第二章 いじめられっ子、宗教と対峙する
第二章 第一話 連れていかれる朝【天野直美】
加賀小百合が村を出ていってから、数日が過ぎていた。
その数日は、直美がこの村へ来てから一番、静かな時間だった。誰も訪ねてこない。誰も上がり込んでこない。朝に起きて、湯を沸かし、買い置きの食材で簡単なものを作り、必要があれば村外れの電波の立つ場所まで歩く。それ以外は、ほとんど家の中にいた。
直美にとって、それは理想に近い暮らしだった。
この数日で、直美はまず家の周りに小さなセキュリティカメラをいくつか取り付けた。玄関、勝手口、家の四隅。どれも目立たないように、軒の影や植え込みの陰に仕込んだ。小百合さんも宗教には気をつけるように言っていたので、まずは誰がいつ近づいたかは把握しておきたかった。
ただ、物理的な備えのほうは、後回しになっていた。
玄関の戸は古い木の引き戸で、鍵はあるが心もとない。錠前を新しいものに替えようと部品だけは取り寄せてあったが、まだ届いていない。カメラは設置したので、部品が届くまでの間はどうにかなるだろうと油断していた。
その油断を、直美はこの朝、思い知ることになる。
朝食をとろうとしていたときだった。けたたましいチャイムの音が、家じゅうに響いた。
一度ではない。連打だった。指を押し当てたまま離さないような、苛立ちと当然の権利が混ざった鳴らし方だった。
直美は箸を置いた。
「……誰?」
居間の隅に置いた小さなモニターを覗くと、玄関先に三人の老女が立っていた。
真ん中の一人が、チャイムのボタンを押し続けている。両脇に二人。一人は痩せて背が高く、もう一人は骨太でがっしりしている。三人とも、訪問というより捕り物に来たような顔をしていた。
「居るのは分かっているよ!」
真ん中の老女が、戸に向かって叫んだ。
「出てきなさい。居留守なんて通らないよ」
直美は息を詰めた。
カメラには、老女たちの背後の道も映っている。少し離れたところを、買い物袋を提げた村人が通りかかった。老女たちのほうを一度見て——そのまま、何ごともないように通り過ぎていった。
直美は、その一瞬を見逃さなかった。
止めないのだ。誰も。
この三人がこうして他人の家の戸を叩き、叫んでいることを、村の人間は異常だと思っていない。むしろ、見て見ぬふりをするのが正しい作法だとでもいうように、目を伏せて通り過ぎていく。
それが、何より雄弁だった。
居留守を使おうかと、一瞬思った。だが、戸の薄さを思い出してやめた。この勢いなら、応答がなければ戸を破ってでも入ってきかねない。古い引き戸の錠は、本気で体当たりされれば持たない。中まで踏み込まれて、見せたくない機材のあれこれの部屋まで入られる方が、よほど嫌だった。
仕方なく、直美は立ち上がった。
肩を落とし、背を丸め、足取りを重くする。前髪を指で軽く下ろして、目元を隠す。
弱く見せること。それだけは、考えるより先に体が整える。
戸を開け、外に出た。
「……あの、何か、ご用でしょうか」
掠れた、頼りない声を作る。
真ん中の老女が、ぎろりと直美を見た。皺の刻まれた顔の中で、目だけが妙に強い。
「あんたが、新しい住人だね」
「は、はい……あの、はじめまして。わたし、天野——」
自己紹介をしない非礼で帰ってくれる類の人たちだとは思えなかったので、自己紹介をしようと思ったが、
「そんなことはどうでもいい」
老女は直美の言葉を断ち切った。
「ついてきなさい」
そして、直美の腕を掴んだ。
驚くほど強い力だった。枯れ枝のような腕からは想像もつかない握力で、直美の手首を捕らえる。
「え……っ、あ、朝ごはん、まだ……」
「そんなことはどうでもいい。帰ってきてから食べなさい」
ぐい、と引かれる。
「あの、家の鍵……」
「そんなことはどうでもいい。この村に泥棒なんていやしない。鍵なんかかけないで、今すぐ来なさい」
問答無用だった。
直美は引きずられるようにして、道へ連れ出された。振りほどこうと少し力を入れてみたが、老女の握りは緩まない。本気で抵抗すれば振りほどけたかもしれないが、それをすれば「弱い新参者」という擬態が崩れる。直美は抵抗を諦め、連れていかれるままになった。
道の先に、古びたワンボックスのバンが停めてあった。後部座席に押し込まれ、両脇を二人の取り巻きに挟まれる。
走り出した車の中で、直美は黙ってやりとりを聞いていた。
「おばば様、この子で間違いないんですよね」
痩せたほうが言った。
「役場から聞いたとおりだろう。一人で越してきた若い女。ほかに誰がいるんだい、七森」
「そうですけど……ずいぶん大人しい子で」
「大人しいのが一番たちが悪いんだよ。何を考えてるか分からないからね。浮嶋、あんたもしっかり見ておきなさい」
「はい、おばば様」
骨太なほうが、低い声で答えた。
直美は、その会話から三人の呼び名を拾った。
真ん中の、腕を掴んだ老女が「おばば」。痩せたほうが「七森」、骨太なほうが「浮嶋」。自己紹介などというものは、最初からなかった。
窓の外を、見慣れない景色が流れていく。やがて杉木立の奥に、古い社のような建物が見えてきた。お堂、と村人が呼んでいるものらしかった。
「小百合さん」
直美は、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「気をつけろって言われても……こんなの、気のつけようがありません」
車は、お堂の前で止まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます