家の領域です」


 清太郎はルカを片腕に抱いたまま、壁に掛けられたシンプルなアナログ時計の秒針へと視線を移した。


「……あと五秒」


★★★★★★★★★★★


 ゼニス・パートナーズビル、併設の立体駐車場。


 真矢は三階の高さにある外壁の足場から、駐車場のスロープへと音もなく着地した。

 そのままアスファルトを蹴って一階の出口へと走るが、その足は途中でピタリと止まった。


 タイヤが激しく軋む耳障りな音が響き、立体駐車場の出入り口のゲートを完全に塞ぐように、三台の巨大な黒いSUVが乱暴に横付けされたのだ。


 バンという重い音と共にドアが一斉に開き、タクティカルベストを着込んだ私兵たちが次々と降りてくる。手には、明らかに日本の警察では採用されていない殺傷能力の高い特殊警棒や、高圧電流を放つスタンガンが握られている。誰一人として無駄口を叩かず、統率の取れた動きで真矢の退路を断っていく。


「……冗談でしょ」


 真矢は警戒しながら後ずさるが、背後のスロープからは、社長室から追ってきたであろう別働隊の重い足音が迫っていた。


 前後を完全に挟まれた。身を隠すような車両も停まっていない、コンクリート剥き出しの無機質な空間。

 逃げ場のない包囲網。じりじりと狭まる間合い。


「そこまでだ、女」


 SUVの前に立つリーダー格の男が、感情のない冷酷な声で宣告した。


「背中のものを置いて、両手を頭の後ろで組め。抵抗すれば、手足の骨を折る」


 真矢は軽く息を吐き、抗議の意志を見せないように、両手を肩の高さまでゆっくりと上げた。


(エリートさん、まさかこれで終わりってことはないわよね?)


 私兵の一人が、無抵抗の真矢の腕を掴もうと手を伸ばした。

 その瞬間だった。


 ――ァァァァァァァァァッッ!!


 夜の静寂を暴力的に引き裂く、鼓膜を震わせるような甲高いエキゾーストノートが轟いた。


 私兵たちが一斉に出口の方向へと視線を向ける。

 直後、完全に封鎖されていたはずのゲートの分厚い金属製バーが、凄まじい衝撃音と共に真っ二つに粉砕された。


「なっ……!」


 砕け散る金属の破片の中から飛び出してきたのは、地を這うように車高の低い、漆黒のチューンアップされたスポーツカーだった。


 ヘッドライトの鋭い光が、暗い立体駐車場の空間を真昼のように照らし出す。

 その車は減速するどころか、さらにエンジンの回転数を跳ね上げた。後輪から猛烈な白煙を噴き上げながら、物理法則を無視したような鋭い角度でドリフト走行に突入する。


「避けろ!!」


 私兵たちが悲鳴を上げて左右に飛び退く。


 黒いスポーツカーは、封鎖のために停められていた三台のSUVの僅かな隙間を、ミリ単位の精度ですり抜けた。巨大なゴムの焦げる匂いを撒き散らしながら、真矢の目の前でピタリと、文字通り寸分の狂いもなく横向きに停車した。


 跳ね上げられた白煙の向こうで、ガルウィングのドアが滑らかに跳ね上がる。

 車内からは、重低音の効いたクラブミュージックが漏れ出してきた。


 死と隣り合わせの空間において、そして、運転席から身を乗り出してきたのは――。


「お待たせ!」


 透き通るような白い肌と、風に揺れるプラチナブロンドの髪。そして宝石のように輝く碧眼。

 スポンサーロゴの入ったパーカーを着崩し、頭にサングラスを乗せたその少女は、まるでゲレンデで友達を見つけたかのような弾ける笑顔を真矢に向けていた。


「乗って! 荷物、運ぶんでしょ!」


 真矢は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに状況を理解して不敵な笑みを返し、助手席へと飛び込んだ。

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