第三十六話 自分の名前で走るために

月曜日、午後二時。

俺――堀内一也は、いつもより少し早くベッドから起き上がった。

夜勤の身体には、この時間はまだ眠っていてもおかしくない。だが、昨日から頭の中で渦を巻いているものが、俺を眠らせてくれなかった。

昨日、美優と一緒に見た、あの綾瀬の土地。

そして、あの土地を見る前から、俺の中で固まっていた決意。

個人タクシーになる。

美優の生活時間に合わせて働けるように。順番を間違えないように。

昨夜、布団に入ってからも、頭の中では住宅展示場めぐりの続きと、土地探しの興奮とが、ぐるぐると渦を巻いていた。屋上庭園、常磐線沿線、そして年内の婚約。決めなければならないことが、いっぺんに押し寄せてきたような気がする。

だが、焦っても仕方がない。

一つずつ、片付けていけばいい。

布団から出て、カーテンを開ける。夏の午後の光が、狭い1DKに差し込んだ。

コーヒーを淹れながら、俺はスマホを手に取った。

検索窓に「個人タクシー 開業 条件」と打ち込む。

ここ数日、思いつきで検索したことは何度もあった。だが今日は、本腰を入れて調べるつもりだった。


いくつかのサイトを読み込んでいくうちに、要件の輪郭がはっきりしてきた。

年齢は、四十歳以上六十五歳未満であること。俺は五十四だから、問題ない。

運転の経歴は、タクシーやハイヤーの運転を通算十年以上職業としていること。これも、二十年勤めてきた俺には楽々クリアだ。

無事故無違反の期間については、申請日から遡って三年間、事故も違反もないことが条件になるらしい。

三年間、無事故無違反。

俺はしばらく、その文字を見つめた。

思い返してみる。この三年、事故はもちろん、違反らしい違反もしていない。ただ、もっと前――七、八年ほど前だったか、荷待ちの最中に駐車違反を切られたことがあった気がする。

あれは、いつだったか。

確認しなければならない。もし三年以内の出来事だったら、そこからやり直しになる。

それから、居住地の条件。営業区域内、つまり二十三区や三鷹市、武蔵野市あたりに住んでいることが必要らしい。足立区に住む俺には、これも問題なかった。

準備資金は、二百万円ほど。車両代や保険料、それに開業までの当面の生活費を含めた金額だという。

俺の貯金なら、十分に賄える額だ。金の心配はしていなかった。

そして最後に、試験。

法令試験というものに、合格しなければならないらしい。かつては地理試験というものもあったようだが、東京では数年前に廃止されたと書いてある。

試験の中身を見てみると、道路運送法や道路交通法、旅客自動車運送事業運輸規則など、法令の条文そのものを問われるようだった。45問ほどの中から、九割近くを正解しないと合格にならないという。

若い頃、宅建の資格を取るために条文を叩き込んだ記憶が蘇る。あの頃は、必死に暗記した法律の文言が、まさか五十四になってからまた必要になるとは、思ってもみなかった。

だが、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、久しぶりに机に向かって勉強するのも悪くない、とすら思えた。

道理で、若い連中がやたらとナビを頼りにするわけだ、と苦笑した。俺たちの頃は、地理試験のために、来る日も来る日も地図を頭に叩き込んだものだったが。

時代は変わる。

だが、変わらないものもある。

三年間、無事故無違反。

あの駐車違反が、いつだったか。

その一点だけが、俺の頭に引っかかっていた。


そして、もう一つ。

調べているうちに、思ってもみなかった条件が出てきた。

車両と、車庫のことだ。

個人タクシーは、会社の車ではなく、自分名義の車を使う。当たり前のことだが、改めて突きつけられると、妙に現実味を帯びてきた。

今、俺が乗っている四六四九号車は、会社の所有物だ。独立するとなれば、あれとは別に、自分の車を用意しなければならない。

そして、その車を停めておく車庫。

これが、なかなか厳しい条件だった。

営業所――つまり俺の住居から、直線で二キロ以内。専有面積は十平米以上。しかも、その場所を三年以上、自分の権利として使い続けられることを証明しなければならないという。

