第23話「再生される過去」その2
第2章 廃団地と不快な共鳴
K県郊外の山あいに佇むS廃団地は、周囲を深い雑木林に囲まれ、まるで外界から完全に切り離された墓標のように立っていた。
昭和四十年代に建てられたという、五階建てのコンクリート棟が、等間隔に並んでいる。風化の進んだ壁面は、あちこちが黒くカビて変色し、ひび割れた隙間からは、茶色い鉄筋が錆びた骨のように露出していた。割れた窓ガラスの奥には、生活の痕跡をすべて剥ぎ取られた暗黒が広がっており、敷地全体に、古いコンクリートが放つ特異な砂埃と、よどんだ湿気の臭いが漂っている。
庄田は、3号棟から少し離れた未舗装の空き地に車を停め、静かにエンジンを切った。
車外に出た瞬間、異様なほどの静寂が三人を出迎えた。周囲の山林からは、鳥のさえずりも、虫の羽音も聞こえない。ただ、乾いた秋風が枯れ葉をアスファルトの上で引き摺る、カサカサ、という乾いた音だけが響いている。そして、その静寂の隙間を縫うようにして、風が建物の剥き出しの配管や、歪んだアルミの窓枠を通り抜ける、ヒュー、ヒュー、という不規則で不快な共鳴音が聞こえていた。
「……う、あ……っ」
助手席のドアを開けた瞬間、野村が小さく呻き、その場にうずくまりそうになった。
彼女は、両手で自分の耳を強く覆い隠し、首をすくめるようにして激しく肩を震わせている。その顔は瞬時にして血の気を失い、額には脂汗がにじみ出ていた。衣服の上からでもわかるほど、彼女の細い腕には、鳥肌がびっしりと浮き上がっている。耳を塞ぐ指の隙間から、ゼェ、ゼェ、という浅い、過呼吸に近い呼吸音が漏れていた。
「野村。大丈夫か」
庄田が心配して声をかけるが、野村はそれを強引に振り払うようにして、立ち上がった。彼女は、耳を塞いだままの姿勢で、割れんばかりの大声で叫ぶ。
「何ともないわよ! ただの、建物の老朽化よ! ボロいコンクリートの塊が、風の音を変に反響させてるだけ! 構造上、不快な周波数が出やすい設計になってるだけよ! こんなの、ただの空気の振動に決まってるじゃない!」
自分の恐怖を叩き潰すような、悲痛なまでの叫び。だが、どれだけ言葉を荒らげても、彼女の身体が放つ生理的な拒絶までは隠せなかった。野村の耳元では、今この瞬間も、松本から伝染したあの「不快な耳鳴り」が、3号棟から放たれる目に見えない共鳴と同期するようにして、激しく、頭痛を伴って鳴り響き続けているのだ。オカルトを、怪異を、絶対に認めない――それは、この霊感の強い後輩が、幼い頃から怪異に遭遇し続けてきたがゆえに身につけた、必死の防衛本能なのだと、庄田はもう理解していた。認めてしまえば、彼女の世界は壊れてしまう。
野村の引き攣れた叫び声が、錆びついた団地の敷地内に、寂しく反響して消えていく。
松本は、両耳のノイズキャンセリングヘッドホンをこれ以上ないというほど強く頭部に押し当て、庄田の背中に完全に隠れるようにして、歩幅の狭い足取りでついてきた。彼の視線は、自分のスニーカーの先だけを見つめており、周囲のコンクリート棟から放たれる風の共鳴音を、ただの一音たりとも聞き漏らすまいとするかのように、全身を硬直させている。
3号棟の、割れたガラス扉が散乱するエントランスへと近づいた、そのときだった。
一階の薄暗い入り口の前に、見覚えのある黄色いポリエチレン製の規制線が、何重にも張られているのが目に入った。風に煽られた黄色いテープが、パタパタ、パタパタと、乾いた、耳障りな羽音のような音を立てて激しく震えている。その規制線の奥、瓦礫が散乱するロビーに、仕立ての良いスーツを着た男たちが数人、所在なげに佇んでいた。中心に立っているのは、白髪交じりの髪を完璧に整え、薄い唇に不快な笑みを浮かべた、中年の男。
捜査一課課長、尖田浩二だった。
尖田は、近づいてくる庄田たちの姿を認めると、わざとらしく煙草を指先で弄びながら、ゆっくりと規制線の前まで歩み寄ってきた。その目は、泥を泥として見下すような、冷酷な嘲笑を宿している。
「おいおい、またお前らか、特殊相談室の。こんな山奥のゴミ溜めにまで、何の用だ」
尖田は、庄田の警察手帳を一瞥することすらせず、背後に立つ松本の憔悴しきった姿と、耳を塞いで震えている野村の姿を、値踏みするように眺めた。
