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    拝読しました。
    本当のことを申しますと、初読では、情緒に強く寄せた作品なのかなと少し身構えました。けれど読み返しているうちに、思想や哲学の層が少しずつ浮かんできました。私自身、作品の余白や構造、そこから浮かぶ思弁のようなものを読むのが好きなので、そこに少しでも刺さるものがあれば、書きたくなる衝動が出てきます。あくまでも私的な読解なので、気に触るようでしたらご容赦ください。

    私は、作品の中で言葉や場面がどう響き合っているかを追って読むことが多いので、今回はその方向から書かせてください。

    少し長文になりますがお許しください。



    最初から遺書が来て、しかも全部読ませてしまう。

    父のこと。
    母のこと。
    姉のこと。
    大学で夫と出会って、初めて大事にされる感覚を覚えたこと。
    可愛い息子のこと。
    それでも「これが、一生続く」と思ってしまうこと。

    全部を言葉にした上で、「保存しました」が来る。

    それだけでもう十分に重かったのに、次の一文がもっと重かったです。

    「これは駄目だ、昨晩読んだ本の文体が乗り移ってしまっている」



    遺書が書けなかった話ではないと思いました。

    書いています。
    ちゃんと言葉になっている。
    過去のことも、現在のことも、夫と子供への心残りも、全部です。

    書き終えて読み返した女は、それを自分の最後の言葉として受け取れない。一番自分の言葉でなければならない場所に、昨晩読んだ本の文体が入り込んでしまっている。

    書けないのではなく、書いたら別の誰かの言葉になっていた。

    ここに、この作品のいちばん静かな痛みがあると思いました。



    もう一つ、気になったことがあります。

    遺書の中では「私」と書かれています。でもその後の場面では、その人はずっと「女」と呼ばれます。

    「私」が書いた文書を、「女」が閉じて、旅に出て、最後に開いて編集する。書いた人と、それを後から扱う人が、同じ人のはずなのに、言葉の上では少しだけ分かれたまま、作品全体を進んでいきます。

    このずれが、読んでいるあいだずっと、引っかかっていました。



    子供の場面も、夫の場面も、作品の中ではちゃんと温かく置かれていると思います。

    夫はご飯を作って、おかえりと言ってくれる。
    子供は「ママ」と笑顔で寄ってくる。
    寝かしつけの場面では、子供の肌の柔らかさ、温かさ、握り返してくる手が書かれる。

    その温かさは確かにあると思います。

    でも、大丈夫とは言わない。温かいものが目の前にあるのに、それでも涙が出てしまう。
    その場面が、読んでいて一番逃げ場がない感じです。



    女は旅に出ます。

    島根と言って、富山へ向かう
    東尋坊では雨と霧の中に立って、遠くが見えない
    富山では、連絡先の名前を一人ずつ開いては閉じる
    最後の連絡が一年前、二年前、三年前。連絡はしない
    街で人の顔を見ても、知っている人はいない

    旅が答えをくれたとは書かれていない。私はそう感じました。

    富山に行ったから過去が整理された。
    東尋坊に立ったから何かが変わった。
    だから帰って編集できた。

    そういう因果は置かれていないと思いました。

    旅はあんなに大きいのに、理由として説明されない。
    ただ、遺書を閉じた時間と、もう一度開く時間のあいだに、雨の北陸と、開いては閉じた連絡欄と、知っている顔のない街が挟まっている。

    この挟まっている感じが、強く残りました。



    この作品の奥で静かに支えているものについて、私なりに考えました。

    読んでいて気がついたのは、この作品で女が何度も何かを開いては閉じていることです。

    パソコンを閉じる。
    保存した文章を閉じる。
    AIとの会話のあとに携帯を閉じる。
    島根の宿を予約して、携帯を閉じる。
    富山で連絡欄を開いては、名前を見て、閉じる。
    SNSの反応を見て、また閉じる。

