音声だけが三十七秒ズレている
白瀬灯莉は、画面の中よりずっと疲れて見えた。
国民的S級探索者。
白いジャケットが似合う、明るくて、強くて、コメント欄の誰にでも笑顔を返す女の子。
そういう像は、駅裏の古いコインランドリーには置いてこられたらしい。
灯莉は隅のベンチに座り、両手で紙コップを包んでいた。中身はコンビニのホットミルク。手が少し震えている。
「三雲透也さん、ですよね」
「元、映像校閲係です」
「元?」
「あなたの件を調べたらクビになりました」
灯莉は目を丸くしたあと、申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません」
「謝るところじゃないです。どうせいつかクビになってました」
「それ、慰めになってます?」
「自分向けには」
少しだけ、彼女の口元が緩んだ。
その笑い方は、配信で見るものと違っていた。
AKARI CHANNELの白瀬灯莉は、目元まで光を入れて笑う。疲れていても、怖くても、視聴者が安心できる角度を知っている。カメラの前に立つために鍛えた笑顔だ。
今の灯莉は、ただの二十二歳だった。
叩かれすぎて、まだ自分が笑っていいのか分からない顔をしている。
俺はその顔を、なるべく見ないようにした。
人の傷を見るのは、映像の傷を見るよりずっと難しい。
俺は向かいの席に座り、ノートPCを開いた。会社の端末はもう使えない。だが昨日の時点で、検証用に落としておいた低解像度の波形データと公開済み切り抜きは残っている。
違法ではない。
たぶん。
「最初に確認します。あなたは霧島透子さんを見捨てていない」
灯莉の顔から、笑みが消えた。
「見捨ててません」
「では、あの切り抜きは嘘です」
断定すると、灯莉はかえって泣きそうな顔をした。
世間から信じてもらえない人間は、信じると言われてもすぐには受け取れない。たぶん、疑われる準備ばかりしてしまうからだ。
「証明できますか」
「できます。ただし、あなたが覚えていることと、映像に残っていることを分けて考える必要があります」
「記憶も疑うんですか」
「映像も疑います」
俺は切り抜き動画を再生した。
十二秒。
何度見ても短い。
人ひとりを社会的に殺すには、十分すぎるくらい短い。
「ここです」
灯莉の背中が映る。奥から救助要請。
『灯莉、待って、足が』
「この声、霧島さんで間違いありませんか」
灯莉は唇を噛んだ。
「声は、透子さんです。でも、あの言い方はしません」
「なぜ」
「透子さんは、配信中に私を本名で呼ばない。事故防止のために、現場では必ずコードネームを使う決まりでした。私はライト、透子さんはミスト」
俺はメモに書き込んだ。
「ひとつ目。呼称が違う」
次に音声波形を開く。
「ここを見てください。灯莉さんの足音は、右足を引きずっていない。速度も落ちていない。映像ではあなたは走っています」
「はい」
「でも救助要請の声に混じっている足音は、片足を引きずっています。つまり、声が録られた場所には、別の動作があった」
灯莉は画面に顔を近づけた。
「これ、分かるんですか」
「毎日、配信者の嘘と編集者の雑さを見ていたので」
「嫌な専門性ですね」
「飯の種でした」
俺は動画を三十七秒前の元配信位置に合わせた。
公開切り抜きでは消されている箇所。会社の検証キャッシュから拾った、音声だけの断片だ。
そこには、灯莉の短い叫び声が入っていた。
『ミスト、先に行って!』
そして霧島透子の声。
『分かった。出口側で合流』
灯莉が息を呑んだ。
「これ、残ってたんですか」
「音声だけです。映像は上書きされています」
「上書き?」
「普通はそう呼びません。アーカイブの映像トラックだけが、後の時間のものに差し替わっている。音声は断片的に残っている。だから三十七秒ズレた」
「誰がそんなことを」
俺は答えなかった。
人間なら、目的は灯莉を炎上させること。
だが、あの白い手は違う。
霧島透子の死亡を確定させたいのか、逆に未確定だと知らせたいのか。まだ分からない。
「もう一度、あの手の場面を見ます」
灯莉の肩が強張った。
「大丈夫です。見なくても」
「見ます」
彼女は紙コップを置いた。
画面端。
黒い水路。
三秒後の虚像。
白い手が伸びる。
灯莉の顔が青くなる。
けれど彼女は目を逸らさなかった。
「これ、透子さんの手じゃありません」
「分かりますか」
「分かります。透子さんは、右手の小指に古い傷があります。これは、ない」
俺は動画を止めた。
喉の奥が乾く。
死んだ探索者の手だと思っていたものは、霧島透子の手ではない。
なら、誰の手だ。
灯莉は画面から目を離さない。
「でも、動きは透子さんに似ています」
「動き?」
「手招きするとき、透子さんは指を全部曲げないんです。人差し指だけ、少し遅れる。昔、右手を怪我したせいで」
俺は映像を一コマずつ戻した。
白い手。
傷のない小指。
しかし、人差し指だけが遅れて曲がる。
形は別人。
癖は霧島透子。
誰かが、彼女の動きだけを貼り付けている。
人間の編集なら気味が悪い。
人間でないなら、もっと悪い。
そのとき、コインランドリーの洗濯機が一斉に止まった。
店内のモニターに流れていた天気予報が、黒い水路の映像に変わる。
そしてコメント欄だけが、画面の下から湧き上がった。
:三秒戻してみろ
:三秒戻してみろ
:三秒戻してみろ
灯莉が短剣の柄に手を伸ばす。
俺は画面を見たまま言った。
「戻すな」
次のコメントが出た。
:もう戻した
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