第45話 返る道

 学生課からの連絡は、二日後の朝に来た。


 駒場の空は薄く曇っていた。銀杏は前より少し黄色くなり、濡れてもいないのに、地面には早い葉が落ちている。誠が学生課の窓口へ向かうと、すでに隆が壁にもたれて待っていた。手には、前に回収された紙の束ではなく、薄い封筒がある。


「何それ」


「例の学生の返済表。名前は書いてない」


「もう作ったのか」


「作るだろ。あのまま帰したら、俺が気持ち悪い」


 隆はそう言って封筒を鞄にしまった。


 普通の人間である隆は、神の糸を見ない。未来の滅びも知らない。けれど、金の怖さを紙に落とすのは早かった。数字は冷たい。だが、冷たいからこそ、熱に浮かされた頭を止めることがある。


 そこへ知里と真名彦が来た。知里はいつも通りノートを抱え、真名彦は保健センターへ出した医療部分の修正案を持っている。今日は八人全員ではない。学生課の打ち合わせに押しかける人数は絞った。穂乃たちは食堂、図書館、下宿掲示板の管理先へ、それぞれ確認を取りに行っている。


 学生課の女性職員は、前より少しだけ表情を緩めていた。


「時間は長く取れません。ただ、学生相談所の担当者が一度話を聞いてくださるそうです」


「ありがとうございます」


 誠が頭を下げると、職員は机の上に一枚の紙を置いた。


「その前に確認します。あなたたちは、相談者の名前や事情を記録しない。金銭や医療の判断はしない。必要なら大学の窓口か外部の専門家へつなぐ。この理解でいいですね」


「はい」


 誠は即答した。


 職員の背後に、薄い糸が見えた。


 学生課から学生相談所へ。


 保健センターへ。


 奨学金担当へ。


 そして、大学の外にある消費生活の窓口へ。


 細い。だが、切れてはいない。


 誠は、その糸の細さに安堵するより先に、怒りを覚えた。細すぎるのだ。これだけの学生がいて、これだけの窓口がありながら、困る前につながる線はあまりにも見えにくい。見えない線は、存在しないのと同じように扱われる。


 だから、人は黙る。


「どうしました」


 職員が聞いた。


「いえ」


 誠は目を伏せた。


「つながる先があるなら、紙はもっと軽くできます。僕たちが受け止めるように見せるのではなく、返る道を示す紙にします」


 隆が横で小さく息を吐いた。


「返る道、また出たな」


「大事だから」


「わかってる」


 職員は二人のやり取りを聞き、少し困ったように笑った。


      ◇


 学生相談所の部屋は、学生課の奥にあった。


 大きな看板があるわけではない。知らなければ通り過ぎるような場所である。その控えめさが、助けになる時もあれば、届かない理由になる時もある。扉の前に立った時、誠にはそこから伸びる糸が見えた。


 来た者。


 来られなかった者。


 扉の前まで来て、帰った者。


 相談という言葉が重すぎて、入れなかった者。


 糸は床近くで絡まり、扉の下から細く漏れていた。


 担当者は、石渡という中年の女性だった。落ち着いた声で、机の上には余計なものを置いていない。誠たちの紙に目を通すと、まず感想ではなく確認から入った。


「あなたたちは、相談を受けたいのですか。それとも、相談先へつなぎたいのですか」


 知里が答えた。


「つなぎたいです。受ける力は、まだありません」


「まだ、という言い方は危ういですね」


 石渡は静かに言った。


「力がついたら受けられる、という話でもありません。相談には、技術と責任と限界があります。善意で聞きすぎると、聞いた側も壊れますし、話した側も傷つくことがあります」


 真名彦が頷いた。


「医療と同じですね」


「似ています。診断できない人が診断してはいけない。でも、受診を促すことはできます。話を聞くことと、抱え込むことは違います」


 誠は、その言葉を聞きながら、石渡の糸を見ていた。


 彼女の糸は太くない。むしろ、何度も擦り切れかけている。けれど、切れた糸を無理に自分へ結びつけるのではなく、別の場所へ返す技術を持っていた。優しいからではない。優しさだけなら、とっくに潰れている。境界を持つ者の強さだった。