賃貸契約書か、それに準ずる書類が必要らしい。

俺は、今の1DKアパートの間取りを思い浮かべた。

あの部屋に、車庫なんてものはない。近くの月極駐車場を借りるにしても、三年以上の契約となると、それなりの覚悟が要る。

そこまで考えて、俺はふと思い当たった。

先日、美優と話していた、あの家のことだ。

庭付き、あるいは屋上付きの一戸建て。もし本当にそういう家を買うなら、駐車スペースくらい、当然作ることになるだろう。

つまり、家探しと、車庫探しは、根っこのところで繋がっている。

一つの土地を手に入れれば、両方まとめて片付くかもしれない。

偶然にしては、できすぎている気がした。

だが、今はまだ思いつきの段階だ。ひとまず、頭の隅に置いておこう。


コーヒーを飲み干し、俺はスマホで会社に電話をかけた。

呼び出し音が二回鳴って、聞き慣れた声が出た。


「はい、みらいタクシー、内勤の田代です。」

「田代さん、堀内です。お疲れ様です。」

「おお、堀内さん。今日はまだ出庫時間じゃないでしょう。どうしました。」


田代は、少し驚いたような声を出した。俺が非番でもない日中に電話をかけてくるのは、珍しいことだった。


「ちょっと、聞きたいことがありまして。俺の事故歴と違反歴、確認できますか。」

「事故歴? 珍しいこと聞きますね。何かありました?」

「いや、そういうわけじゃないんです。ちょっと、必要になりまして。」


田代は少し間を置いてから、了解しましたと言った。長年の付き合いだ。深くは詮索してこない。


「少々お待ちください。……ええと、堀内さんの記録ですね。」


パソコンのキーを叩く音が、電話越しに聞こえてくる。


「入社してから今まで、事故報告、ゼロですね。違反も、駐車違反の一件だけです。」

「駐車違反?」

「ええ、七年前の三月です。荷待ちの間に、ちょっと停めたところが規制区域だったとかで。反則金は払ってますよ。」


七年前。

そんなことがあったか、と俺は記憶を辿った。ぼんやりと思い出す。急いでいた客がいて、少しの間だけと油断した。あれか。


「七年前ですか。……それは、まずいですかね。」

「まずい、というと?」

「個人タクシーの申請を考えてまして。無事故無違反の期間が要るらしいんです。」


田代は、電話の向こうで小さく笑った。


「堀内さんが、独立ですか。そりゃあ、めでたい話じゃないですか。」

「まだ検討段階ですけどね。」

「それなら大丈夫でしょう。要件は、申請日から遡って三年間無事故無違反のはずですよ。七年前の一件なら、とっくに三年は過ぎてる。」


とっくに、三年は過ぎている。

その一言に、俺は思わず息を止めた。


「……本当ですか。」

「ええ。うちの組合の資料にも書いてありましたから、間違いないですよ。運転経歴の方は十年以上必要ですが、堀内さんは二十年ですから、そっちも余裕でクリアです。」


三年待たなければならないと、勝手に思い込んでいた。

だが、実際には、もう条件を満たしていた。


「……ありがとうございます、田代さん。」

「いえいえ。なんだ、堀内さん、思ったより早く話が進みそうじゃないですか。」


田代の声が、少し弾んだ。


「まあ、こっちとしては、堀内さんに辞められたら痛いですけどね。ベテランに抜けられると、シフトが回らなくなる。」

「そう言ってもらえると、ありがたいですが。」

「本気で検討されてるなら、応援しますよ。俺も長い付き合いだ。」


田代の声には、からかいと、それから確かな温かさが滲んでいた。


「あとは、法令試験ですね。年に何回か試験があるらしいんで、そのあたりも調べておきます。」

「ええ、お願いします。」


それから、俺はもう一つ、気になっていたことを聞いた。


「田代さん、車庫のことなんですが。個人タクシーだと、自分で車も車庫も用意しないといけないんですよね。」

「ああ、そうですね。今の車は会社のものですから、独立するなら別に用意が必要です。」

「今の1DKだと、車庫がなくて。」

「それは、みなさん苦労されてるところですよ。近所で借りるにしても、三年以上の契約が要りますからね。」


田代は、少し考えるように黙ってから続けた。


「もし引っ越しを考えてるなら、いっそガレージ付きの家を探すのも、手じゃないですか。」


ガレージ付きの家。

それは、まさに今、俺の頭の中にある選択肢そのものだった。


「……そうですね。考えてみます。」

「今日はありがとうございました、田代さん。」

「いえいえ。また分かったことがあったら連絡ください。」


電話を切って、俺はしばらくスマホを見つめていた。

条件は、もう揃っている。

あとは、法令試験に受かって、必要な書類を揃えて、申請するだけだ。

思っていたより、道のりはずっと近くにあった。

胸の奥から、じわりと熱いものがこみ上げてくる。

これなら、美優の望む時期にも、間に合うかもしれない。

できることから、始めよう。

俺はノートを一冊、押し入れから引っ張り出した。

昔、営業のイロハを書き留めていた、使いかけの手帳だった。

その最初のページに、俺は書き付けた。

「個人タクシー 準備リスト」

一、事故違反歴の確認(済み。要件は既にクリア)