「失踪者の捜索だと? どこの誰だか知らんが、ただの大学生の家出だろう。ここは、不法投棄の取り締まりと、地元の中高生の非行グループのパトロール区域だ。本庁の捜査一課がわざわざ規制線を張って実況見分を行っている現場に、お前たちのような窓際の素人が嗅ぎ回っていい場所じゃない」
尖田の部下たちが、声を殺して笑う。庄田は、黙って屈辱に耐えながら、規制線の奥に広がる薄暗い階段室を見つめた。
以前の庄田であれば、捜査一課の命令に従い、ここで大人しく引き返していたかもしれない。組織のルールを守り、波風を立てないことが、真面目な警察官としての彼の「常識」だったからだ。だが、今の庄田は違った。この廃団地の、特に404号室という空間が、松本の言う通り「音が過去を引きずり出す」不条理なルールに支配されているのだとしたら。一課の連中がどれだけ地道な実況見分を行ったところで、その深淵をせき止めることは絶対にできない。ここで自分が踏み込まなければ、消えた木村も、そして耳鳴りに怯える松本も、永遠にあの何かの中に閉じ込められたままになる。
「尖田課長。私たちは、失踪者の遺留品がこの棟内にあるという具体的な情報を得て、ここに来ました。一課の捜査の邪魔はしません。一時間だけ、実況見分の隅で、調査の許可をいただけますか」
庄田が静かに、しかし退かない目で告げると、尖田はタバコを地面に吐き捨て、不快そうに鼻を鳴らした。
「勝手にしろ。ただし、事故が起きても一課は一切関知せん。お前たちみたいなゴミ溜め部署がどうなろうと、知ったことではないからな。おい、引き上げるぞ。こんなカビ臭い場所、長居する価値もない」
尖田は、部下を引き連れて、規制線の外に停めてあった黒いセダンへと歩き出していった。彼らの靴音が遠ざかり、やがてエンジンの始動音とともに、車の影が雑木林の向こうへと消えていく。
静寂が戻ったエントランスで、庄田はゆっくりと息を吐き出し、黄色い規制線の前に立った。風に揺れるテープを、自らの手で静かに、しかし確実な意志を持って押し下げ、その奥の、冷たい暗闇が広がる階段室へと、一歩を踏み出す。
黄色い規制線をくぐり抜けた瞬間、外界のわずかな熱気は完全に遮断され、ひんやりとした、澱んだ湿気が三人の身体を包み込んだ。
一階のエントランスホールは、外の光がほとんど届かない、灰色の薄暗がりに沈んでいた。床には割れたガラス扉の破片が散乱し、一歩踏み出すたびに、靴の裏が、ジャリ、ジャリ、と、静寂に不快な音を立てて響く。コンクリートの壁には、昭和の終わり頃で時間が止まったままの、黄ばんで剥がれかけた「ゴミ出しのルール」や、入居者募集の古いチラシが、不気味な骸(むくろ)のように貼り付いていた。
どこを見ても、完全に放置され、見捨てられた廃墟の光景でしかない。だが、その空間の隅々から漂ってくる「古いカビ」と「鉄錆」の臭いは、あの松本の手記に書かれていた404号室の空気を、そのまま希釈して引き摺り出してきたかのように、庄田の鼻腔を鋭く刺激した。
「……ここ、です。あのときと、同じ臭いが、もう、してる」
松本が、ヘッドホンを両耳に押し当てたまま、掠れた声で呟いた。彼の目は、割れた窓ガラスから差し込むわずかな光を反射して、恐怖でギラギラと狂ったように光っている。彼は、階段の最初の一段を上るのを、まるで底なしの沼に足を踏み入れるかのように躊躇い、何度も足元を確認していた。
「野村。大丈夫か」
庄田が振り返ると、野村は自分の薄手のジャケットを破れんばかりに強く握りしめ、青白い顔で階段の闇を見上げていた。彼女はもう、言葉を荒らげて「ただの風の反響よ」と叫ぶ元気すら失っていた。階段室の奥から、ヒュー、ヒューと、まるで建物の巨大な肺が呼吸をしているかのような風の共鳴音が、コンクリート壁に反響しながら下りてくる。その音波が、彼女の耳の奥の「耳鳴り」と不快に同期し、三半規管を激しく揺さぶっているのが、傍目からでもはっきりと見て取れた。
庄田は、腰のベルトに収められた、冷たいタクティカルライトの感触を確かめた。まだ、何も起きていない。だが、この薄暗い階段を一歩上るごとに、自分たちは、録音された過去が現実を侵食する、あの不条理なルールの支配領域へと、確実に、そして深く潜り込もうとしている。
庄田は、特殊警棒を強く握り直し、先頭に立って、コンクリートの古い階段へと足を踏み出した。
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