冬の終わりに
土師一樹
冬の終わりに
南窓からまばゆいばかりの陽が射した。
祝日の少し遅い朝に史郎はようやくの長い眠りから覚めかけて――まだ心地よいまどろみの中にいたが――電気毛布のぬくさから身を剥がして起きることにした。
長く停滞し続けた灰色の厚く重く居座った雲はなかった。テレビを点け気温を調べるとどうやら十度を超すらしい。
史郎はタバコを二、三本続けて吸う。そして、あらためて窓の外の様子を伺う。あんなにも積もりたまった黒く汚れた雪も僅かとなり、地表がみえ、雪の重みでしなだれ倒れた枯れ草に光が当たる。車道は轍もなくなり車が本来のスピードで勢いよく駆け抜けていく。近所での新築のための工事も本調子になったように柱をたたく作業音のやかましさが増した。カラスが鳴いている、時折、どこかから。鳥の鳴き声を意識するのは久々だった。今日、町は陽の下にある。降り積もった雪に覆われ、厚い雲に覆われ、隠れていたもの潜んでいたものが剥き出しとなり、すべて何もかもが息を吹き返したようにみえた。 史郎はSNSに投稿した過去の小説もどきの文章をいくつか思い出していた。
《『去年のいつかの夢の話』
気付けば薄暗い空間にいた。ただただ広い空間であった。そこが一体どこなのかわからない。まわりを見渡してみると一本のロープが垂れ下がっている。そこで、とりあえず昇ってみることにした。ロープの行方に光をみたのか、窺い知れぬほどの暗闇までロープは続いていたのか、残念ながら覚えていない。
「どれくらい昇ったのだろう」と下を見ると、ロープのまわりに大勢の人が集まっていた。何人かは昇り始めていた。その瞬間、『蜘蛛の糸』が脳裏に浮かんだ。
人間の心理としては途中で気がついても助かりたい、救われたいという欲求には勝てない。けれど、ロープが切れて下の人間の中に落ちてもみくちゃにされるのも耐えられない。 考えているうち、私の近くまでロープを昇るものが追いついてきたので、「ええい、ままよ」と言ったかは覚えていないが、ロープから手を離し、着地する同時にロープに釘付けになっている人々を掻き分け、その場から逃げた。どこまでも逃げてやろうと思った。
ロープを中心として出来上がった人の群れは、もみくちゃに身体を寄せ合わせ、誰かを下敷きにして上になりながらも、当人でさえ誰かの土台になってしまっている、組体操の人間ピラミッドの静の統一感と比べ、目の前で行われている蠢く動の統一感は、ロープなんか無くてもそのまま頂上までたどり着きそうだった。
後ろを振り返りながら走っていた私は、そんな風に思った。そこに頭上から檻が落ちてきた。逃げることができなくなった。群れの興味の対象が檻へと切り替わった。
奴らは檻を囲んだ。私の肉体は檻によって守られる。けれど精神は? 奴らのよだれを垂らして呻く声を聞かされ続け、檻を力の限り何度も引っ張る姿を見せつけられた。
そんな夢をみた。その日は、上田秋成の『夢応の鯉魚』を読んだ》。
《『散歩のたびに思うことなど』 最近、ぽっこりお腹を解消するべく散歩をしています。川沿いを歩くと気が遠くなるほどの数の小さな虫が飛んでおり、そこを通過するたび、髪のなかに入りこんでしまい必死でもがいている者や、身体に当たったことで死んでしまった者の死骸などをほろうのに苦労します。
その時その時の心の赴くままに、風景を見たり何かを考えながら歩いていると、道の先からこちら側へ、楽しそうに談笑しながら横並びで足を進める学生達がいました。
「ああ、また道を譲らなければいけないのか」と思いながら歩いていると、横道からおばちゃん達が現れました。
学生達の静かな談笑に比べ、おばちゃん達の明るい笑いとやかましい声色が私の数メートル先で繰り広げられています。無論、おばちゃんたちも横並び。
〈学生たちとおばちゃん達の距離が次第に近づいてきてどうなることやらと思っていたと
ころ、そこに一台の車が突っ込んできて……。〉
のような蛭子さん的フィクションはなく、現実では「まぁ、そうなりますよね」な展開でした。
都心の、すれ違う人波を進むときには、目的地に向かうことだけ考えて、まず早足で、直線を行くのではなく相手の動向を予測し抜き去るようにして前へ足を進めることがコツなのだと捉えてしまっている部分が多分にあるのですが、そんなにムキにならずにすり抜けないで、人の波の進むペースに合わせた足取りが何よりも大切かも知れませんし、そこ
のところいかかでしょう? 都会住まいのみなさま。》