 大国主は縁を結ぶ神である。


 だが、縁は多ければよいわけではない。結んではならない結びもある。近すぎる縁は、人を縛る。遠すぎる縁は、人を凍らせる。結ぶべき距離を見誤れば、救いは鎖に変わる。


 誠は、そこで少しだけ背筋を伸ばした。


「僕たちは、受け皿ではなく、返る道を作りたいんです」


 石渡は、誠を見た。


「返る道?」


「はい。借りる前に、食べる量を削る前に、眠れなくなった時に、勧誘へ返事する前に、戻れる場所を見せる。僕たちのところへ来させる紙ではなく、大学や外の窓口へ返す紙にしたい」


「それなら、まだ話せます」


 石渡は紙の下に鉛筆で線を引いた。


「ただし、相談したくない人もいます。相談という言葉を嫌がる人もいます。そこを忘れないでください」


 隆が言った。


「だから『財布を見る日』にしたんです。相談しろより軽いと思って」


 石渡は、その言葉で初めて少しだけ笑った。


「変な名前ですね」


「言われました」


「でも、覚えやすい。そこは悪くありません」


 隆は、少し得意そうな顔をした。


      ◇


 打ち合わせが終わり、誠たちが部屋を出ようとした時、学生課の職員が廊下で声をかけてきた。


「先日、あなたたちの紙を持って来た学生さんが来ています。本人が、可能ならあなたたちにも同席してほしいと言っています。ただし、無理に聞かせるものではありません」


 石渡は、すぐには頷かなかった。


「まず本人に確認します。ここから先は、その学生さんが誰に聞かせるかを決める話です」


 誠たちは廊下で待った。


 数分の間、誰も口を開かなかった。隆は鞄の中の封筒に手を触れ、知里はノートを閉じたまま持っている。真名彦は保健センターの修正案を鞄へ戻した。ここで前のめりになれば、紙に書いたことを自分たちで壊す。