二、資金の確認(問題なし)

三、法令試験の日程と勉強法を調べる

四、必要書類(運転記録証明書・健康診断書など)を洗い出す

五、車両の購入と、車庫の確保(自宅から二キロ以内・三年以上の使用権原)

六、家探しと車庫探しを同時に進められないか、検討する

書きながら、なんだか気分が高揚してくるのが分かった。

これは、営業で新規顧客を開拓していた、あの頃の感覚に似ていた。目標があって、そこへ向かって、一つずつ手順を潰していく。

忘れかけていた感覚だった。


その夜、午後七時半。

俺はいつも通り、夜の東京へ車を滑り出させた。

月曜の街は、いつも通り静かに始まった。

日付が変わる少し前。

神田の裏路地、小さな飲食店の並ぶ一角で、一人の男が手を挙げていた。

四十代半ばだろうか。エプロン姿の上に、上着を羽織っている。厨房から出てきたばかりのような格好だった。

俺は車を寄せて停め、ドアスイッチで後部座席のドアを開けた。


「こんばんは。どちらまで。」

「すみません、練馬の方まで。」


男はそう言って、疲れた様子でシートに腰を下ろした。だがその疲れの中に、どこか満たされたような気配も感じ取れた。


「かしこまりました。練馬でしたら、目白通りを進むルートでよろしいでしょうか。」

「ええ、お任せします。」

「シートベルトのご着用を、お願いいたします。」


車を発進させる。

何気なく、俺は解析を使った。


【氏名:中沢 誠】

【年齢:47歳】

【職業:飲食店経営(開業一年目)】

【状態:疲労と充実】

【本音:あと少しで軌道に乗る】


飲食店経営、開業一年目。

俺は、ふと親近感を覚えた。


「今日も、遅くまでお仕事だったんですね。」

「ええ。うちの店、開店して、まだ一年でしてね。とにかく毎日、必死ですよ。」


男は苦笑しながら言った。


「もともと、どちらかの店で働かれてたんですか。」

「ずっと、大きなチェーンの厨房にいました。二十年近く。そこを辞めて、自分の店を持ったんです。」


その言葉に、俺の胸が小さく反応した。


「思い切りましたね。」

「はは、ええ。周りには散々止められましたよ。この歳で、安定を捨てるのかって。」


男は、窓の外を見ながら続けた。


「でも、ずっと考えてたんです。誰かに雇われて、決められた仕事をこなすんじゃなくて。自分の名前で、自分の味で、商売がしたいって。」


自分の名前で。

その言葉が、まっすぐに俺の胸へ刺さった。

まさに、今日一日、俺が考え続けていたことだった。


「不安は、なかったですか。」


思わず、そう聞いていた。柄にもなく、客の話に踏み込みすぎているのは分かっていた。だが、聞かずにはいられなかった。

男は少し驚いたように俺を見て、それから正直に答えた。


「そりゃあ、ありましたよ。開業資金だって全部貯金をはたきましたし。最初の三か月は、客も全然入らなくて。夜も眠れないくらい、不安でした。」

「でも、続けられた。」

「ええ。妻が、支えてくれましてね。『あなたがやりたいって決めたことでしょう』って。あの一言に、何度も救われました。」


妻。

その一言に、俺はまた美優の顔を思い浮かべた。


「今は、どうですか。」

「少しずつですけどね。常連さんもついてきて。今日も、閉店間際に来てくれた馴染みの客と、つい長話してしまって。この時間になりました。」


男は、疲れた顔に、確かな笑みを浮かべていた。


「大変ですけど、後悔は一切ないです。誰かに使われる立場から、自分で決める立場になった。それだけで、毎日の景色が違って見えるんですよ。」


自分で決める立場。

俺はハンドルを握りながら、その言葉を胸の中で繰り返した。

今の俺は、会社に雇われている。決められたシフト、決められた勤務時間。それを美優のために、自分の裁量で動かせる働き方に変えたい。

簡単な道じゃないだろう。

だが、この男も、簡単な道を選ばなかった。


「物件探しは、大変でしたか。」


ふと、そんなことを聞いていた。今日一日、家と車庫のことばかり考えていたせいだろう。


「ああ、それはもう。厨房の広さとか、換気の設備とか、条件がいろいろあってね。神田のあの場所に決めるまで、半年くらい探し回りましたよ。」

「半年も。」

「ええ。でも、探してるうちに分かるんです。ここじゃない、ここも違う、って何度も感じてるうちに、逆に『ここだ』って思える場所に出会った時、すぐ分かるんですよね。」


ここだ、と思える場所。

その言葉が、なぜか綾瀬で見た、あの土地の景色と重なった。