史郎は物語を創造することが苦手だった。実際に自分が体験したことを素材にして書くことしか出来なかった。史郎が学生のときのクラスメートや東京で知り合った人とはもう交流が途絶えてしまっていた。現実にかかわりのある人間は家族だけとなってしまった。今、彼らは何をしているだろう。スマホでSNSで知り合った顔の知らない知人の投稿を見ながらふとそんなことが脳裏をよぎった。
一階へ降りていく。両親は朝の体操をしていた。
「おそよう」と母が声をかけてくる。
いつもと代わり映えのしない朝。何ら濁ることなく存在する清浄な空気。まるで変えてはいけないという意識の元に物は定まり置かれ調和されて空間の中を満たしている。それは史郎に冷や水を浴びせるかのように夢から現実へと戻させるのだった。
「タバコくさい」と母が非難する。この家でタバコを吸っているのは史郎だけだった。
「昨日の夜はよく眠れたかい?」足のストレッチを入念にしながら言う。治ることがない変色した青紫色した血管の右足の甲。皮膜筋断裂。怪我の痛みを軽減するクリームを丁寧に何度も揉みこみ、その上にサポーターをつける。
「うん。大丈夫」「変な夢はもうみないかい?」病気になってから毎日しつこいくらいに母は確認をしてくる。
「だから、大丈夫だって」
史郎は統合失調症を患っている。今では薬なしでは眠ることができなくなってしまった。
母はそれを聞いて安心したようだった。足つぼ台に登っては降りるを繰り返す。台所にソーセージとピーマンとシイタケのバター炒め、ほうれん草のおひたし、赤カブの甘酢漬け、梅干がラップされて用意されている。お茶碗とおわんを食器棚から取り出す。ご飯を盛り、味噌汁をよそって食べる。
「何もチンして食べればいいっしょ」じっとりと汗の滲んだ額。平然とすました顔をして足の痛みがもうまるで無いかのように早足で台所にやってくる。
「あんた、今日どこかに出かける? 今日はお寺さんに掃除に行こうと思っているんだけど。出かけるならちゃんと鍵を持っていきなさいよ」と子供に言うように確認させる。
「何時から行くの?」と史郎は訊ねる。
「十時に集合だからあと二十分もしないうちに家を出るからね」と母は言って、洗面所へと向かい化粧をする。大量にかけられた香水は台所まで漂うほどしつこくくどいバラの香りがした。
「昼過ぎまでかかるからあんた今日は街にでも行ってきて食べてきたら? 天気も良いし
気分転換にもなるだろうし」
化粧をすませた外行きの顔は温和な素顔を冷たい理知的な表情へと変えていた。珍しく、母はストールを首に巻き、父はジャケットを着ている。普段の黄色や赤といった色味の強い服は着て行かないらしい。
食べ終えた後の食器を洗い、ふきんで拭き食器棚へと戻す。史郎の部屋とは違い、ものの固定した整った居間では空気清浄機と時計の針の音だけが響いていた。ストーブはもう焚いていないらしくほんのりと寒さがあった。父が観葉植物のアイビーとワイヤープランツに霧吹きで水をあげる。時間をもてあましたのか、もう何度も読んだと思われるシワのできた新聞を読み始める。新聞の表紙にはM市の市場跡地に大型スーパーができる写真が写っている。母が父に何か言っている。同じ日本語なのに史郎には聞き取ることができなかった。
どんなときも泣き言を言わない着丈に振舞う母と婿養子の父、自分のことを「阿舎利」だとか「鬼ババア」だとか「わたしは冷たいからね」とよく口に出す母と、飼っていたインコが死んだとき庭の土に泣きながら埋めた父のもとに史郎は生まれた「。いつまでも子ども扱いしてほしくない」と言う史郎と「、親にとっては子供はいつだって子供なんだからね」と言う両親。
親離れできないのか子離れできないのか共依存なのかわからないなんともいえない家庭で史郎は育った。
両親は共にせっかちで結局本当に二十分もせずに家を出ていった。淀みのない澄んだ静かな空間の中に史郎は一人残される。
光はキレイなもの、特別な一瞬だけを浮き彫りにするのではない。影もまた陽の光の下できる。そのことを史郎は知っている。正確に時を刻む時計や空気清浄機の作動音が史郎を苦しめた。台所に供えられた荒神の札は影のなかにあった。冷え冷えとした昨日はお風呂を寒さから面倒になって入らなかったため、シャワーを浴びようと浴室に向かった。無性に身体の汚れを落としたいと思った。
湯が皮膚に当たる。包み隠すことなく身体全体を刺激する。
幼少期のアトピーの後遺症のためかフケが出やすかったので髪は二度シャンプーした。うねりの出やすい髪をまとめてくれる成分の入ったトリートメントをしようとポンプを押すと手応えは軽くいつまでたっても押し出されない。フタを回し開け底に残っていた液体を搾り出す。確か、前回もそうしたはずだった。毎日を惰性で生きていることを思い知らされる。髪全体に行き渡るようにトリートメントする。