 相談は、捕まえるものではない。


 相手が誰に聞かせるかを決めるものだ。


 しばらくして、石渡が扉を開けた。


「本人が、あなたたちにも同席してほしいと言っています。ただし、話したくない部分は話さなくていい。その約束で入ってください」


 部屋に入ると、そこにいたのは前に食堂の紙を持って空き教室へ来た男子学生だった。痩せた顔に、寝不足の影が残っている。手には、折りたたまれた紙が二枚あった。


 一枚は、誠たちの紙。


 もう一枚は、別のチラシだった。


 未来実践会。


 君の可能性を開く勉強会。


 成功する学生は、学歴ではなく人脈で動く。


 誠は、その文字を見た瞬間、目の奥が冷えた。


 チラシから伸びる糸が見えた。


 学生ローンの広告へ。


 駅前で配られるティッシュへ。


 夜の喫茶店で開かれる小さな会合へ。


 安い下宿の一室へ。


 親に言えない電話へ。


 そして、誰かの財布から少しずつ抜かれていく金の糸へ。


 それだけではない。


 言葉の糸もあった。


 君は特別だ。


 親に頼るな。


 成功者は迷わない。


 今決められない人間は、一生変われない。


 その糸は、細く柔らかく見えた。だが、絡むとほどけにくい。二〇五〇年の滅びた国で見た、名を持たぬ支配者たちの糸に似ていた。規模は小さい。だが、形は同じだ。


 弱った者に、急ぐ言葉を渡す。


 孤独な者に、選ばれたという札を貼る。


 金の不安を、成長のための投資にすり替える。


 誠の中で、大国主の目が開いた。


 人の世の小さなチラシに、神の怒りが触れた。


 石渡が、男子学生に椅子を示した。


「ここで話すことは、あなたが話していいと思う範囲だけで大丈夫です。行くかどうかを、今すぐ決める必要もありません」


 男子学生は小さく頷き、チラシを机の上に置いた。


「これ、行かない方がいいですか」


 石渡は、すぐには答えなかった。誠を見ない。隆も見ない。まず男子学生の顔を見て、問い返す。


「行くかどうかを決める前に、何が不安で、何を期待しているのか話せますか」


 その言い方に、誠は内心で頷いた。


 正しい。


 行くな、と頭ごなしに止めれば、その会は魅力を増す。危ないと言われるほど、選ばれた気になる者もいる。止め方を間違えれば、糸は余計に固くなる。


 男子学生は、少しずつ話した。


「昨日、紙の話をした友達に、このチラシを見せられて。金に困ってるなら、こういう会で人脈作ればいいって。先輩が、短期の仕事も紹介できるって言っていて」


 隆が、チラシの下の方を見た。


「参加費は?」


「初回は無料です」


「二回目は」


「資料代がいるかも、って」


「仕事紹介は、何の仕事」


「まだ聞いてません」


 隆の声は低くなった。


「聞く前に行くな」


 石渡が隆を見た。


 隆は息を止め、すぐに言い直した。


「すみません。行くな、じゃない。行くなら、聞くことを先に書け」


 誠は、そこで口を開いた。


「三つ、同時に来ています」


 男子学生が顔を上げた。


「三つ?」


「金を貸す紙。仲間をくれる言葉。短期の仕事。この三つが別々に見える時ほど、危ないです」


 部屋が静かになった。


 誠は続けた。


「借金だけなら、返す道を見ればいい。勧誘だけなら、一度離れて考えればいい。仕事だけなら、条件を確認すればいい。でも、金に困った時に、仲間と仕事と成功の話が同時に来ると、人は急がされます。急がされている時は、自分で選んでいるようで、選ぶ時間を奪われています」


 石渡は、誠をじっと見た。


「よく、そこまで見ましたね」


「並べると見えます」


 誠はそう答えた。


 嘘ではない。


 ただし、普通の人間には見えない線まで並んでいる。


 男子学生は、チラシを見つめていた。


「でも、断ったら悪い気がして」


 知里が静かに言った。


「断ったら悪いと思わせる誘いは、一度離れた方がいいです」


 真名彦が続ける。


「それと、眠れていない時に大事な返事をしない方がいいです。判断が急ぎになります」


 隆は、返済表の封筒を出した。


「まず、これを見よう。借りるかどうかは、その後だ。勉強会に行くかどうかも、今日決めなくていい」


 男子学生は、封筒を受け取った。


 その指先から、一本だけ糸がほどけた。


 誠には、それが見えた。


 まだ救われたわけではない。だが、急がされていた糸が、一瞬だけ緩んだ。


      ◇


 男子学生が帰った後、石渡はチラシを机に置いた。


「これは、大学としても確認が必要ですね。ただし、団体名だけで危険と決めることはできません」


「はい」


 知里が答えた。


「言葉と仕組みを見ます。どんな不安に、どんな言葉を当てているか。お金がどこで必要になるか。断れる場所があるか」


 石渡は頷いた。


「あなたたちは、思ったより危ないところを見ています」


 隆が眉を上げた。


「褒めてます?」


「半分は。もう半分は注意です。見えるからといって、踏み込んでいいわけではありません。大学には大学の手順があります。外の団体が絡むなら、なおさら慎重に扱う必要があります」


 誠は、チラシから伸びる糸を見た。


 この一本を辿れば、いくつかの部屋に行き着くだろう。誰が配り、誰が集め、どこで金を取り、どこで人を囲うのか。神眼を使えば、普通の調査より早く見える。今すぐ踏み込むこともできるかもしれない。


