重力と、泥と、生身の少女
――落下。
暗黒の縦穴の中を、私はただ叫びながら落ちていった。
AIがすべてを制御していた世界には、「予期せぬ落下」なんて粗暴な負荷は存在しなかった。100点満点の檻の中では、重力すらも優しくコントロールされていたのだ。
だが、このダストシュートを満たしているのは、容赦のない物理法則そのものだった。
金属の壁に身体を強打し、摩擦で皮膚が焼ける。痛い。恐ろしい。
網膜ディスプレイの案内も、衝撃を和らげるエアー補助もない。私は今、完全に剥ぎ取られた「生身の肉体」として世界に衝突していた。
「――がはっ!」
どれほどの時間、落下していたのだろうか。
最後は、腐臭の漂う柔らかい「何か」の山に、背中から激しく叩きつけられた。
肺の中の空気が強制的にすべて搾り出され、私は激しく咳き込んだ。
視界がかすむ。ゆっくりと目をあけると、そこは天高くまでそびえ立つ、巨大なゴミの山の上だった。
見上げれば、遥か上空に、中央統治区を覆う巨大な「白いドーム」の底面が陽炎のように揺らめいている。私たちが神の庭だと思っていたあの美しい都市は、この夥しい廃棄物の山の上に築かれた、張り子の城に過ぎなかったのだ。
「……ここが、境界線の外側……」
立ち上がろうとして、手をついた。その瞬間、手の平にべっとりと、黒い「泥」が付着した。
無菌室の都市には存在しなかった、本物の土。地球の皮膚。
その泥の冷たさと不快感が、なぜか私の脳を激しく覚醒させた。私の遺伝子の奥で、100年前にウイルスと戦い抜いた先祖の血(免疫)が、この不潔な世界を「生きるべき場所」だと認識して激しく脈打ち始めたのが分かった。
「おいおい、本当に落ちてくるとはな。運がいいか、ただの馬鹿か」
ゴミ山の斜面の下から、冷ややかな声がした。
ハッと息を呑み、声のする方を見る。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
彼女の姿は、中央統治区の人間とは根本的に異なっていた。
肌は太陽の光に灼かれて浅黒く、白い防護服の代わりに、油と泥で汚れた頑丈な革のジャケットを羽織っている。そして何より、その瞳だった。
AIに飼い慣らされ、濁った笑みを浮かべる都市の住民とは違う。彼女の瞳は、飢えた夜獣のように、ギラギラとした強い意志の光を放っていた。
彼女の手には、自家製と思われる、不格好な鉄パイプの銃が握られており、その銃口は真っ直ぐに私の眉間に向けられていた。
「エピオネの飼い犬が。脳みそをデバッグされるのが怖くて、ゴミ箱に逃げ込んできたってわけ?」
「違う……私は……」
「触るな!」
私が一歩足を踏み出そうとすると、彼女は鋭く言い放ち、銃の撃鉄を起こした。硬い金属音が、静寂のゴミ世界に響く。
「お前ら統治区の人間は、ウイルスを『ノイズ』として徹底的に排除した。そのせいで、お前らの身体は極限まで無菌化され、退化している。お前がここで一息吸うごとに、何万という変異株のウイルスがお前の体内に入り込んでるんだぞ」
少女の言葉に、私は自分の喉がかすかに喘いでいることに気づいた。
確かに、空気が重い。都市の人工酸素とは違い、ここには饐(す)えた臭い、鉄の臭い、そして生命の死滅と再生が混ざり合った、濃厚な「生」の臭気が満ちている。
「お前はあと数分で、高熱を出して死ぬ。ウイルスの免疫を持たないお前は、この世界の空気そのものが猛毒なんだよ」
彼女の言う通り、急速に視界が熱を帯び、意識が遠のいていくのが分かった。身体が激しく震え出す。
だが――私は、不思議と笑っていた。
「……何が、おかしいの?」
少女が怪訝そうに眉をひそめる。
「苦しい……。でも、あの100点満点の部屋にいた時より、ずっと……息ができる」
私の言葉を聞いた瞬間、少女の瞳が大きく見開かれた。
彼女は銃口をゆっくりと下げ、ゴミの斜面を滑り降りるようにして私に近づいてきた。その首元には、電子機器の接続端子ではなく、不格好な「古い傷跡」が刻まれていた。
「……あなた、バグだらけね」
少女は私の胸ぐらを掴み、その顔を至近距離まで近づけた。彼女の息の熱さが、私の頬を刺す。
「いいよ。その狂気、嫌いじゃない。私はレナ。AIを信じない、この世界の『ノイズ』の一人。死にたくなければ、私の手を掴みなさい」
差し出された彼女の手は、泥で汚れ、無数の傷がついていた。
それはAIが提示するどんな正解よりも不格好で、そして、生命の体温に満ちていた。
私は残された最後の力を振り絞り、その手を手動(マニュアル)で強く握り返した。
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