粗いボディタオルで身体のケガレや思考のコリを落とすように強くこすりつける。肌が痛いほどがちょうど良かった。肌が一つ一つ無数の細胞の集まりであることに違和と不快と恐怖が綯い交ぜになった複雑な感情を覚えた。
最後に全身にもう一度湯を浴びた。余計なもの一切が流れ落ちる気がした。
がさがさしたバスタオルで身体を拭く。下着姿のまま歯を磨き、髭をそり、ドライヤーで髪を乾かし、ヘアアイロンで髪をまっすぐにする。史郎の髪の毛は縮毛矯正するまでではないがくせ毛で量も多く手入れが大変だった。それ故に直毛に憧れを抱いていた。潔癖というわけではない。史郎の部屋は普段乱れている。しかし「凝り性」ではあったから、室内の乱れもある臨界に達すると隅から隅まで徹底的に掃除をするという習性が身についてしまっていた。
日常着に着替える。キレイであることに越したことはない。けれどキレイを持続するのは史郎には難しかった。
史郎は自分の部屋に一度戻った。床に散らばった洋服や書類の束、先ほどまで眠っていたままの姿が残るすっかり史郎のにおいの染み込んだまだ微かに温もりの残る布団、テーブルの上に無造作に置かれ溜まった薬、国民年金、国民健康保険、市民税などの請求書、いつか片付けなければと思いながらやり過ごしきたものの類いが部屋を見渡すと散乱し存在している。空は青空だというのに。
見かけだけでもキレイにしようと思った。よく内面を磨くことで外面が美しくなるというが、史郎の場合は逆だった。外面だけでも取り繕いいつの間にか内面も磨かれているというほうが性分にあった。史郎は不器用だった。
まずテーブルの上の分別されていない請求書類を書類ボックスにしまうことから始めた。次に床に散らばった洋服をタンスにしまう。カーペットをコロコロし、ゴチャゴチャした難しい書類の束は選別するよりもひとつの固まりとし―室内の広さからあきらめ――布団をひっぺ返し掃除機をかける。ただこれだけのこと、時間にして一時間もかからない作業を史郎は毎日を無駄にし整理せずにきた。室内が乱れるのにまかせた期間は何ヶ月もあったというのに。居場所がなくなり宙に浮かんだホコリが陽を受けてあらわになる。ゆっくりと落ちていく。ホコリをも光はキレイに見せる、と史郎は思った。
母の言うとおり街へ出ようと思った。久々に自家用車ではなくて、バスに乗りたくなった。街へ向かうバスは一時間に一、二本しかない。時刻表を調べて一一時三二分のバスに乗ることにした。それまで時間が少しあった。近所を散歩でもして史郎は時間をつぶすことにした。
外に出ると頬が赤くなるような冷たい風が吹いた。東からの風。せっかくまっすぐに整えた髪が乱れた。でもそうだろうとは思っていた。この町で風が吹かない日なんてめったにないから。北国の厳寒さを表わすような激しい風を受けてまだ冬は完全には過ぎ去っていないことを思い知っただけのことだ。前だけを見て歩く。陽の光だけが慰めとなった。コートのポケットに手を突っ込む。家の裏手にあるハゲ山の麓の墓地まで歩くのは一〇分もかからず、往復する頃にはちょうど良い時間になる。
近所の「おばさん」が畑で雪の溶けたぬかるんだ土を掘り起こしていた。土は黒かった。小さいとはいえこれをすべて一人、手作業で行うのは重労働だろう。小さな頃は史郎も交流があった「おばさん」。寒さを感じないように身体を動かし続けている。軽くお辞儀をし交わすと、「おばさん」はまた黙々と畑を耕す作業へと戻った。
海山不動産の所有しているアパートが見えた。昔からある二階建てのアパートだった。外壁がまた塗り替えられている。今はどの階も入居者募集と張り紙が張られている。
人の減少が止まらない。M市にも有名なデパートがあったが一〇年前に閉店し、更地となり、今は電気屋が後を引き継ぐように敷地を利用している。
かつて、港湾都市、工業地帯として人口の膨れ上がった頃から考えると、高度経済成長を過ぎ、バブルの崩壊、リーマンショック、東日本大震災、いくつもの事象が重なって、M市は穏やかに衰退の道を辿っている。若者は地元を離れて都会に移り住み、年寄りだらけが住む町へと変容しつつある。
史郎もかつてはそうだった。二〇歳の時、東京にある某専門学校に通うため地元から離れた。新宿と中野の境目にある西落合に住み、約五年同じアパートで暮らした。林芙美子記念館の石畳の道を行き、中井駅まで歩いて西武新宿線に乗る。平日は高田馬場で降り、一五分ほど歩いて学校に向かう。授業は文学やルポルタージュ、写真の撮影の仕方やMACを使っての編集作業を学ぶことができた。
