旅立ち
轟々と水が落ちていた。
宗一郎はその真下に座っている。
裸の上半身に滝を受け、両手を膝の上に置き、目を閉じていた。
何時間そうしていたのか。
何日なのか。
何年なのか。
この場所では、もはや考える意味もない。
やがて宗一郎は、かっと目を見開いた。
「整った!」
滝壺から勢いよく立ち上がる。
何が整ったのかは女神にもよく分からなかったが、とにかく整った。
水をかき分け、岸へ上がる。
そこにはさっきまでテレビを見ていた愛の女神がいた。
腕を組み、少し遠い目をして宗一郎を見ている。
「女神様」
「はい」
「旅に出ようと思います」
「……あ、はい」
女神は一歩下がった。
「どうぞどうぞ」
「ありがとうございます」
「いやぁ~」
女神は困ったように笑った。
「もう旅に出ないのではないかと」
宗一郎は眉を寄せた。
「真面目に修行していましたが」
「それは知っています」
「では何か問題が?」
「いや、時が流れないとはいえ、三百年も修行していると……」
「三百年」
「はい」
宗一郎は少し考えた。
「時が流れないので問題はないかと」
「まあ、そうなんですが」
女神は何とも言えない顔になった。
宗一郎としては納得がいかなかった。
修行をしろと言われた。
だから修行した。
剣を振った。
槍を突いた。
弓も引いた。
走った。
跳んだ。
山にも登った。
断食もした。
瞑想もした。
滝にも打たれた。
回復魔法も学んだ。各種魔法も学んだ。
異世界の言語は何種類も覚えた。
礼法も学んだ。
野営の仕方も覚えた。
応急手当も学んだ。
何しろ時間はいくらでもある。
ならば、やれるだけやるのが筋というものだろう。
「ですが」
女神は宗一郎を上から下まで眺めた。
「ここでは、どれだけ修行してもレベルは上がりませんよ」
「はい」
「言葉を覚えるとか、戦士としての身のこなしを覚えるとか、そういうのは分かります」
「はい」
「でも、三百年ですよ?」
「はい」
「その修行、本当に意味があったんですか?」
宗一郎はゆっくりと頷いた。
今の宗一郎は、三百年前とはだいぶ違っていた。
まず太った。
時の流れない神域なのだから老化しないのかと思っていたが、なぜか太ることはできた。
腹は立派に出ている。
顎も二段になった。
そして頭は見事に禿げた。
これについて女神は、
「精神的な自己認識が外見に反映されたのでは」
と推測していた。
宗一郎としては深く満足していた。前は病気のせいか太れなかったのだ。イケオジと言われることもあったけど、それでは愛の伝道師にはなれぬと思ったのである。
「もちろん必要です」
宗一郎は真顔で言った。
女神が黙った。
「必要だったんですか」
「はい」
「三百年」
「はい」
「滝も?」
「はい」
「百七十年目くらいから急に始めた盆栽も?」
「必要でした」
「二百年目からの蕎麦打ちは?」
「必要です」
「二百五十年目から始めた将棋は?」
「もちろん」
女神は額を押さえた。
「愛の使徒の修行って、そういうのでしたっけ……」
「愛とは心を寄せることなのでしょう?」
「そうですけど」
「ならば、心を寄せる対象を増やすことも修行です」
女神が顔を上げた。
宗一郎はどこまでも真剣だった。
「……理屈は通っていますね」
「はい」
「嫌だなあ。反論しにくい」
宗一郎は岸に置いてあった衣服を身につけた。
鎧ではない。
旅装だった。
丈夫な上着。
革の靴。
背には大きめのザック。
三百年前から愛用している物ではない。
あれはとうに壊れた。
しかし宗一郎は何度も直し、最後には同じ形のものを自分で作った。
今では三代目である。
「それでは」
宗一郎は女神に向き直った。
「行ってまいります」
「はいはい」
女神は急に宗一郎の背後へ回った。
「では、行きましょう」
「え?」
ぐい、と背中を押された。
「女神様?」
「気が変わらないうちに」
「変わりませんが」
「分かりませんよ。また一つ修行を思いつくかもしれません」
「そうですね」
「ほら!」
さらに強く押された。
「今の返事で確信しました!」
目の前には、いつの間にか光の扉が開いていた。
向こう側には青い空と、大地が見える。
「ちょっと待ってください。杖を」
「向こうで拾ってください!」
「水筒が」
「持ってます!」
「蕎麦切り包丁を」
「要りません!」
「いや、異世界で蕎麦を」
「行ってください!」
どん、と押された。
宗一郎の身体が光の中へ入る。
「では、行ってまいります!」
「はい! 行ってらっしゃい!」
光が閉じた。
静寂が戻る。
女神はしばらく、その場所を見つめていた。
そして小さく呟いた。
「……大丈夫なのかしら」
少し考える。
「愛を広める前に、蕎麦を広めそうなんだけど」
神域には滝の音だけが響いていた。
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