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  • またコメントを書かせてください。
    宙吊りのまま残る問いと、十五センチの静かな空気感に惹かれました。

    少し長文になりますがお許しください。



    作品概要の一文にあった、

    「怒るって、何だろう。」

    この言葉が、読み終わったあとにそのまま戻ってきました。

    最初は、怒れない先生の話として読み始めました。荒れたクラスがあって、真面目に授業を聞いている坂本くんがいて、「なんで、怒らないんですか」と言う。そこだけ見ると、頼りない新任教師が、何かをきっかけにして教師として一歩進む話なのかな、と思いそうになります。

    読み終えると、これは怒れるようになる話ではなかったのだと思いました。

    そして「怒るって、何だろう。」という問いも、怒りとはどういう感情なのか、というだけでは終わらない問いだったように感じます。

    その怒りは、誰のものなのか
    誰のために発動されるのか
    感情なのか、役割なのか、支配なのか
    怒れない人は、どこに立てばよいのか

    タイトルの「十五センチメートル」も、最初は教壇の高さとして受け取りました。
    けれど最後まで読むと、その十五センチは、思っていたよりずっと小さくて、しかもその小ささのまま残るものだったように感じます。

    この作品の奥で静かに支えているものについて、私なりに考えました。



    冒頭のダンゴムシの場面が、かなり強く残りました。

    「ダンゴムシの体液が黄緑色」と知るところから始まる。可愛いと思って手渡したダンゴムシが、華ちゃんに叩きつけられて、踏み潰される。黄緑色の血が、スライムや膿に似ていると描かれます。

    ここで植田が見ているものが、周りと少し違っているのが印象的でした。

    華ちゃんは「最低! もう絶交する!」と叫びます。

    けれど植田にとっては、絶交よりも、数秒前まで確かに生きていたダンゴムシが、自分のせいで死んでしまったことの方が大きいと感じます。

    翌日、机の上に大量のダンゴムシが置かれています。

    華ちゃんの「好きなんでしょ?」という言葉
    担任の「中庭に捨ててきなさい」という処理

    その中で、植田が「捨てる」という言葉に違和感を覚えるところも、何気ないようで残ります。
    周囲が処分するものとして見ているものを、植田は同じようには見ていない。けれど、その違和感は誰にも受け取られないまま、給食袋に入れられて中庭へ運ばれていきます。

    その後、現在に戻って、坂本くんの声が入る。

    「なんで、怒らないんですか」

    この問いは、読者にとってもかなりまっすぐな問いだと思います。
    けれど、作品はこの問いに、まっすぐな答えを返さないし、坂本くんに向けて、最後に何かを言い返すわけでもない。
    そして、クラスが変わるわけでもない。

    むしろ、この問いによって、植田の中の「怒るってことがなんなのか」が開いてしまう。

    小学生の時、植田は怒らなかった。怒るというより悲しかった。けれど涙も出ない。
    ダンゴムシを入れられる日々の中で、華ちゃんがどこから大量のダンゴムシを仕入れたのか、嫌がらせのためなら捕まえられるのか、そんなことばかり考えている。

    その感じが、とても植田らしいと思いました。
    怒りに向かうはずのところで、別の細部を見ている感じです。

    そして事件は、親が怒ったことで終わります。
    華ちゃんは呼び出され、謝らされる。普通なら、そこで「解決した」と見えるのかもしれません。

    でも植田にとっては、そうではない。

    「私の心を踏み越えて怒ってくれた」

    この一文が重かったです。

    親が怒ってくれたことは、植田を守る行為でもあったはずです。
    けれど、その怒りは植田自身の怒りではない。植田の望んだ形でもない。
    外側から見れば事件は終わったように見えても、植田自身の心は、そこに置き去りにされたように感じます。

    だから「ありがとう、と言えそうになかった」という言葉が、すごく自然で、でも苦しい。

    ありがとう。

    言葉は、ある。
    でも出ない。

    ここで、夜市川 鞠さまの作品概要にある「怒るって、何だろう。」が、単に感情の名前を探す問いではなくなっていくように思いました。

    植田の怒りは、植田自身の中では確定しない。親の中では、植田の代わりに発動される。本人より先に、本人の外側で怒りが動いてしまう。その結果として何かが片づいたように見えても、植田自身の怒りは、そこにはありません。

    この作品では、言葉が見えているのに、口に出されない場面が何度も出てきます。

    教頭先生の場面もそうでした。

    「怒りだよ」と言った直後に、「いや? ちっとも」と返す。そして「これは、パフォーマンスであって、私の怒りではない」と言います。

    ここで怖かったのは、怒りという言葉だけが残って、その中身が感情から切り離されていく感じでした。
    怒っていないのに、「怒り」として見せることができる。その瞬間、怒りは誰かの心の動きではなく、人を動かすための形になってしまう。同じ椅子を投げる行為に「怒り」という名前をつけて、すぐに「私の怒りではない」と取り消す。その間に「パフォーマンス」という言葉が入ってきます。

