4.『万年炬燵』

樹は、水無瀬杏子の管理人室にいた。

壁のカレンダーは九月になっていた。

日付のいくつかに細いペンで小さな丸がつけられている。

病院の予定か、業者の点検日か——理由は分からないが、几帳面すぎる印の付け方だった。

この部屋はもともと二部屋だったものをぶち抜いて使っている。

間仕切りの名残か、天井の梁の位置が不自然にずれていて、床の色も微妙に違っていた。

通りに面した窓は二つとも開け放たれていて、九月の風がカーテンをわずかに揺らし、車の音や人の話し声を薄く運び込んでくる。

管理人室というより、生活感に満ちた部屋だった。

事務机の上には入居者名簿や書類が積まれている。

きちんと揃えられているが、端のほうには読みかけの封筒や書き直した跡のあるメモが混じっていた。

の机の隅に、写真立て。ガラスは丁寧に拭かれていて、埃は見当たらない。

写真の横には花瓶。その日ごとに替えられているらしい花が、きちんと水を吸っていた。

生活のための部屋であり、仕事のための部屋であり、そして——待つための部屋でもある。

炬燵は、季節外れのまま出しっぱなしになっていた。

達也は吸い込まれるように身を沈め、天井を見ている。目に映っているはずのものを、何一つまともに見ていない顔で。

杏子は、花瓶に花を挿し、写真立ての横へそっと置いた。写真の中の男を見つめる彼女の表情は、ひどく愛おしげで、今にも泣き出してしまいそうだった。


「達也さん、おはよう」


無理に口角を上げたその声を聞いて、樹はこれが毎朝の彼女の習慣なのだと知った。

杏子はしばらく写真を見つめ続けていた。

思い出しているのか、考えないようにしているのか、その表情から樹には分からない。

やがて彼女はふっと息を吐き、立ち上がって朝食の準備を始める。

冷凍野菜を耐熱容器で温め、食パンをトースターに入れ、小さなフライパンで目玉焼きを焼く。

動きに無駄はなく、一人分の食事を作る手つきだった。

写真に向かって「おはよう」と言い、変わらない手順で朝を迎える。

それが、彼女が今日を生きるためのささやかな儀式なのだと、樹は思った。


「……達也ね」


樹が声をかけると、男は不審そうにこちらを見て聞き返した。


「誰?」

「僕は樹です。あなた、あの写真の人物でしょう?」


しかし達也は、他人事のように肩をすくめた。


「まあ、確かに似てるけど。初対面で名前を知ってるって、ちょっと怖いんですけどー」

「あの管理人さんが、あなたの写真を見て『達也さん』って呼んでましたよ」


その瞬間、達也の空気が一変した。杏子を見る彼の目に、確かに懐かしさが宿る。

だがそれはすぐに、苦しげな歪みへと変わった。


「うるさい! 黙れ!」


逆上する達也に、樹は引かなかった。


「そんなに怒鳴らないでください。彼女まで、びびらせないでください」


そう言って、樹は水無瀬に視線を向ける。

杏子は書類を整理していた手を止め、それを床に落としてしまった。

拾おうと屈んだまま、その場にうずくまり、小さく体を震わせている。

その姿を見て、達也は明らかにうろたえた。


「彼女は毎朝、あなたがいない時間を、きっとあなたを想って生きている」


樹は、声を荒げることなく続けた。


「それを——無かったことには、しないでください」


達也はこめかみを押さえ、逃げ場を失ったように立ち尽くしていた。

 *

夕方。管理人室の窓から差し込む光は、もう昼の熱を失っていた。

事務机の上には、朝から手をつけられずにいた書類が積まれている。

杏子はそれらを一つずつ確認し、印を押し、揃え、静かに脇へ移していく。

紙が擦れる微かな音と、ペン先が止まる気配だけが、この部屋に時間が流れていることを示していた。

背中は、少し丸まっている。長く座り続けた疲れか、それとも無意識の重さか。

その背中を、達也は炬燵の端から何度も盗み見ていた。

視線を向けては、すぐに逸らす。自分が何を見ているのか分からなくなる前に。

二人の距離は、同じ部屋にいながら、簡単には声をかけられないほど遠かった。


——ピンポーン。


インターホンが鳴り、杏子は立ち上がって玄関へ向かった。

ドアの向こうに立っていたのは、仕事帰りらしい一〇五号室の東良彦(あずま よしひこ)だった。

シャツの袖はきちんとまくられ、ネクタイは外しているが、鞄は肩に掛けたまま。寄り道せず、そのまま戻ってきた格好だ。

彼の手には、小さなぬいぐるみが一つ、潰れないように指先でそっと支えられている。


「廊下に落ちてました。階段のところに」


声は低く、抑揚はない。用件だけを過不足なく伝える話し方だった。


「これ、希少なキャラなんですよ」


そう言ってから、一瞬だけ視線をぬいぐるみに落とす。


「落とした人、困ってるんじゃないかなって」


拾ったから届ける。それだけで十分だと考えている顔だった。

杏子が礼を言うと、東は軽く会釈を返しただけで、それ以上その場に留まろうとはしなかった。


「ありがとうございます」


杏子がそれを受け取った時、後ろから「落とし物、預かってない!?」と泣きそうな声が響いた。二〇四号室のいまるが、息を切らして駆け込んできたのだ。

傍らにいた樹は、それがkqtseのグッズだとすぐに理解した。


「拾ってくださったのは、一〇五号室の東さんよ」


杏子の紹介に、いまるは深々と頭を下げる。


「ありがとうございます! 見つからなかったら立ち直れなかったです」


すると、東が少し照れくさそうに口を開いた。


「……あの、kqtseのラップ、いいですよね。特に低音のフロウが」

「えっ、知ってるんですか!? あのギャップ、最高ですよね!」


いまるの声が弾む。二人はそのまま共用スペースのソファに座り、熱心に語り合い始めた。

杏子はその様子を少し離れた場所から眺め、そっと管理人室へ戻った。机の上の写真を見つめ、彼女はふっと微笑む。


「……私たちも、あのソファでよくおしゃべりしたわね」


その呟きが静かな部屋に溶け込んだ、その時だった。


「あっ」


炬燵にいた達也が、間の抜けた声を上げた。驚いて振り向く樹に対し、達也は自分の存在を確かめるように、噛み締めるように言った。


「俺……」


一拍。


「俺は、高橋達也(たかはし たつや)だ」


それは、自分の「生」と「死」、そして「愛した人」をようやく受け入れた、確信に満ちた言い方だった。

樹は小さく息を吐いた。


「……やっと、ですね」


廊下の向こうでは、新しい住人たちの笑い声が続いている。それぞれの時間が、少しずつ、けれど確実に前に進んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る