 だが、それはしない。


 赤子の頃から、誠は力の出し方を選ぶと決めていた。見えるからといって、全部を自分で斬れば、また人の世は奇跡を待つ。必要なのは、神の怒りを人の手順に通すことだった。


「わかっています」


 誠は言った。


「この件は、大学の正式な窓口へつなぐ。僕たちは、この紙の中に『誘いへ返事する前に確認すること』を増やします。団体名ではなく、条件で見る形にします」


 石渡は少しだけ目を細めた。


「条件とは?」


 知里がノートを開いた。


「今日決めると言わせる。断ると悪いと思わせる。初回無料の後に費用が出る。仕事の内容より先に人脈を強調する。親や友人に相談するなと言う。そういう条件です」


 隆が続けた。


「金が絡むなら、金額、支払う時期、返金できるか、契約書があるか。そこも入れる」


 真名彦が言う。


「眠れていない時、食べていない時、焦っている時は返事をしない」


 誠は、チラシを見た。


「そして、一人で行かない」


 石渡は、短く頷いた。


「それなら、注意喚起として意味があります」


      ◇


 空き教室へ戻ると、待っていた四人に話をした。


 穂乃は、男子学生が昼を食べていなかったかどうかを最初に聞いた。湊子は、チラシに書かれていた会場の住所を見て、駅からの道と帰る時間を確認した。岳人は、その会場の建物が古い雑居ビルだと聞いて眉を寄せた。司は、初回無料という言葉に静かに反応した。


「初回無料は、魚で言えば試食です」


 司が言った。


「試食そのものは悪くない。でも、食べた後に高い箱を買わせるなら、話が変わります」


「飯も同じです」


 穂乃が続けた。


「ただで食べさせてもらったから、断りにくくなることがあります」


 湊子は、住所を書いた紙を見ていた。


「この場所、帰り道が暗いな。夜の会なら、行くだけでも嫌や」


 岳人が低く言う。


「非常口も確認した方がいい」


 隆が呆れたように笑った。


「お前ら、見るところが本当にばらばらだな」


「だから集まっているんです」


 知里が返した。


 誠は、全員の言葉を聞きながら、白い紙へ新しい欄を書いた。


 急がせる誘い。


 その下に、いくつかの条件が並んでいく。


 今日決めろと言う。


 親や友人に言うなと言う。


 無料の後に費用が出る。


 仕事内容が曖昧。


 断ると悪いと思わせる。


 金、人脈、成功を一度に見せる。


 隆が最後の行を見て、少しだけ黙った。


「金、人脈、成功を一度に見せる、か」


「刺さる?」


「刺さるやつには刺さる。俺でも、弱ってたら少し見るかもしれない」


 隆がそう言ったことで、空気が変わった。


 自分なら大丈夫、という言葉ほど危ないものはない。神の記憶を持つ者たちでさえ、弱れば間違える。普通の人間である隆がそれを認めたことで、この欄は説教ではなくなった。


 誠は、神眼を閉じた。


 糸はまだ見える。だが、今は紙に落とす時だった。


 見えたものを、そのまま神の言葉として出さない。


 人が使える形に直す。


 それが、国津の神として地に降りた意味だった。


      ◇


 夜、誠は駒場の門を出る前に、一度だけ振り返った。


 校舎の灯りが、秋の冷えた空気に滲んでいる。学生たちは相変わらず何気ない顔で歩いている。誰が金に困っているのか、誰が誘われているのか、誰が眠れていないのか、外からはほとんど見えない。


 だが、誠には糸が見えた。


 細く、弱く、頼りない糸。


 学生課へ返る糸。


 相談所へ返る糸。


 保健センターへ返る糸。


 家へ返る糸。


 友人へ返る糸。


 まだ名前のない外の専門家へ伸ばすべき糸。


 そして、弱った者を急がせる黒い糸。


 大国主の胸の奥で、静かな怒りが燃えていた。


 怒りは必要だ。


 だが、怒りのまま斬れば、斬った後に穴が残る。穴には、また別の糸が入り込む。ならば、斬る前に返る道を作る。戻れる場所を作る。断れる理由を作る。


 誠は、帳面を開いた。


 今日の一行を書く。


 弱った者を急がせる糸は、必ずほどく。


 だが、ほどいた手を迷子にしない。


 未来実践会という名は、まだ帳面には書かなかった。


 名前を敵にするには早い。


 見るべきは、手口だった。


 金と仲間と成功を一度に差し出し、考える時間を奪う手。


 その手が、これからの時代にいくつも増えることを、誠は知っている。


 だから、最初の一本を見逃さない。


 誠は帳面を閉じた。


 結び生活研究所の紙は、ようやく第二版へ向かう。


 ただの生活案内ではない。


 弱った人間を急がせる糸から、返る道を作るための紙へ。


 神の怒りは、まだ表には出さない。


 けれど、確かに駒場の地面の下で、根のように広がり始めていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る