第12話:揺れる境界線
冬の寒さが本格的になり、オフィスの窓から見える街並みもすっかりコートの色に染まる頃。陸は、配属以来初めてと言っていいほどの大きなミスを経験していた。
海外のサプライヤーとの新規案件において、陸が見積もりの工数計算を一部見落としていたのだ。
このまま進んでいれば、のちに会社として大損害を被るところだった。しかし、提出直前に雅が違和感に気づき、迅速に修正の指示を出したため、未然に大損害を免れることができた。事なきを得たものの、自身の甘さを痛感した陸のショックは大きく、いつもハキハキとしていた彼の背中が、デスクの前で目に見えて小さくなっている。
定時を過ぎ、フロアの人間が徐々にまばらになり始めた。雅は周囲の目をそれとなく意識しながら、自席を立って給湯室へ向かう動線で、さりげなく陸の席の横を通った。すれ違いざま、他の部下には聞こえないような静かな声で、そっと声をかける。
「一ノ瀬くん、今日の20時、空いてる?……もし良ければ、少し付き合って。おいしいおでん屋さんを見つけたの」
やってきたのは、湯気が優しく立ち上るこぢんまりとしたお店だった。
最初は「自分の確認不足で、本当にすみませんでした……」とひたすら縮こまっていた陸だったが、雅が一切彼を責めず、具体的な対策と「誰にでも最初はあるわ」という自身の失敗談を優しく語るうちに、次第にいつもの柔らかい表情を取り戻していった。
「チーフは、本当にすごいです。仕事も完璧だし、僕が落ち込んでるのも、すぐ見抜いちゃうし……」
熱い出汁割りのグラスを両手で持ちながら、陸がしみじみと呟く。その真っ直ぐな尊敬の眼差しが、雅に向けられた。
「完璧なんかじゃないわよ。私も昔はたくさん泣いたもの」
雅はふっと視線を落とし、微笑んだ。お酒の温かさも手伝ってか、その時の雅の表情には、いつものオフィスでの張り詰めた空気が一切なかった。少しだけ緩んだ目元、白く繊細な指先がグラスをなぞる仕草。
その瞬間、陸の胸の奥で、カチリと音がした。今まで「雲の上の偉大な上司」として仰ぎ見ていた雅の姿が、どうしようもないほどに「一人の魅力的な女性」として、陸の瞳に映り込んでしまったのだ。尊敬の念が、グラデーションのように、もっと別の熱を持った感情へと形を変えていく。
「チーフ……僕、もっと頼りになる男になります。……雅さんを、支えられるくらいに」
熱い感情が溢れるあまり、陸は無意識に彼女のファーストネームを口にしていた。
「あ……っ、すみません! 違います、その、赤石チーフを、です! 本当に申し訳ありません……!」
自分の失言にハッと我に返った陸は、顔を真っ赤にして激しく動揺し、何度も頭を下げて謝罪した。
「ふふ、いいわよ、お酒の席なんだから」
雅は優しく微笑んで引き取ったものの、トクン、と胸が高鳴るのを隠せなかった。自分の名前を呼んだ彼の声の響きが、あまりにも自然で、そして心地よかったからだ。
これまで20年以上、誰も踏み込ませなかった自分の心の最深部に、陸という存在が、あまりにも自然に滑り込んでくる。年齢の差も、立場の違いも、この胸のあたたかさの前では意味を成さないような気がしてくる。それは、今まで経験したことのない、新しくて少し恐ろしいほどの特別な意識だった。
お互いにまだ、一線を越えるような言葉はこれ以上口にしない。けれど、2人の間に流れる空気は、ただの上司と部下のそれから、確実にもう一歩、深い場所へと足を踏み入れていた。
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