第38話 白い花


黄泉の奥に。

白い花が咲いていた。

ひとつ。

またひとつ。

闇の中で。

音もなく。

開いていた。

光はない。

風もない。

香りもない。

それでも。

その白は。

闇に混ざらなかった。

イザナミは。

それを見ていた。

何も思わなかった。

美しいとも。

哀れとも。

愛しいとも。

思わなかった。

何かを思うところは。

もう。

壊れていた。

火に焼かれた時。

ひとりで死んだ時。

黄泉で。

伸ばした手が。

届かなかった時。

イザナミの内にあったものは。

音もなく。

崩れた。

怒りも。

悲しみも。

恨みも。

あまりに深く。

あまりに重く。

形を失った。

だから。

何も感じなかった。

ただ。

黄泉に座していた。

一日に千。

そう言ったのは。

自分だった。

怒りのまま。

痛みのまま。

石の向こうへ。

吐き出した言葉。

けれど。

言ったのなら。

受け止める。

呼んだのなら。

迎える。

それだけだった。

慈しみではない。

赦しでもない。

ただ。

自分の言葉を。

自分で捨てぬために。

イザナミは。

黄泉にいた。

白い花のそばに。

幼い声が残っていた。

母を呼ぶ声。

泣き疲れて。

それでも。

帰ろうとする声。

小さな指が。

誰かの衣を。

掴もうとした気配。

そこには。

終わりだけではなく。

生きていた時の。

ぬくもりがあった。

別の花には。

怒りがあった。

なぜ。

なぜ自分が。

まだ。

やることがあった。

まだ。

言えぬ言葉があった。

その叫びは。

花びらの奥で。

小さく震えていた。

また別の花には。

笑い声があった。

火のそばで。

分け合った食べ物。

土を踏んだ足。

名を呼ばれて。

振り返った一日。

誰かの手が。

肩に触れた記憶。

短い。

けれど。

確かにあった幸せ。

イザナミは。

それらを見た。

見ようとしたのではない。

花がそこにあり。

声がそこに残っていた。

黄泉へ来るものは。

死だけを持ってくるのではなかった。

泣いた日を。

怒った日を。

笑った日を。

誰かを守ろうとした日を。

誰かに守られた日を。

抱えたまま。

ここへ来る。

イザナミの内で。

遠いものが。

かすかに動いた。

かつて。

自分は。

生まれるものを見ていた。

形なきものが。

形を得る時。

そこに手を添えていた。

命が生まれるたび。

その重さを。

自分のものとして。

受け止めていた。

国が生まれ。

神が生まれ。

名が生まれるたび。

イザナミは。

そこにいた。

そういう神だった。

それは。

もう失われたと思っていた。

黄泉へ落ちた日に。

焼けた身体と一緒に。

砕けて。

戻らぬものになったと。

思っていた。

けれど。

白い花の前で。

その欠片が。

ほんの少し。

息をした。

人の子は弱い。

花に残る声は。

どれも。

震えていた。

怖い。

帰りたい。

許せない。

会いたい。

生きたかった。

それでも。

その声の奥には。

道があった。

倒れたあと。

膝をついた跡。

泣いたあと。

土を掴んだ跡。

小さな火を。

守った跡。

空腹の中で。

誰かへ食べ物を。

分けた跡。

失っても。

次の朝へ。

足を向けた跡。

白い花は。

それを抱いていた。

静かに。

何も語らず。

ただ。

そこにあった。

イザナミは。

花を見続けた。

焼かれた痛みは。

消えない。

戻らなかった足音も。

届かなかった手も。

自分ではない方へ向いた目も。

消えない。

消えるはずがない。

けれど。

花の嘆きに触れるたび。

花の怒りに触れるたび。

花の中に残った幸せに触れるたび。

イザナミの中で。

凍りついていたものが。

ほんの少しずつ。

沈んでいった。

なくなるのではない。

薄れるのでもない。

ただ。

荒れ狂う場所を。

失っていった。

苦しみは。

自分ひとりのものではなかった。

花たちは。

そう言わなかった。

けれど。

その白さが。

そう語っていた。

人の子は。

神ではない。

弱く。

迷い。

傷つき。

失う。

それでも。

自分の足で。

道を開いてきた。

誰かの名を呼び。

誰かに名を呼ばれ。

泣きながら。

怒りながら。

笑いながら。

生きてきた。

イザナミは。

その声を。

拒まなかった。

冷えきった内側に。

ひとつ。

またひとつ。

白い花の気配が。

落ちていく。

かつての自分は。

もう戻らない。

黄泉へ落ちる前の女神には。

戻れない。

けれど。

失われたものだけで。

終わらなくてもいい。

イザナミは。

ゆっくり。

立ち上がった。

誰かに支えられたのではない。

誰かに呼ばれたのでもない。

自分の足で。

黄泉の奥に。

立った。

痛みを抱いたまま。

怒りを抱いたまま。

悲しみを抱いたまま。

それでも。

立てる。

そう知った。

イザナギを。

許したわけではない。

あの日を。

なかったことにはしない。

置いていかれたことも。

黄泉で見た目も。

忘れない。

それでいい。

許さなくていい。

けれど。

もう。

あの男に。

自分の傷を預けておく必要はない。

あの男に。

自分の怒りを。

持たせておく必要もない。

この傷は。

自分のもの。

この怒りも。

この悲しみも。

自分のもの。

抱いて。

立てばいい。

白い花が。

静かに揺れた。

風はない。

それでも。

確かに揺れた。

ふと。

イザナミは。

あの少女を思い出した。

黄泉へ迷い込んだ娘。

神の領域へ。

足を踏み入れた。

愚かな人の子。

力を欲しがり。

闇に誘われ。

声ひとつで。

運命を違えた娘。

あの時。

イザナミは。

その言葉を封じた。

二度と。

その声で。

自分の運命を。

違えぬように。

そういえば。

まだ。

封じたままだった。

イザナミは。

思い出した。

その時。

声が届いた。

細く。

かすれて。

今にも。

消えそうな声。

けれど。

黄泉の闇へ。

確かに落ちた。

許してください。

白い花が。

また。

ひとつ揺れた。

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