第2話
トントントントン――
何かを刻む音で目が覚めた。
時計を見ると、もう昼過ぎだ。
寝すぎたな。
雪姉ちゃんもそろそろ来る頃か。
そう思いながら寝室を出て洗面所へ向かう途中、俺は思わず立ち止まった。
「……え?」
目の前には、エプロン姿で料理をしている雪姉ちゃんがいた。
フライパンを振る後ろ姿。
鼻をくすぐる味噌汁の香り。
現実感がない。
混乱して立ち尽くす俺に気付いた雪姉ちゃんが振り返る。
「翔ちゃん! おはよう! よく寝てたね!」
満面の笑みだった。
「もう! 無理しないでって言ったのに、部屋が綺麗になってるからビックリしちゃったよ!」
「……え? なんで雪姉ちゃんがいるの?」
「なんでって、昨日また来るって言ったでしょ?」
「いや、そうじゃなくて……俺、いつ雪姉ちゃんを家に上げたっけ?」
「ああ、そのこと?」
雪姉ちゃんは悪戯っぽく笑う。
「叔父さんから鍵を預かってるの。もし翔ちゃんが出てこなかった時のためにって」
「……はぁ」
親父たちは何を考えてるんだ。
呆れ半分、照れ臭さ半分。
けれど、その感情が少しずつ凍り付いていた心を溶かしていく。
「もう少しでご飯できるからね〜♪」
(なんでそんなに機嫌がいいんだよ……)
苦笑しながら身支度を済ませ、俺は雪姉ちゃんと遅い朝食を囲んだ。
湯気の立つ味噌汁。
炊き立ての白いご飯。
焼き魚。
温かい食事なんて、いつ以来だろう。
味噌汁を一口飲んだ瞬間だった。
どこか懐かしい味。
その温もりが胸の奥まで染み渡り――
気付けば、涙がこぼれていた。
「えっ!? 翔ちゃん!?」
「……え?」
「泣いてるよ?」
「俺……泣いてる?」
頬に触れると、確かに涙で濡れていた。
「なんで……なんで俺、泣いてるんだろう」
自分でも分からなかった。
雪姉ちゃんは静かに席を立ち、俺の隣へ座る。
「翔ちゃん、それだけ心が疲れてたんだよ」
優しく頭を撫でながら続ける。
「涙が出るってことはね、『苦しい』『辛い』『助けて』って、心が出してるサインなの」
「苦しい……辛い……助けて……」
その言葉が胸に刺さる。
「翔ちゃん、今まで本当によく頑張ったね」
「もう頑張らなくていいよ」
「これまで頑張ってきた分、今は心も身体もゆっくり休もう」
「……うん」
それ以上、言葉は出なかった。
俺は子どものように泣きながら、ご飯を食べ続けた。
雪姉ちゃんは最後まで隣にいて、何度も何度も頭を撫でてくれた。
恥ずかしいはずなのに、不思議と嫌ではなかった。
ただ、この時間が終わらなければいい。
心から、そう願っていた。
◇◇◇
その日も、残りの片付けを終え、夜は雪姉ちゃんが作ってくれた夕食を二人で食べた。
そして雪姉ちゃんは帰っていった。
部屋には再び一人。
いつもなら押し潰されそうになる孤独が待っているはずだった。
それなのに今日は違う。
心の中には、雪姉ちゃんが残していってくれた温もりがあった。
そのおかげで、俺は久しぶりに穏やかな夜を過ごすことができた。
翌朝。
何ヶ月ぶりだろう。
俺は自分からカーテンを開けた。
朝日が部屋いっぱいに差し込む。
「ああ……外って、こんなに眩しかったんだな」
暖かな光が身体を包む。
昨日までモノクロだった世界が、色を取り戻していた。
雪姉ちゃんに再会してから、景色が少しずつ色付き始め、今朝には鮮やかな世界へと変わっていた。
作り置きしてくれたおにぎりを頬張り、冷たい水を流し込む。
その一口一口が、生きていることを思い出させてくれる。
食後にコーヒーを淹れ、一息つく。
こんな何気ない朝が、こんなにも幸せだったなんて。
昨日から、新しい人生が始まったような気さえしていた。
全部、雪姉ちゃんのおかげだ。
感謝しかなかった。
◇◇◇
昼前になると、雪姉ちゃんはまたやって来た。
今日は二人でカレーを作ることになった。
野菜を切りながら、俺は思う。
(なんだか……新婚夫婦みたいだな)
そんな考えに、自分で照れ臭くなる。
実家のカレーは少し変わっていて、肉は合い挽き肉を使う。
翌日はドライカレーにして二度楽しめる、昔からの我が家の味だ。
穏やかな時間が流れた。
午後三時頃。
「ちょっと買い物に行ってくるね」
そう言って雪姉ちゃんが出掛けようとした時、俺は意を決した。
「雪姉ちゃん、俺も行くよ」
「荷物持ちくらいならできるし……俺も、外に出られるようにならないと」
雪姉ちゃんは少しだけ目を潤ませた。
「そう……外へ出る勇気が出たのね」
「雪姉ちゃん?」
「ううん、大丈夫」
少し寂しそうに笑う。
「でも、本当に無理しなくていいのよ? 私がいる間くらい、甘えててもいいんだから」
「それもいいかもしれない。でも、いつかは外へ出なきゃいけない」
「それに……」
俺は照れ隠しに笑った。
「外へ出るなら、雪姉ちゃんと一緒がいい」
一瞬だけ、雪姉ちゃんは目を伏せる。
「……分かった」
「それじゃあ、一緒に行こう!」
(ごめんね……翔ちゃん)
その小さな呟きは、俺には聞こえなかった。
二人で歩く近所のスーパー。
食材や日用品を買いながら、俺は胸の奥がむず痒くなるような幸福感に包まれていた。
まるで、本当に夫婦になったみたいだった。
その感覚が嬉しくて、少しだけ苦しかった。
夜は一緒に料理を作り、久しぶりに酒も飲んだ。
俺はほろ酔いで上機嫌だったが、雪姉ちゃんだけはどこか浮かない顔をしていた。
気になった。
でも、聞いてはいけない。
そんな空気がそこにはあった。
やがて雪姉ちゃんは立ち上がる。
「そろそろ帰るね」
「翔ちゃんが元気になってきて、本当に安心した」
「明日の午前中にもう一度来て、それで私は帰るから」
「……そっか」
当たり前だ。
いつまでもここにいてくれるわけじゃない。
「雪姉ちゃん」
「ありがとう」
「俺、一歩踏み出す勇気をもらったよ」
「また一からだけど、俺なりに幸せになる」
「だから雪姉ちゃんも、幸せになってくれ」
雪姉ちゃんは微笑んだ。
「うん。翔ちゃんもありがとう」
(明日が、本当に最後なのね……)
(翔ちゃん、幸せになってね)
「ん? 何か言った?」
「ううん。また明日ね」
そう言って雪姉ちゃんは帰っていった。
明日が最後。
そう思うだけで、胸の奥がざわつく。
何か、大切なことを忘れている気がする。
思い出さなきゃいけない何か。
でも、それが何なのかだけは、どうしても思い出せなかった
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