第31話 初めての約束
旅に出てから、四か月が過ぎた。
最初の頃は、目の前にあるものを受け入れるだけで精一杯だった。
魔物と戦うことも、見たことのない景色の中を歩くことも、いつ命を落とすか分からない日々も。ゲームではなく、実際にその場に立ってみれば、そんな簡単に割り切れる話ではなかった。
傷は痛み、失った命は戻らない。
その重さを知るたび、不安に押し潰されそうになることもあった。
それでも、ここまで来られた。
怖くなったときには、必ず誰かが隣にいた。
前を向けなくなれば、リオルが何も言わずに歩幅を合わせてくれた。どうすればいいのか分からないときには、シエルが手を差し伸べてくれた。
三人で歩くことを繰り返すうちに、旅そのものが日常になっていった。
そんなことを考えながら歩いていたとき、前を行くリオルの背中に目が留まった。
何気なく顔を上げただけだった。
リオルが振り返る。
目が合った。
「あ……」
思わず声が漏れる。
慌てて視線を逸らし、何でもなかったように前を向いた。
一度速くなった鼓動は、なかなか元に戻らない。
どうして、こんなに意識してしまうのだろう。
自分でも理由が分からないまま歩いていると、隣から気配を感じた。
顔を上げる。
また、目が合った。
今度はリオルのほうが先に視線を逸らした。
そのことが妙に碧は嬉しかった。
後ろから、くすりと笑う声が聞こえた。
「お二人とも」
振り返ると、シエルが楽しそうに目を細めている。
「先ほどから、ずいぶん仲がよろしいですね」
「え?」
「目が合うたびに、お互い逸らしているでしょう」
「そ、そんなこと……」
否定しかけたところで、
「あるな」
リオルがあっさり認めた。
「リオルさん!?」
「事実だろ」
「だからって……!」
頬が熱くなる。
シエルはそんな二人を見比べる。
「少し安心しました」
「安心?」
「ええ。旅に出たばかりの頃は、お二人とも前を見るだけで精一杯でしたから」
碧は何も返せなかった。
確かに、あの頃とは違う。
隣にいる人の顔を見て、照れたり、笑ったりできる。
その変化が、なんだかたまらなく嬉しかった。
ふとリオルを見る。
また目が合った。
シエルが吹き出す。
「……シエルさん、見すぎです」
「すみません」
口では謝りながら、少しも反省していない顔だった。
三人は深い森の中を進んでいた。
今回の依頼は魔物討伐だった。事前の情報では、それほど危険な相手ではない。これまで経験してきた戦いに比べれば、難しい依頼ではないはずだった。
その油断が、隙を生んだ。
「右です!」
シエルの声に、碧が反射的に顔を上げた。
木々の隙間から、巨大な影が飛び出していた。
その先にいるのは、リオル。
彼はまだ気づいていない。
考えるより先に身体が動いた。
「リオルさん!」
足が地面を蹴る。
次の瞬間、凄まじい衝撃が身体を襲った。
息が詰まり、視界が大きく揺れる。
地面に叩きつけられたことだけは分かった。
肺から空気が抜けていく。
痛い。
何か言わなければと思うのに、声が出ない。
「アオイ!」
すぐ近くで、リオルの声がした。
駆け寄ってくる足音。
身体を起こされる。
「大丈夫か!」
答えようとしたけれど、喉から出たのは掠れた息だけだった。
「だい……じょうぶ……」
「大丈夫なわけがないだろ!」
怒鳴るような声に、碧は目を見開いた。
こんな声を聞いたことがなかった。
リオルは碧を抱き起こしたまま、苦しそうに眉を寄せている。
「どうしてだ……」
声が震えていた。
「どうして、お前が庇った」
碧は答えられない。
そんなことを考える暇などなかった。
リオルが危ない。
そう思った瞬間には、もう身体が動いていた。
「俺は勇者だ」
リオルが絞り出すように言った。
「戦うために選ばれたのは俺だ」
握った拳が震えている。
「……俺が傷つけばよかった」
碧はゆっくり首を振った。
「……リオルさんだったからです」
「……え?」
「勇者だからじゃありません」
痛みに顔をしかめながら、それでもリオルを見る。
「リオルさんだったから、助けたかったんです」
リオルの瞳が揺れた。
何か言おうとして、結局、言葉にならないまま唇を閉じる。
「話は後です」
シエルが二人のそばに膝をついた。
いつもの柔らかな表情はそこになかった。
「アオイ、少し我慢してください」
足元に魔法陣が広がる。
淡い光が傷を包み込み、張り詰めていた痛みが少しずつ引いていった。
シエルは治療の間、顔を上げようとはしなかった。傷を癒やす指先が、わずかに震えている。
やがて光が消えた。
シエルは長く息を吐き、ようやく碧の顔を見た。
「アオイ」
「……はい」
「お願いです。もう、自分を投げ出すような真似はしないでください。怖かったんです。大切な人を失うのかと思いました」
碧は黙ってシエルを見つめた。
返す言葉が見つからない。
「……もう大丈夫です。戻りましょう」