「実は俺も、独立を考えているところなんです。」


気づけば、そう口にしていた。


「へえ、運転手さんが。」

「ええ。個人タクシーというやつに。まだ、始めたばかりですけどね。」

「そうなんですか。応援してます。」


男は、素直にそう言った。


「独立って、勇気が要りますよね。でも、迷ってる時間より、動き出してからの方が、案外あっという間ですよ。」


その言葉が、じんわりと胸に染みた。

車は目白通りを進み、やがて練馬の住宅街に入っていく。


「その先の、青い看板の店の隣です。」


男の案内で、俺は車を停めた。

料金を精算しながら、男は最後にもう一言、付け加えた。


「運転手さんも、頑張ってください。自分の名前で走る日、応援してます。」


その言葉を残して、男は夜の街へ消えていった。

俺は、しばらくその背中を見送っていた。

自分の名前で走る。

思っていたより、その日は近くにあるのかもしれない。今日、その一歩を確かに踏み出した。

そういえば、田代が言っていた。個人タクシーの多くは、開業後、地域の協同組合に加入するものらしい。一人で全部を抱え込むのではなく、同業者同士で情報を交換したり、車両の整備を融通し合ったりする仕組みがあるという。

一人で商売をする、と聞くと、どこか孤独な響きがあった。だが、実際には、支え合う仲間がいるということだ。

あの飲食店経営者にも、支えてくれる妻がいた。

俺にも、美優がいる。そして、今夜のように、思いがけず背中を押してくれる客がいる。

一人で走るようで、一人じゃない。

そのことが、なんだか俺を安心させた。


その後、いくつか客を乗せて、俺は朝方、営業所へ帰庫した。

アルコールチェックを済ませ、日報を出力する。

帰宅し、シャワーを浴びて、缶ビールを一本開けた。

七時になり、俺はスマホを手に取った。

美優へのモーニングLINEを打つ。


『おはよう。昨日は土地を見に行けて、いい一日だったね。それでね、今日、個人タクシーのこと、本格的に調べてみたんだ。会社に事故歴も確認してもらったよ。無事故無違反の要件は、実はもうクリアしてたことが分かった。あとは法令試験に受かって、書類を揃えるだけなんだ』


打ちながら、少し照れくさかった。だが、隠すことはもうしないと決めていた。


『昨日、正直まだ何年かかるか分からないと思ってたんだけど。思ったより、近くにありそうだ。今夜、いい話を聞かせてもらったんだ。独立して自分の店を持った人でね。迷ってる時間より、動き出してからの方があっという間だって。まさにその通りだったよ』


送信すると、少しして返事が来た。


『おはようございます! よかった、本当によかったです! あとは試験だけなんですね。私も何か手伝えることがあれば言ってください。一也さんが自分の名前で走る日、私も一緒に応援します』


その返事に、俺は思わず顔がほころんだ。

一緒に応援します。

その一言だけで、力が湧いてくるようだった。

それに、今日分かったことは、法令試験のことだけじゃない。

車庫の件も、まだ美優には話していない。

だが、あの土地のことを思い出す。綾瀬の、駅から歩いて五分のあの場所。

もしあそこに家を建てるなら、車庫のことも一緒に片付くかもしれない。

家探しと、車庫探しと、そして美優との新しい暮らし。

バラバラだったものが、少しずつ一つの線に繋がっていくようだった。

その話は、また今度、ちゃんと伝えよう。

俺はカーテンを閉め、布団へ潜り込んだ。

瞼の裏に、手帳に書き付けた準備リストと、あの飲食店経営者の背中が浮かんだ。

自分の名前で走る日は、思っていたより近い。

だが、今日、確かにその一歩を踏み出した。

どんな道のりでも、美優と一緒になら、歩いていける。

そう思いながら、俺は静かに眠りに落ちていった。


────────────────────


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


迷っている時間より、動き出してからの方が、案外あっという間。誰かに教わった言葉が、自分の背中を押してくれることもあるようです。


もし少しでも気になる点や、引っかかる部分があれば、❤️や⭐️、フォローで応援していただけると嬉しいです。

堀内一也が次に出会うのは、どんな乗客なのか。

その答えは、また次の乗車で。

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