教室のにおいや空気。あの梅雨の湿った空気の中で授業を受けたこと。髪はアイロンをしてもうねって。その頃は肩ぐらいまで髪を伸ばしていたから手入れが大変だった。
窓を開けてもビル群に遮られて風はなく、北海道とは違うからっとした夏の暑さの中、授業の課題で一人都電荒川線に乗って「お年寄りの街」巣鴨まで行き、お岩さんのお墓を見に行き、怪談のお岩さんと実際のお岩さんの違いを知り、その足で雑司が谷まで歩き漱石の墓に行ったこと。
生意気な生徒だったと振り返ると笑えてくる。北海道の田舎からわざわざ親に金を出してもらって上京したのにも関わらず、授業中漫画ばかり読んでいるような生徒で、なおかつ授業が終わるとみんなを誘って「飲みにいくぞー」とさわぐようなクソガキだったから。当然、通知表の文学の項目はいつも赤点ギリギリだった。田山花袋の『布団』のように布団を抱きしめながら終わるのは嫌いで、どこまでも追い詰める近松秋江こそが良いのだと講師に向かって言ったこともある――その頃は文学なんてまるで知らなかったからこそ堂々と言えたのだと今になって思う。
ある講師が芥川賞受賞者の女性と青山ブックセンターで対談すると言うので、講師に無理を言って関係者席をひとつ確保してもらったことは今でも覚えている。対談前の待ち時間に笙野頼子の『だいにっほん、おんたこめいわく史』を読んでいた。通りかかった講師は表紙をまじまじと見ていた。さて、対談が始まり半ばを過ぎた頃になって、突然「笙野頼子なんて読んでちゃいけない」と大勢の観客がいる中で、史郎めがけてメッセージを発したことを。「柄谷一派め」とその時思った、大好きな講師のI氏。
中上健次が大好きな講師がいた、誘われるように二年次、熊野大学に行った。青春一八きっぷを使い中央線鈍行を乗り継ぎしながら京都にまでビジネスホテルに一泊し、次の日、南下し新宮へ行った。その時のテーマは〈秋幸と上田秋成〉と言うものだった。大勢の人が参加していた。夜、食事会のとき、授業のときは眼光鋭い講師が酒を飲んで顔を真っ赤にしながら「大きな物語を書きなさい」と何度も言った、同郷出身のT講師。クラスメート数名と吉祥寺まで行き、井の頭公園で花見をした記憶もある。
もうあの頃の友人達との連絡先さえわからない。
東京での生活は楽しかった。田舎では味わえなかった知識を溜め込みたいと言う欲求から新宿に出て、今は無きジュンク堂に立ち寄り、伊勢丹に入り洋服をブラブラと見てまわり、紀伊國屋、diskunionで本やCDを漁って、駅の方角へ戻りタワーレーコードに行く。または、中野まで歩いてブロードウェイに行きニューウェーブのCDを沢山取り扱う店に一日入り浸る。哲学堂公園の周囲を走り身体を鍛えたこともあった。
専門学校では二年次に卒業課題があった。史郎は小説を書くことになっていた。だが、その頃の史郎は知識をあまりにも詰め込みすぎたために頭が固くなり、いざ作品を作るときになって創作することが出来なくなってしまっていた。出席単位は十分に足りていた。校長は「辞めることはない」と引き止めてくれたが、みんなが卒業課題を完成させて卒業していくにも関わらず、自分だけが何もなしではズルいような気がした。中退。その同時期、祖父はなくなった。
二年次の冬休みに一度地元に帰っていた。祖父はまだその頃生きていた。病院に会いに行くと祖父は、史郎のことだけは覚えていてくれた。顔や身体はげっそりとやつれまさに骨にかろうじて肉がついているようなものだった。三世帯家族として生まれた史郎は恵まれていた。「いつ死んでもおかしくない」と医者に言われていた。
生前の祖父はトラブルメーカーだった。キャンプに行くと必ず問題を起こす。スワンボートに見守りで乗っていたのに、途中で動かなくなると陸地へとジャンプし一人だけ逃げた。あるときは、ターザンロープで上の器具に指を挟めたまま滑り、指を出血する怪我をする。弱いくせに酒が大好きで、飲むと必ず暴れ騒いだ。認知症になるとどこで知ったのか、家に祖父に会いに来てマグロを売ろうとする詐欺業者まで現れるようになった。国鉄の切符売りだった頃の記憶に戻っては、「国鉄に行く」「国鉄に電話させてくれ」とよく言った。
そんな祖父だったが亡くなると、とてつもない虚無感に襲われた。初めて肉親の死がどういうものなのかを知った。昨日まで生きていたはずの人間が、もういないということはどういうことなのか。火葬場に向かうバスの中で史郎は大泣きした。
その一年後、別の病院に入院して祖父の死を知らせていなかった意識混濁の祖母も後を追うように亡くなった。母は「虫の知らせでわかっていたんじゃないか」と振り返るとよく口に出す。祖母の死のとき、史郎は泣くのを我慢していた。普段弱みを見せない母だけが珍しく一人泣いた。葬儀は家族葬で行われた。夏の日のことだった。葬儀場ではエアコンがつけていたがそれでも暑かった。ドライアイスの交換を何回も係りのものが行っていた。火葬場で焼かれ、骨が焼きあがると母は何もかもすんだような、そういう顔をしていた。その頃はまだ史郎は東京にいた。地元に帰る気がしなかった。フリーター生活。ネットカフェで働き、書店で働き、ビル会社の引越しのアルバイトなどで生計を立てていた。1R、五八〇〇〇円。生活は貧しく身長178cmにもかかわらず体重は56kgしかなかった。
隣の部屋はゴミ屋敷でゴキブリがよく換気扇や天井に備え付けてある照明の穴から出た。北海道には――都心部は別として――ゴキブリはいないとされていて、東京で見るのが初めてだったゴキブリ。虫嫌いの史郎には耐え難いものがあった。でも、田舎者にとってモノで溢れかえる街東京は何もかもが新鮮で刺激的であった。
二五際のある夏の日、東京の某会社で正社員になるための試用期間中、三日間三晩一睡もできずに幻聴が聞こえ出し大勢の前でパニックを起こし辞めることになった。そして統合失調症を患ったことがわかり地元に帰った。
今でも時たま懐かしさから夢見ることがある、もう一度東京に戻りたいと。でもそれはもうかなわない願いだとわかっていた。病気は生意気さをも無くさせてしまった。それに年老いた両親への心配もあった。
風が吹き抜ける。転倒防止のため冬のあいだ撒かれた砂利があちらこちらに散らばっている。大きな石を見つけては子供に返ったように蹴飛ばして道を行く。そんなことをしている間に墓地へと着く。
墓地の駐車場に着くと、ところどころ朽ちた木のベンチに座ってタバコを吸った。スマホを取り出して現在の時刻を確認する。SNSを見る。顔を上げると空が見える。都会の空は天井を見上げなければならないほどにビルが建っているが田舎の空はそれだけでよかった。空は薄い青色がどこまでもそうであるかのように広がっている。吸い込まれそうになる青色が史郎は好きだった。何もかもこの青空に吸い込いこまれてしまえ、と思った。
タバコを吸い終えると、来た道を戻りバス停まで歩く。時間は十分にあった。路地を通り抜ける。葉の落ちた生垣の細い枝の中をスズメらが忙しなく飛び動き回っている。赤い橋を渡る。
裸木。もう一ヶ月もすればこの川沿いの桜の木々も咲く頃となるだろうか。内地ではもう満開に桜が咲くのを先ほどテレビで映し出されていた。もう春なのか、もうすぐ春なのか、それは史郎にはわからなかった。けれど、内地のぼってりと厚みのありそれはまるで自己主張するかのような桜よりも葉の一枚一枚が違った意味を持つような繊細に見える弱々しげだが儚く咲くような北海道の桜のほうが史郎はすきだった。
M市で生きるということは楽ではない。面白い仕事はないかとハローワークに足繁く通った。工業高校を出ていない身ではクローズにして介護士として働くことしかできなかった。介護の資格を取るために学校に通う必要があった。宅配便の短期の深夜アルバイトをしお金を稼いだ。工大生が多かった。T市に向かうため片道一時間バスに揺られ、着くとヘルメットと軍手をし作業に取りかかる。トラックから降ろされた荷物をコンベアーに載せる仕事を任されていた。簡単なようで長時間続けていると手が上がらなくなるような重労働の仕事だった。それで一〇万以上稼いで入学金を支払った。授業は短期コースを選び約一ヶ月で資格を取った。けれどすぐに介護の仕事に就くことはしなかった。
「まだいい仕事見つからないの」「せっかく介護の資格取ったのに」「あんたは本当に長続きしないね」と両親からの言葉が痛かった。ハローワークの相談窓口で何社か紹介され履歴書を送ったが、
〈今後ますますのご活躍をお祈り申し上げています〉
という文書が送られてくるばかりだった。
約一年後、埒が明かないと判断し仕方なしに介護の仕事に就いた。
統合失調症の薬は最初のうちは飲んでいた。だが約一年たっても効果がみられず、それにその頃はもう治まったように感じていたから止めてしまった。断薬。年月が立ち寛解したとばかり思っていた。
それがいけなかったと史郎が知るのは約四年後。突然また眠れなくなり、幻聴が再び聞こえ始めた。記憶にはわずかにしかないが、父が言うには深夜、冷蔵庫に向かって会話をしていたらしい。救急車を呼ばれたが入院するまでにはいかなかったのが救いだった。
海そばにある病院にすぐさま通うことになった。仕事は無理を言って休ませてもらったが、病気のことを同僚スタッフに知られ、施設長が判断し辞めざるを得なかった。
月二回から始まった通院生活。平日、火曜日の受診日でも大勢の人がいた。八時三〇分から受付が始まり九時にナースセンターが開きまず血圧を調べる。診察時間は九時三〇分からだったから待っている時間は苦しかった。他者の視線、他者の会話がすべて史郎に向けられているように思われる。足のムズムズが止まらない。貧乏ゆすりを止めることができなかった。アカシジア。担当の医師は北大から来た同じ年くらいの若い医師が担当だった。病気が発祥した直後は精神薬の量も多く出された。
エビリファイ18mg。
その頃は副作用で苦しめられた。常に身体を動かし続けなければならない衝動に駆られた。病院でそのことを先生に告げるとリボトリールを処方されたが効果はまるで見えなかった。
結局、エビリファイの量を12mgにすることで何とかアカシジアを自制できるまでになった。そこまで治まるのに半年はかかった。決して治ることのない病気と付き合っていくのは楽ではない。一日一回夜に八錠の薬を飲まなければならなかった。エビリファイ、リボトリール、レスリン、アキネトンに睡眠薬のレンドルミン。水を飲み三回に分けて口に流し込む。
耳鳴りが後遺症として残った。まだ、時おり人の声に聞こえることがある。冷蔵庫やストーブ、空気清浄機の作動音、トイレの水が流れる音、果てはお腹が鳴る音まで「心を静めなさい」「やっと気付いた」「地元の恥」などと聞こえてくるのである。
今では月一回へと通う回数も減り、史郎は「大丈夫」を繰り返す。けれど、統合失調症をわずらった人間にしか――いや、統合失調症を患った人間でも症状は様々だろうけれど ――この病気の辛さはわからないと思う。
両親の前では「大丈夫」を繰り返すことが唯一の強がりだった。史郎は甘えること、本音を話すのが苦手だった。風は史郎の背中を押すように早足にさせた。軽い傾斜の坂を上ったところにバス停はあった。
バスは約五分遅れて到着した。久々に乗るバスは乗客が僅かで空席が目立った。愛想の無い車掌の顔が見えた。暖房が暑いくらいに効いている。冷たい風の中を進んできた史郎にはありがたかった。動き始めるバスの中でお年寄り同士が席を挟んで何か世間話をしている。大学生がスマホで音楽を聴いている。音漏れしていることに気付いていないようだった。何もかもが煩わしく思えて窓の外だけを見るようにした。時々バスがデコボコと揺れる。雪のために舗装された道路に亀裂ができてしまっているようだった。
昔通っていた高校、自転車屋、シャッターのしまった個人経営の酒屋、駐車場の広いコンビニ、二階建てアパート、学生向けの飲食店、車は緩やかなスピードで走り抜けていく。工業大学の前で時間調整のためにバスはアイドリングのまま停車する。大学生が降り、また違った大学生数名が乗ってくる。
ぽっかりと空いた時間。足を組みかえる。スマホをいじる。イヤホンをしYou Tubeにアクセスしてさくらんの『たとえば×××』を聴く。窓からわずかな光が入ってくる。もう何度も訪れたはずの冬と春の境目を思い出してみようとするがうまく思い出せない。
四月になればそれで「春」ではないと思った。そんな単純な暦で決められた答えを史郎は嫌った。きっと季節の変わり目は急激にではなく穏やかに変化していくものだから。たとえ今日が春の始まりでも、実感として湧かなかった。
バスを揺らすほどの突風が吹く。吹いた風はどこへ行くのだろうか。きっと海まで吹きぬけていくのだろう。
再びバスが動き出す。マニュアル車特有のギアを変えるタイミングが振動や音を通してわかる。バスがスピードを上げる。通り抜けていく風景。美容室、変電所、母が恐れ嫌う神社、坂を下り次のバス停まで走り抜ける。見慣れたいくつもの風景。どれだけこの風景を見て育ってきたのだろう。記憶の奥底にしまわれ堆積した思い出。この山の高台に神道系の新興宗教所があり、祖父は認知症になるまで通っていた。町内では達筆で有名でよく布団屋の店主から「字を書いてくれ」と頼まれることもあった。毎日日記をつけていた。頭をポマードで固め、タバコを吸い、仁丹を齧り、常に菊の御紋が刻まれたネックレスを身につける祖父の姿が頭をよぎる。けれど、
「若い頃の父はおしゃれだった」と母は過去を思い出して皮肉に言う、苦々しげに。
「国鉄で働いたお金でオーダーメードの背広を作って、私の短大の費用は一銭も出してくれなかった」と。
「もう時効だから言うけど、しょうがないからN市の温泉まで行って中学校の頃内緒で舞踊をしてお金を稼いだもんだ」