「あ……はい」
歩き出したシエルの背中を見つめる。ふと、碧は隣のリオルへ目を向ける。リオルの握り締めた拳から、血が滲んでいることに碧は気づいた。
森を抜ける頃には、空が赤く染まり始めていた。
三人で焚き火を起こし、食事の準備を始める。
その途中、碧は水袋を手に小川へ向かった。
せせらぎに耳を澄ませながら水を汲んでいると、背後から足音が近づく。
「アオイ」
振り返る。
「リオルさん」
「手伝う」
リオルは碧の隣にしゃがみ込み、水袋を受け取った。
「これくらいなら大丈夫ですよ」
「知ってる」
碧が目を瞬かせる。
リオルは水袋を満たしながら言った。
「お前が強いことも、無理をすることも」
「そんなに分かりやすいですか?」
「ああ」
水を汲み終え、リオルが顔を上げる。
「だから、目を離せない」
碧はうまく返事ができなかった。
リオルのほうが先に視線を逸らす。
「……守るって決めたからな」
その横顔を見ていると、胸が熱くなる。
「ずるいですよ」
「またそれか」
「またです」
「よく分からん」
「分からなくていいです。そのままでいてください」
リオルは困ったような表情で空を見上げる。
二人で水袋を持ち、焚き火のもとへ戻った。
食事を終える頃には、森はすっかり暗くなっていた。
薪がぱち、と小さく弾ける。
炎を挟んで座る三人の間には、いつものような会話がなかった。
碧は火を見つめながら、今日のことを思い返していた。
身体が動いたときのこと。
リオルの声。
シエルの震える指先。
どれも、まだ鮮明に覚えている。
隣から声がした。
「アオイ」
「はい」
リオルがこちらを見ていた。
炎に照らされた瞳は、真剣だった。
「俺は」
迷いで視線が揺れている。
「勇者だから、お前を守りたいんじゃない。一人の人間として……お前が傷つくのを見るのが嫌だ。いなくなるなんて、もっと嫌だ」
胸がきゅっとなる。
今日、碧も同じことを思った。
リオルが危ない。
その瞬間、身体が動いた。
あのときは、それ以上のことを考える余裕なんてなかった。
今なら、分かる。
いつからか、リオルのいる場所を自然と目で追うようになっていた。
目が合えば、嬉しいのに照れてしまう。
何かあれば、まずリオルに伝えたいと思う。
気づかないまま積み重なっていたものが、今日になって初めて輪郭を持った気がした。
名前をつけるのは、怖い。
ただ、もっとこの人の近くにいたい。
もう誤魔化せなかった。
「僕も、リオルさんの隣にいたいです」
うまく言葉にはできなかった。
張り詰めていたリオルの表情が、ほどけていく。
「……アオイ」
「はい」
「好きだ」
飾り気のない言葉が、真っ直ぐ胸に届いた。
碧は目を見開き、それから笑った。
「僕もです」
答えた途端、二人とも急に照れくさくなった。
同時に視線を逸らす。
「……魔物と戦うほうが楽でした」
「俺もそう思う」
「ですよね」
二人の笑い声が重なる。
リオルが膝の上で手を握ったり開いたりしている。何度か迷ったあと、そっと手を伸ばした。
「アオイ」
「はい」
「手……つなぐぞ」
碧は思わず笑った。
「もちろんです」
指先が触れる。
手を重ねると、互いの緊張が伝わってきた。
リオルが繋いだ手を見つめる。
顔を上げ、碧を見る。
「アオイ」
「はい」
「……触れてもいいか」
その意味が分かって、碧の頬が熱くなる。
「はい」
リオルが距離を縮める。
唇がそっと触れる。
離れたあと、二人とも何も言えなくなる。
「……照れますね」
「ああ」
繋いだ手は、そのままに見つめあっていた。
少し離れた場所で、シエルは二人を見ていた。
胸の奥に、痛みが走る。
自分も、あの場所に立ちたいと思ったことがある。
アオイが笑っている。
リオルも、嬉しそうに笑っている。
その姿を見つめていると、無理に笑顔を作る必要はないと思えた。
痛みはすぐには消えそうにない。
それでも、二人が幸せならそれでいい。
シエルは、焚き火へ薪を一本くべた。
「……よかったですね」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
しばらくして、碧が繋いだ手を見つめながら口を開いた。
「魔王を倒したら」
「うん」
「また、こうして三人で旅ができますか?」
「ああ」
リオルは強く頷く。
「約束する」
「シエルさんも?」
「もちろんです。また三人で歩きましょう」
焚き火が、ぱちりと弾けた。
三人は、その約束を疑わなかった。
魔王を倒したあとも、こうして笑える日が続く。
今日と同じように、くだらないことで笑って、疲れたら足を止めて、また三人で歩いていく。
そんな未来が、当たり前に続いていくのだと思っていた。
だから、この夜の約束を。
三人とも、忘れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます