第二章 第五話 軽くなった人の運命【七森初子】
最初に異変に気づいたのは、七森初子だった。
ある朝、お堂で、おばばが題目の一節を思い出せなくなった。
「あれ……次は、なんだったかね」
何十年と唱えてきた題目だ。おばばが詰まるなど、これまで一度もなかった。
「おばば様、しっかりなさってください」
七森は慌てて、続きを口にした。おばばは「ああ、そうだったね」と頷いたが、その様子はどこか他人事のようだった。
翌日には、お堂への道順が怪しくなった。
長年、毎日歩いてきた道だ。なのに、おばばは途中で立ち止まり、きょとんとした。
「こっちで、よかったかね」
「おばば様……」
七森は、背筋が寒くなった。
——痴呆だ。
そう思った。
何十年も唱えてきた題目を忘れ、毎日通った道を忘れる。年寄りが、こうなることはある。誰かれとなくそうなる。だが、それがよりによって、おばば様に起きている。
奇妙だったのは、おばば自身が、少しも苦しんでいないことだった。
物忘れに気づくと、ふつう年寄りは怯える。自分が壊れていくのが怖くて、取り乱す。だが、おばばは違った。題目を忘れても、道を忘れても、どこか平然としていた。
それどころか、近ごろのおばばは——軽かった。
長いあいだ、おばばはいつも、何かに追い立てられているような人だった。お勤めを欠かすことを、異様なほど恐れていた。一日でもお堂を休もうものなら、烈火のごとく怒った。その執着が、近ごろ、嘘のように薄れていた。
休んでも、平気な顔をしている。題目を忘れても、慌てない。
まるで、長いあいだ背負っていた重い荷物を、いつのまにか下ろしてしまったような——そんな、穏やかさだった。
七森には、それが、よけいに恐ろしかった。
恐れるべきことを、おばばは恐れなくなっていた。
*
そしてついに、おばばはお勤めができなくなったことが村に知れ渡った。
題目を、もう最初から思い出せない。お堂への道も、一人では辿れない。身の回りのことにも、少しずつ手がかかるようになった。
宗教の中枢を担う者として、それは致命的だった。
題目を唱えられない者が、村の宗教を束ねることはできない。村人たちの、おばばを見る目が、潮が引くように変わっていった。
あれほど神聖視していたのに。あれほど畏れていたのに。お勤めができなくなった途端、村人はおばばを、ただの「一人で暮らせなくなった年寄り」として扱い始めた。
七森は、その変わり身の速さに、ぞっとした。
村が敬っていたのは、おばば本人ではなかった。おばばが果たしていた役割だけだったのだ。役割を果たせなくなれば、人はこうも簡単に、ただの厄介者になる。
——では、自分も。
七森は、その考えを、慌てて打ち消した。
やがて、村の掟に従って、おばばを世話処へ送ることが決まった。
連行の日が来た。
世話処へ送られるということが、何を意味するか、七森も浮嶋も知っていた。二度と戻らない。半年で、葬儀が出る。死の場所へ、送り出すのだ。
だから、二人は覚悟していた。おばばが取り乱すだろうと。すがりつき、泣き、行きたくないと暴れるだろうと。これまで、そうやって連れていかれた者を、何人も見てきた。あの場所の意味を知る者は、皆そうなる。
ところが——おばばは、穏やかだった。
世話人に促されて車に乗るときも、恐れるそぶりひとつ見せなかった。すがりもしない。泣きもしない。まるで、ちょっとそこまで出かけるとでもいうように、静かに座っていた。
「おばば様……」
七森は、声をかけずにいられなかった。
「あの場所が、どういう場所か……分かって、いらっしゃいますか」
おばばは、七森を見て、不思議そうな顔をした。
「どういう場所も、何も。世話をしてもらえる場所だろう」
何も、恐れていなかった。
死を恐れない者の、底の知れない穏やかさ。それが、七森の背筋を凍らせた。
なぜ。あの場所へ行くというのに。なぜ、おばば様は、こんなにも——。
浮嶋も、隣で青ざめていた。
車が走り去ったあと、七森と浮嶋は、しばらく言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。
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