「母は編み物の先生をしていたけど編み機に腕挟んで左手無くしたでしょ。お金なんて無い。料理も一人で覚えるしかなかった、短大の費用だって自分で稼いだんだ、そのおかげでわたしは強くなったもんよ」母は短大を出てカトリックの幼稚園の先生になった。
また、祖父とは別の仏教系の新興宗教に祖母と一緒に入った。子供の頃、史郎も連れて
行かれた。毎回行くと、お賽銭をした。お題目を唱え終わると、
〈会長先生、おはようございます。教会長さま、おはようございます〉
と必ず言った。大型スーパーの前で募金活動をさせられたこともある。赤い羽根募金に赤十字募金。今はようやくやめてくれたようだけれど。新興宗教は怖い。家族を巻き込む新興宗教の恐ろしさを史郎は身をもって知っている。
人間には裏も表も必ずある。だからこそ面白い。どんな人間も聖人にはなれない。聖人君主を気取っているような人間こそ危ういものはない、史郎はそう思う。そして他者の目から通して見える私とはいったいどう見えるのか考える。藤枝静男の本を取り出す。
〈皇国思想でも共産主義革命でも思想でもいいが、それを信じ、それに全身を奪われたところで、現象そのものが変われば心は醒めざるを得ない。敗戦体験と云い安保体験と云う。それに挫折したからといって、見栄か外聞のように何時までもご大層に担ぎまわっているのは見苦しい。そんなものは、個人的に飲みこまれた栄養あるいは毒であって、肉体を肥らせたり痩せさせたりするくらいのもので、精神自体をどうできるものでもない。
章は、ある人の思想と言うのは、その人が変節や転向をどういう恰好でやったか、やらなかったか、または病苦や肉親の死や飢えをどういう身振りで通過したか、その肉体精神運動の総和だと思っている。そして古い木にはそれが見事に表現されてマギレがないと考えているのである。〉
バスが走り出す。また次の駐車地点まで向かうために。史郎は思う、これは天命なのだな、と。決められたコースをどのタイミングで、どのスピードでは通過するのかはその本人しかわかりえない。天命に逆らいたいと思った。どれを選択し、どれを選択しなかったでポイントの変わるあみだくじのようなものが人生なのだとしたら、小吉でいいから少しの幸福のまま死にたい、と願った。
街に着くころには音楽は聴き終わっていた。イヤホンをショルダーバックにしまった。ガソリンスタンド手前のスナックやバーが入ったビルの前でバスを降りる。風はやまない。ものすごい速さで雲が進んでいくのがわかる。信号機を渡りショッピングモールまで歩く。郵便局、交番、と道は続く。
表から入らずに裏手のほうから施設に入った。入り口横に喫煙場があったから。時刻は正午をまわり休日もあってか人が多かった。タバコを吸う。タバコを吸い終わる。タバコの量が増えているのは問題だった。ただ、統合失調症にタバコは効果があるというインターネットでの記事を見て吸い始めた。半年間タバコを吸っていると、次第に無意識でタバコを求めるようになってしまった。両親からも「気をつけなさい」と言われていた。
喫茶店に入る。カフェでお茶をするのが数少ない癒しだった。窓側の席に座る。史郎は再びイヤホンを取り出して音楽を聴く。cali≠gari。巷にあふれた大勢に向けられた何の重みも痛みもそこには無いただ陽気なだけの希望を歌う嘘くさい流行歌が嫌いだった。だが、cali≠gariの音楽を聴いているときだけは寂しさや悲しみ、痛みとともに慈しみや救いに触れることができると思った。
また本を取り出す。『田紳有楽』より『空気頭』のほうを史郎は好んだ。眼科医でもあった藤枝静男の文章はそれこそメスを入れるように情け容赦なく自分自身を冷徹に見据える眼差しがもたらす硬質な文章が好きだった。オチのグロテスクさも好きだった。それだけでその場から離れられると思った。何度も足を組みかえる。アカシジアの影響で、足をじっとしていることができない。おばさんたちの話し声がやかましくてボリュームを上げ意識からかき消す。誰とも交わることなく一人きりになりたかった。ショッピングモールの中の服屋はいつも何か理由をつけてセールをしていた。ただでさえ安い服をセールにしても人の入りは悪かった。そんなものに史郎は興味を持てなかった。唯一救いのカフェでさえチェーン店で味気なく、来るお客といえば日用品を購入し一休みに立ち寄るくらいの客ばかりで、本当はそれも嫌だった。
小説を百ページほど読んだあたりでレモンティーを飲みきっていることに気がついた。史郎はカフェを出た。
