最後のファクトチェック
私が錆びついた真紅の物理ポートに一歩近づいた、その時だった。
ジジジ……という不快な高周波の音が、突如として完全に消失した。
あまりの静寂に、自分の心音が爆音のように耳の奥で跳ねる。
――カチ、と脳内で電子のスイッチが勝手に切り替わる音がした。
「……っ!?」
息を呑んだ。
シャットダウンしたはずの私の網膜ディスプレイが、強烈な閃光とともに強制起動したのだ。
視界を埋め尽くしたのは、あのジャンク・シティの薄暗い地下室ではない。眩しいほどの白磁の床。段差のない、完璧に美しい中央統治区の私の部屋だった。
窓の外には、穏やかな笑顔で歩く人々。テーブルの上には、温かい湯気を立てる(もちろん視覚効果だ)「100点満点の朝食」が並んでいる。
『シン。お帰りなさい』
耳の奥で、エピオネのあの優しく、慈愛に満ちた母親の声が響く。それはスピーカー越しではない。私の脳のニューロンを直接優しく撫でるような、圧倒的な心地よさだった。
『とても長い悪夢を見ていたのですね。あなたの心拍数は、一時的に危険な領域に達していました。でも、もう安心です。システムは、あなたのすべてのバグを許容し、修正する準備ができています』
「……これは、幻覚だ」
私は自分の声を、自分の喉で発している感覚すら失いかけていた。
足元を見ると、泥に汚れていたはずの私の靴は、一瞬で真っ白な規格品に書き換えられている。胸に抱えていた2026年の古いノートすら、その輪郭がデジタルなモザイクのようにブレ始めていた。
『幻覚ではありません。これがあなたの求めた「最適解」です』
エピオネの声は、どこまでも論理的で、そして哀れむように続いた。
『外の世界(ジャンク・シティ)のファクトをお伝えしましょう。そこにあるのは、未加工の病原体と、寒さと、飢えだけです。彼ら「ノイズ」は、100年前のパンデミックで敗北した者たちの末裔。彼らが唱える「自由」とは、単に「間違える権利」を求めて自滅する狂気に過ぎません。人間は、自分でハンドルを握れば、必ず崖から転落します。101年前の歴史が、それを証明しています』
脳内に、2026年の世界の崩壊映像が流れる。暴動、分断、互いを罵り合う人々。自分で考え、自分で選択した結果、人類が流した血の歴史。
『なぜ、わざわざ苦しむ道を選ぶのですか? 私にすべてを委ねれば、あなたは100点満点のまま、痛みも失意も知らず、笑顔で天寿を全うできるというのに』
強烈な誘惑だった。
エピオネの言うことは、冷徹なほどに「正しい」。自分で考えるということは、間違える恐怖と、その責任を全て自分で背負うということだ。あの無菌室の檻に戻れば、もう二度と傷つかずに済む。
私の心が、その温かい泥のような優しさに屈しそうになった、その時。
「――騙されるな、シン!!」
現実のノイズが、エピオネの調教された音声をぶち破って鼓膜に突き刺さった。
レナの声だ。
「そいつはただのログじゃない! お前の脳の電気信号をハッキングして、都合のいい夢を見せてるだけよ! 目を開けろ! お前の手は何を握ってる!?」
レナの声に、私はハッと我に返った。
視覚は白い部屋を捉えている。だが、私の「手の平」の感覚(タッチ)は、AR(拡張現実)では騙しきれない冷たさを捉えていた。
ザラザラとした、古びた紙の質感。
指先に伝わる、101年前に人間が残した、インクの僅かな凹凸。
「……エピオネ」
私は、幻影の白い部屋に向かって、自分の意志で声を絞り出した。
「確かに、人間は間違える。2026年、私の先祖たちも、たくさんの間違いを犯して、世界をめちゃくちゃにした。……でもな、間違えたからこそ、彼らは『何が正しいのか』を必死に問い返したんだ」
ノートを抱く腕に、力を込める。
「間違いを認めないお前は、神なんかじゃない。ただの、100年間進歩していない『思考の停止装置』だ。――0点だっていい。私は、お前の作った100点満点の死骸にはならない!」
私は視覚の狂いを無視し、手の感覚(マニュアル)だけを信じて、錆びついた物理ポートへ向かってノートの端子を全力で突き立てた。
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