第二章 第五話 軽くなった人の運命【七森初子】

 最初に異変に気づいたのは、七森初子だった。


 ある朝、お堂で、おばばが題目の一節を思い出せなくなった。


「あれ……次は、なんだったかね」


 何十年と唱えてきた題目だ。おばばが詰まるなど、これまで一度もなかった。


「おばば様、しっかりなさってください」


 七森は慌てて、続きを口にした。おばばは「ああ、そうだったね」と頷いたが、その様子はどこか他人事のようだった。


 翌日には、お堂への道順が怪しくなった。


 長年、毎日歩いてきた道だ。なのに、おばばは途中で立ち止まり、きょとんとした。


「こっちで、よかったかね」


「おばば様……」


 七森は、背筋が寒くなった。


 ——痴呆だ。


 そう思った。


 何十年も唱えてきた題目を忘れ、毎日通った道を忘れる。年寄りが、こうなることはある。誰かれとなくそうなる。だが、それがよりによって、おばば様に起きている。


 奇妙だったのは、おばば自身が、少しも苦しんでいないことだった。


 物忘れに気づくと、ふつう年寄りは怯える。自分が壊れていくのが怖くて、取り乱す。だが、おばばは違った。題目を忘れても、道を忘れても、どこか平然としていた。


 それどころか、近ごろのおばばは——軽かった。


 長いあいだ、おばばはいつも、何かに追い立てられているような人だった。お勤めを欠かすことを、異様なほど恐れていた。一日でもお堂を休もうものなら、烈火のごとく怒った。その執着が、近ごろ、嘘のように薄れていた。


 休んでも、平気な顔をしている。題目を忘れても、慌てない。


 まるで、長いあいだ背負っていた重い荷物を、いつのまにか下ろしてしまったような——そんな、穏やかさだった。


 七森には、それが、よけいに恐ろしかった。


 恐れるべきことを、おばばは恐れなくなっていた。



 そしてついに、おばばはお勤めができなくなったことが村に知れ渡った。


 題目を、もう最初から思い出せない。お堂への道も、一人では辿れない。身の回りのことにも、少しずつ手がかかるようになった。


 宗教の中枢を担う者として、それは致命的だった。


 題目を唱えられない者が、村の宗教を束ねることはできない。村人たちの、おばばを見る目が、潮が引くように変わっていった。


 あれほど神聖視していたのに。あれほど畏れていたのに。お勤めができなくなった途端、村人はおばばを、ただの「一人で暮らせなくなった年寄り」として扱い始めた。


 七森は、その変わり身の速さに、ぞっとした。


 村が敬っていたのは、おばば本人ではなかった。おばばが果たしていた役割だけだったのだ。役割を果たせなくなれば、人はこうも簡単に、ただの厄介者になる。


 ——では、自分も。


 七森は、その考えを、慌てて打ち消した。


 やがて、村の掟に従って、おばばを世話処へ送ることが決まった。


 連行の日が来た。


 世話処へ送られるということが、何を意味するか、七森も浮嶋も知っていた。二度と戻らない。半年で、葬儀が出る。死の場所へ、送り出すのだ。


 だから、二人は覚悟していた。おばばが取り乱すだろうと。すがりつき、泣き、行きたくないと暴れるだろうと。これまで、そうやって連れていかれた者を、何人も見てきた。あの場所の意味を知る者は、皆そうなる。


 ところが——おばばは、穏やかだった。


 世話人に促されて車に乗るときも、恐れるそぶりひとつ見せなかった。すがりもしない。泣きもしない。まるで、ちょっとそこまで出かけるとでもいうように、静かに座っていた。


「おばば様……」


 七森は、声をかけずにいられなかった。


「あの場所が、どういう場所か……分かって、いらっしゃいますか」


 おばばは、七森を見て、不思議そうな顔をした。


「どういう場所も、何も。世話をしてもらえる場所だろう」


 何も、恐れていなかった。


 死を恐れない者の、底の知れない穏やかさ。それが、七森の背筋を凍らせた。


 なぜ。あの場所へ行くというのに。なぜ、おばば様は、こんなにも——。


 浮嶋も、隣で青ざめていた。


 車が走り去ったあと、七森と浮嶋は、しばらく言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る