    怒りはあるのか
    ないのか
    それとも、怒りの形だけが使われているのか

    教頭先生の言うことにも、現場の論理としては分かる部分があります。

    「ここまではオッケーだけど、ここからはアウト」と示すこと
    何をするかわからない人だと思わせること
    舐められないこと

    でも植田は、そこに「支配ではないですか」という言葉を見つけてしまう。

    そして、言わない。
    呑み込む。

    この「支配ではないですか」は、親に対する「ありがとう」と似ていると思いました。
    どちらも、言葉としてはそこにあるのに、発話されない。

    言ってしまえば何かが決まってしまうからなのか
    言っても届かないとどこかで分かっているからなのか

    その理由は一つに決められませんが、植田の中で言葉はいつも、口に出る直前で止まります。

    言葉は、ある。
    でも出ない。

    山田先生の「怒らなきゃいけないの嫌だなあ」も、かなり効いている言葉だと思いました。

    怒鳴る先生は、本当に怒りたいから怒っているのか
    それとも、怒らなければいけないから怒っているのか

    ここで植田は、怒りをさらに分からなくしていきます。

    怒りは感情なのか、仕事なのか、パフォーマンスなのか
    人のために怒れる人間でなければ教師ではないのか
    怒らないことは業務放棄なのか

    問いは解けるのではなく、増えていきます。

    この作品の「怒るって、何だろう。」は、怒りの正体を一つに決める問いというより、その怒りは誰のものなのか、どの高さから発せられるものなのか、そして怒りでも支配でもない言葉を自分の位置から言えるのか、という問いへ移っていくように感じました。

    その意味で、島本先生の「教壇ってそんな偉いとこじゃなくて、たった十五センチ上に立っていただけなんだって」という言葉は、単純な励ましではなく、別の重さを持って響きます。

    島本先生は、立派な先生として上から正解を言うのではなく、「私の声なんか、たった一つも、届かなかった」と言う。届かなかった人の言葉として、教壇は偉い場所ではなく、十五センチ上に立っていただけだと話します。

    この十五センチは、植田を急に強くするものではないと思います。

    怒れるようにもしてくれない。
    クラスを変えてくれるわけでもない。

    ただ、「上に立つ」という言葉を、権威や支配の高さから、ただの物理的な高さへ戻してくれる。

    終盤の、

    「十五センチ上に立っているだけ、なんて、笑える。本当にそうだから、笑える。」

    この「笑える」が、軽く見えませんでした。

    自嘲とも少し違う気がします。明るい解決でもない。教壇が本当に十五センチ上にあるだけだと、植田がそのまま認めたから出てくる笑いのように見えました。

    本当にそうだから。

    この言葉があることで、十五センチは比喩だけではなく、事実として戻ってくる。教師が偉いのではない。怒れるから立てるのでもない。得体の知れないものを盾に人を従わせることにも向いていない。

    それでも、植田はそこに立っている。

    ただし、そこから何かがきれいに達成されるわけではないところが、この作品の一番残るところでした。

    「パパとママに言われてここに立つしかなかったクソダサい大人の一人として、こんな大人にはなるなよ、とは言える気がする。」

    ここだけなら、少しだけ何かが成立したようにも読めます。けれどすぐに、

    「そんなこと、一生、言えないかも知れないけれど。」

    と置かれます。

    ここで、言葉はまた止まる。

    親に「ありがとう」と言えなかった。
    教頭先生に「支配ではないですか」と言えなかった。
    生徒たちに「こんな大人にはなるなよ」と言える気がするけれど、一生言えないかもしれない。

    過去の感謝
    現在の異議
    未来に向かうかもしれない戒め

    三つとも、言葉の形を持っているのに、発話として届くかどうかが決まらないまま残る。

    この三つが並ぶと、植田が自分の言葉を取り戻した、とは簡単に言えなくなります。言葉はある。見えている。けれど、発話として届くかどうかは、最後まで決まらない感じです。

    そしてここで、「怒るって、何だろう。」という問いが、もう一段深い場所へ降りていくように思いました。

    怒れるかどうか
    怒りを取り戻せるかどうか
    教師として正しく振る舞えるかどうか

    それだけではなく、怒りでも支配でもない言葉を、十五センチ上から言えるのか

    あるいは、一生言えないのか

    坂本くんへの答えもない。
    怒りの問いも解けていない。
    クラスも変わっていない。

    十五センチは何かを解決しない。
    ただ、そこにある高さとして戻ってくる。

    教師として偉くなるための高さではなく、怒れないまま、支配もできないまま、言えないかもしれない言葉の手前で、それでも立っている十五センチ。

    その小ささが、読み終わったあとも消えませんでした。

    作者からの返信

    Lina lotus Fluctusさん
    こちらの作品もお読みいただきありがとうございます✨また、熱量のある考察、ご感想をありがとうございます。とても嬉しいです😭
    「怒るって、何だろう」
    私にとって、永遠の問いの一つです。
    少し余韻を残しすぎたという気もしていたのですが、それが再び問いに向かうことにも繋がったのだと、考察を読んで気づかせていただきました。作品を通じて、迷い路にいる植田とともにたくさん考えていただけたこと、作者としてとても嬉しく思います。ありがとうございました☺️

  • 読ませていただきました。
    こういうのすごく大好物です。
    子どもの頃の植田先生の描写から始まって、自然な流れで現在軸に移行するのがいいなぁと思いました。終始周りの、こうあるべきじゃないか、とか、こういうものでしょ、という考えにズレを感じていて、ズレてるのは自分が悪いのか?そんなことないはずなのに、という葛藤が表題の十五センチに集約していくのがお見事ですね。
    とても面白かったです。

    作者からの返信

    島本 葉さん

    お読みいただきありがとうございます✨
    正しいことなんて何一つない世の中で、何を正しいものとするかはとても難しいことだと思います。そして、周りの声に全く耳を傾けない、というのもまた、難しい。このズレは一生このままなのかもしれないし、いつか時代が植田の抱えるズレを補ってくれる日が来るのかもしれない。けれど、それは誰にもわかりません。面白いと言っていただけて嬉しかったです。ありがとうございました!☺️

    編集済