第12話 影(転生6日目)、歓喜する

茜色から群青色へと移り変わる夕方。

影宮夜乃かげみや よるのは、ヒールの音を響かせて歩いていた。


人通りの途絶えた、薄暗い路地裏。

彼女の意識は、ただ一人の存在だけを、世界で最も尊き我が主だけを追い求めていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇


気づけば、夜乃は街灯の並ぶ夜道を一人で歩いていた。

見たこともない、見慣れない景色の街。

自分のものではない、見知らぬ人間の少女の身体。

魔力の薄い、未知の異世界。


だが、不思議と混乱はなかった。

他人の記憶のデータを読み込むように、この世界の言葉はすぐに理解できた。歩き方も、人間社会の精緻な仕組みも、脳が勝手に把握していく。

そして何より。


自分が『何者』であるのかを、魂が完璧に記憶していた。

――私は魔王様の左腕から生まれた『影』。

それこそが自分。魔王様の影であり、魔王様に仕えるためだけに存在する忠実な下僕しもべ

それ以外の事象など、彼女にとっては道端の石ころと同義、どうでもいいことだった。


「ねぇねぇ、そこのお姉さん!」

知らない人間の男が声をかけてきた。

派手な衣服に身を包み、軽薄な笑みを浮かべた若い男。いわゆる、夜の仕事(スカウト)の勧誘というやつだ。

「お姉さん、名前は? 聞かせてよ」


男が馴れ馴れしく顔を覗き込んでくる。

夜乃は少しだけ思考を巡らせた。すると、この肉体の記憶から、自然と一つの名が浮かび上がる。

「……影宮夜乃かげみや よるの、と申します」

男は「ぷっ、何それ、源氏名? カッコいいね!」と大層ご満悦に笑った。


偽名だと思ったらしいが、別に構わない。本名など、魔王様以外の前で名乗る必要などないのだから。

それから、夜乃は人間の街で働いた。

夜の街の、いわゆるキャバクラのような店だ。

華やかに装い、酒を酌み交わし、下卑た会話に相槌を打つ。ただそれだけの、極めて簡単な仕事。


しかし、この脆弱な『人間』という生物を観察するには、これ以上ない格好の実験場だった。

観察すればするほど、本当に面白かった。

人間という生き物は、実に、実に愛らしい。

弱く、脆く、そして――驚くほど簡単に、内側から壊れていく。


「……結局、俺の方が何倍も優秀なんだよ。なのに、なんであいつばっかり評価されんだよ……っ」

ある夜、エリート崩れの男が、グラスを握りしめて愚痴を零した。

夜乃は、聖母のように優しく微笑み、その男の手元へそっとグラスを差し出す。


「ええ、本当に……。可哀想に、貴方は何も悪くありませんのにね」

ただ、それだけ。


その一言と共に、男の魂の底にある濁った感情(闇)を、彼女の能力でほんの少しだけ『撫でて』あげたのだ。

――翌日。その男は職場で理性を失って暴れ、会社を現行犯でクビになった。


「私はこんなに家族のために頑張っているのに! なんで妻も子どもも、俺を冷たい目で見るんだ!」

また別の夜、中年の男が涙を流して憤慨した。

夜乃は、静かに寄り添い、慈悲深い瞳で頷いてあげる。

「まぁ……お辛かったのですね。貴方の頑張りを理解できないなんて、悲しいことですわ」

それだけだった。


――翌日。その男は自宅で逆上し、妻と子に激しい暴力を振るう。

(前話までで勇者・涼が直面した『怪異の事件』の裏で、夜乃が無自覚に撒き散らしていた闇の種である)


夜乃自身は、物理的には何もしていない。

ただ、人間の心の奥底に眠る【嫉妬】【怒り】【憎悪】【劣等感】【絶望】――。

この世界の人間は、実に簡単、単純で意志が弱い。

――つまらない。

負の感情を、勝手に自分の中で増幅させ、勝手に自滅し、勝手に闇へと堕ちていく。それらの闇のエネルギーの引き金を、ほんの少しだけ指先で弾いてあげただけ。

そう、だけ。

それこそが、魔王様の【影】としての夜乃の固有スキル:無明増殖カラミティ・マルチプライ


「人間とは、本当に可愛らしくて退屈な生き物ですね」

夜乃はくすくすと、鈴の鳴るような声で笑う。


それは、決して獲物をいたぶる肉食獣の目ではない。

庭にいるアリの巣を、棒切れで突っついて観察している子供のような、純粋無垢で、それゆえに狂気的な笑顔だった。

だが。


そんな人間の生死など、今となっては天地がひっくり返ってもどうでもいい。


――魔王様。あなたは何処に。


 ◇ ◇ ◇ ◇


――そしてそれは、一瞬のことだった。


大気が、世界そのものが、ビリビリと拒絶反応を起こすように震える。


(――ッ!?)


夜乃はガタッとその場に立ち止まる。

胸が爆発しそうなほど高鳴り、呼吸が止まり、全身の血液が沸騰した。


(感じる)


この、肌を、魂をビリビリと突き刺すような、【魔力】を。

脳髄を直接揺さぶる、恐ろしくも懐かしい、全一支配の王の覇気を。

かつて一世界を恐怖のどん底に叩き落とした、あの『魔王』の波動を感じていた。


涙が、ボロボロと溢れ出す。

唇が、歓喜のあまり引きつるように笑みを象る。


「ああ……、ああ……っ!!」


足から一気に力が抜け、その場に崩れ落ち、膝をつきそうになる。

だが、そんな醜態すら愛おしい。


(間違いない。この覇気、この絶対の恐怖の質感――我が主、魔王様)


夜乃は、恍惚とした、狂信的な表情で夜空を見上げた。

それは、神からの啓示(神託)を授かった狂信徒の姿、そのもの。

いや、それ以上の。

彼女にとって魔王は、神をも容易く屠る存在なのだから。


「魔王様……っ」


声が、ガタガタと震える。

押し寄せる圧倒的な歓喜で。爆発しそうなほどの幸福で。胸が引き裂かれそうなほどの愛しさで。


「ようやく……ようやく、ふふ、ふふふふ……っ!」


夜乃は、静かに、妖艶に笑った。

その笑みは、息を呑むほどに美しかった。

通りすがりの男であれば間違いなく魂を奪われ、女であっても思わず見惚れてしまうような、完璧な造形。


だが。その笑顔を、正面から、至近距離で凝視した者がいたならば。

本能的な恐怖で総毛立ったに違いない。

その瞳の奥は何かが、決定的に狂っていた。

美しさの裏側に張り付く、底知れない違和感。


夜乃は、自らの白い手で愛らしい口元を押さえた。

しかし、指の隙間から、堪えきれない笑い声が次々と漏れ出してしまう。抑えようとしても、肉体が言うことを聞かない。

ただ、嬉しくて、愛おしくて、仕方がなかった。


(逢いたい)


今すぐ、あの方の元へと馳せ参じたい。

その場に跪き、その尊き御足に触れ、頭を垂れたい。

地獄の底から響くようなあの声を聞きたい。


「――魔王様」


その名前を脳裏に思い浮かべるだけで、彼女の魂の全てが満たされていく。


「ああ……、やはり……。やはり、いらっしゃったのですね……」


その響きは、甘い。どこまでも優しく、慈愛に満ち満ちている。






元・魔界の狂信的な影(幹部)が、ついに魔王の足跡を捉えた。

勇者(涼)と魔王(誠司)、そしてこの狂える影(夜乃)の三つ巴の運命が、現代日本を舞台に、シナリオ(人間の闇と戦う)へと加速していく。

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