    何度も、何度も。

    だから最後に保存された遺書を開いたあと、「閉じる」が来なかったとき——そこがとても大きく見えました。



    「編集する」

    この言葉が来る場面、何度も戻って読みました。

    これは、生きると決めた宣言ではないと思います。

    家族に支えられたから
    旅で何かが変わったから
    書くことで前を向けたから

    そういう言葉では受け取れない。
    希死念慮がなくなったとも、苦しみが終わったとも書かれていない。

    ただ、開いた。
    閉じなかった。

    遺書は消えない。
    破られない。
    完成もしない。
    意味がつけられて終わるわけでもない。

    遺書はそのまま、「下書き」という別の文書の中に、引用されるように残る。終わりのための言葉だったはずのものが、まだ終わっていない別の文書の素材になり始めます。

    終点だったものが、どこかへ向かう途中のものの材料になっていく。

    でも、どこへ向かっているのかは書かれていません。



    タイトルが「下書き」で、女が最後に書き始める文書も「下書き」で、その中に「遺書」が入っている。

    作品は「了」で閉じます。
    女が開いた内側の文書は、閉じられていない。

    「了」は作品の外側の終わりで、女の書き物の終わりではありません。



    読み終えて残ったのは、遺書が遺書として確定されなかった、ということです。
    その代わりに何かが決まったわけでもない。何も決まらないまま、ただ閉じなかった。
    そんな感触でした。

    明るい結末ではないと思います。
    でも、ただ暗い結末でもない。

    「救われた」という言葉よりも、ずっと慎重な形で
    「諦めた」とも言いきれない形で
    「閉じなかった」という事実だけが、残っている感じです。

    遺書を書いたのに、自分の声として返ってこなかった人が、その遺書を閉じないでいます。

    それだけが確かで、それがどういう意味なのかは、作品が「了」を置いた後も、まだ決まっていません。

    重くて、静かで、最後に簡単な答えを置かない作品でした。



    追記

    少しだけ、哲学・思想寄りの読みになります。ご了承ください。

    この作品でさらに怖いのは、「死にたいと思うこと」そのものよりも、最後に残すはずの言葉さえ、自分のものとして確定できないことなのかもしれない。私はそう思いました。

    遺書は、本来なら自分の終わりを自分の言葉で閉じるための文書なのだと思います。これが私の最後の言葉です、と差し出すものでもあります。
    けれどこの作品では、その最後の言葉に「昨晩読んだ本の文体」が乗り移ってしまっている。つまり、終わりを告げるための文章でさえ、完全には自分の声として戻ってきません。

    だから最後の「編集する」は、単に生きる方へ戻った動作には見えませんでした。
    自分のものとして持てなかった最後の言葉を、消さず、破らず、閉じずに、もう一度扱い直そうとする動作に見えました。

    遺書は否定されない。けれど、遺書としても確定されない。
    それは「下書き」の中に残されます。

    自分の終わりを閉じるための言葉が、閉じられないまま、もう一度触れ直せる場所へ移されます。
    そのことが、救いというよりも、もっと不確かで、もっと慎重なものとして残りました。
    最後の言葉を所有できなかった人が、その言葉を捨てずに、未完の文書の中へ置き直す。
    そこに、この作品のいちばん深い震えがあったように思います。

    作者からの返信

    とても深く、丁寧に読んでくださり、ありがとうございます。

    何度も読み返してくださったこと、言葉や描写について考えてくださったこと、とても嬉しく思います。

    書いてくださったこと一つ一つを、そのように受け取っていただけたこと、作者としてとてもありがたく、こんなに嬉しいことはありません。

    また、自分では明確に言語化できていなかった部分まで掬い上げてくださった感覚もあり、それは、自分が意識せずとも作品の中に置かれていたものなのかもしれない、と感じました。

    作品に長く付き合ってくださり、本当にありがとうございました。

  • 下書きへの応援コメント

    拝読させて頂きました。

    遣る瀬無い気持ちが伝わってきました。救いはやはり夫と子どもなんでしょうね。

    作者さまはどんな気持ちでこの作品を書いたのだろうと思うと胸が詰まります。

    これからも書き続けて下さい。

    作者からの返信

    早速読んでくださりありがとうございます。
    遣る瀬なさや、その先にあるものを受け取っていただけたなら嬉しいです。
    これからも少しずつですが書いていこうと思います。