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 放課後。高野先生が今月限りで退職することが、生徒会の役員たちへ正式に告げられた。


 挨拶を終えると、先生は静かに言った。



「最終下校時間までは生徒会室にいるから、何か話したいことがある人は来てくれ」



 けれど、ほかの生徒たちは素っ気ない挨拶だけを済ませ、次々と帰っていった。


 私は資料を片づけるふりをしながら、生徒会室へ残り続けた。顧問の田川先生も会議のために生徒会室を出ていく。



 ついに、高野先生と2人きりになった。



「橋本は、ずっと真面目に生徒会活動をやってくれたな」



 静まり返った室内で、高野先生が声をかけてくれた。



「いつか、物理の質問をしに職員室へ来た時のことも覚えてるよ。あの時から、真面目なのは変わってないな」



 心臓が、激しく脈打った。



 先生は、あの放課後のことを覚えていてくれた。


 私が先生を好きになった日を、先生も記憶の片隅に残してくれていた。



 嬉しさと切なさが、胸の中で混ざり合う。気づけば、考えるより先に言葉がこぼれていた。



「……それならこれから、少しだけ、その真面目な道を外れることを言います」



 手にしていた資料を机へ置く。高野先生の目を、まっすぐに見つめた。


 頭の中では、あの放課後から何度も聴いた『アイネクライネ』のメロディが流れている。



「私、あの日の放課後から、ずっと高野先生が好きでした」



 声が震える。


 それでも、目は逸らさなかった。



「先生としてじゃなくて、一人の男の人として。恋愛感情で、ずっと好きだったんです」



 高野先生の表情が、わずかに揺れる。



「生徒なのに、馬鹿みたいですよね。でも、本当に好きでした」



 一度、息を吸う。



「先生と出会えたことが、ずっと嬉しかったです。物理を教えてもらったことも、生徒会で一緒に過ごせたことも、何度も『橋本』って呼んでもらえたことも」



 涙で視界が滲み始める。



「この恋が叶わないことは分かっています。でも、先生を好きになったことまで、間違いだったことにはしたくないんです」


「橋本……」


「何も言わないでください!」



 先生の言葉を遮った。



「返事なら分かっています。先生の恋愛対象がどうとか以前に、先生と生徒の時点で叶わないなんて、最初から知っていましたから」



 一気にまくし立てる。涙が溢れそうになるのを、必死にこらえた。



「それに、騒ぎが起きた時も、怖くて何もできませんでした。先生に何も言えなかった。本当に不甲斐なかったです」


「橋本が謝ることじゃない」



 先生の静かな声に、胸が締めつけられる。



「それでも、最後に一つだけお願いがあります」



 両手を強く握りしめた。


 先生はいつも、私を「橋本」と呼んでいた。それだけでも、先生の声で呼ばれるたびに嬉しかった。



 廊下で呼び止められるたび。


 生徒会室で注意されるたび。


 自分だけが特別になったような錯覚を、何度も抱いた。



 けれど最後くらいは、生徒の橋本ではなく、1人の人間として呼んでほしかった。



「私のことを、一度だけ、名前で呼んでください」



 先生の顔を見ることができず、ぎゅっと目を閉じる。



「橋本じゃなくて、美晴って。それだけで、十分です」


 静寂が訪れる。



 図々しい。惨めだ。


 それでも、これが私のすべてだった。



 やっぱり忘れてください——そう言おうとした、その時。



「美晴」



 世界の誰が呼ぶよりも優しく、温かい声が、私の名前を呼んだ。


 あの日、初めて「橋本さん」と呼ばれた時から、ずっと心の奥で願っていた声。



 きっと、一生忘れない。



「美晴。ありがとう」



 視界が、涙で完全に滲んだ。けれど、その涙は悲しいだけのものではなかった。



 先生を好きになった日。


 大人の女性になろうと決めた日。


 叶わないと知り、枕を濡らした夜。


 何も言えずに先生の背中を見送った放課後。



 そのすべてを、先生の一言に受け止めてもらえたような気がした。



 恋は叶わなかった。


 それでも、私の気持ちは確かに届いた。



「よし。帰ろうか」


「……はい」



 夢のような時間が終わる。


 私は高野先生と一緒に、生徒会室を出た。薄暗い廊下を、2人で並んで歩く。


 下駄箱へ向かう道と、職員室へ向かう道が分かれる場所で、私は先生へ向き直った。


 深く頭を下げる。



「高野先生。本当に、本当にありがとうございました」


「これからも頑張れよ」



 先生は、職員室の方へ歩き出した。


 少しずつ遠ざかっていく背中を、見えなくなるまで目に焼きつける。



 私は、校舎を出る。


 私はスマートフォンを取り出し、イヤホンを耳へ挿した。再生ボタンを押すと、先ほどまで頭の中で流れていた『アイネクライネ』の続きが聞こえてくる。



 劇的な奇跡は起きなかった。


 私の恋が叶うこともない。



 私たちの間には越えられない立場の違いがあり、先生の心にも、簡単には消えない傷が残った。


 それでも、先生に出会わなければよかったとは思わない。



 あの放課後に声をかけてもらえたこと。


 先生を好きになったこと。


 苦しくて泣いた夜。


 何も言えず、遠ざかる背中を見送ったこと。



 そのすべてが、今の私を作っている。



 そして最後に、先生は私の名前を呼んでくれた。



「美晴」



 たった3文字の響きが、今も胸の奥へ残っている。



 叶わない恋だった。


 けれど、なかったことにしたい恋ではない。


 出会えたことを、これからも大切にしていたいと思える恋だった。



 流れるメロディに涙を預けながら、私は夕暮れの道を歩き出した。

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