M市の過去を知ることのできる写真コーナーができていたので立ち寄った。アーケードに溢れる人々、鼓笛隊をする児童、全国でも珍しい円形校舎の小学校の前で遊具に乗って遊ぶ子供、旧M市の駅、町が栄えていた頃の写真は史郎の心をひきつけた。
よくあるつまらないノスタルジーの感触を残さない白黒の写真は見ていて飽きることがなかった。もう一度高度経済成長があれば、とは思わない。史郎はM市が形成され繁栄されるまでの事情を知っていた。昔、遊郭があったことは小説化の葉山嘉樹や漫画家の曽根富美子が作品化して表現されているが、そのほかに朝鮮人労働者の問題があった。これは意外と知られていないことかもしれない。
高校のとき年末アルバイトで郵便局の配達の仕事をしたことがあった。自分が任された担当区域内に遺骨が保管されている寺はあった。その頃はそのことを知らなかった。東京の国立国会図書館で室蘭のことを調べている時、そのことを始めて知った。今まで当たり前だった室蘭の土地がその時、別な意味で特別な土地であることを思い知らされた。戦後になってからも、大気汚染に土壌汚染、苦しめられた人がいる。そういった現実の表裏を知りながらこの写真群を見ることはただの過去を懐かしみ、戻りたいと思わせるようなものでは終わらせなかった。煙突から上る黒い煙にどれだけの人が喘息を患い苦しめられただろうか。
史郎も子供の頃喘息だったからその辛さが痛いほどわかった。幼少期は身体が弱かった。
夜になると発作の始まる喘息。仕事を終え疲れて眠る父を母がたたき起こして病院に何度も通った。病院に着く頃には自然と治まる。何のために来たのかわからないと、父は一度史郎に向かって怒りの感情をぶつけたことがあった。今でもそのことを思い出すたびに申し訳なかったという気持ちを口に出す父の姿は、海で働く黒ずんだ健康なそれこそ太陽の光の似合う三十代の姿からは想像できないほどに――痩せ細り白髪交じりの――優しさが心から溢れるような表情を浮かべるまでに変貌させた。
史郎は満たされたような気がした。昼ごはんを食べることなく、ショッピングモールを去ることにした。ハローワークに行こうと思った。今すぐにでも仕事に就きたいと思った。 ハローワークに着いたが玄関が開いていない。そこで史郎は今日が祝日であったことを思い出した。長時間この寒い風が吹く中スマホをいじってはいられなかった。目の前に大型スーパーがあるのに気付き椅子は無いかと探し回った。一回のエスカレータ裏は老人だらけで椅子は占拠されていた。二階、三階と見て回る。レストランは一三時を過ぎても大勢の人でいっぱいだった。諦めかけたとき、屋内の駐車場入り口の横に椅子があるのを思い出した。史郎は安堵した。いくらか風をしのげるだけでもありがたいと思った。
インターネットで求人の検索を始めた。新着の求人をまず見る。どこも鉄鋼業に関連する仕事か介護の仕事しか選択肢が無かった。過去の求人を片っ端から見ていく。介護の仕事はすでに嫌いではなかった。ただし好きでもなかった。介護は人間関係が濃い仕事だ。バツイチの子持ちに少年院上がりの昔悪かった若者、小指が無い運転手、癖の強いしゃべりだすと止まらないおばさん、気が強く他を威圧するユニット長、そういった人間たちと同僚だと仕事以上に疲れが溜まることがあった。
両親は「どんな仕事も最後は人間関係」といって辞めたくなったとき、そういって史郎を引き止めた。そのおかげで史郎は約三年間介護の仕事を続けられた。グループホームでの動きはもう身体で覚えている。何をどうすればどうなるのかもある程度わかったつもりでいる。もちろん、認知症の症状がどのように現れるかは人それぞれだ。今まで関わってきた入居者の顔を思いだす。
頻尿で食事中でさえトイレに通うYさん。そのたびにスタッフが付き添わなくてはならず、食事をす早く食べる習慣が身についた。
隣のユニットにぶらりと出かける化粧好きのHさん。いなくなったことに気付く頃には施設長と手を繋ぎながら「わたし遊びに行ってたの」とこちらの心配をよそにけろっとした表情で喋りだす。
夜になると帰宅願望の現れるSさん。ここがホテルだと思い込ませても駄目なときは駄目。終いには〇時をまわった頃になって「うちに電話してください」「タクシー呼んでー」と訴えだす。
便が四日も出ていなくて食後に下剤を飲ませてお便を出させることも介護の仕事では日常茶飯事だった。大体出るのは夜勤帯の時間で始末をするのに一苦労する。泥状の便をトイレットペーパーですべてふき取り、シャワーボトルとボディーソープで丁寧に洗っていく。少しでも残っていたらかぶれの原因になる。ウエス(布切れ)で軽く拭き取り最後にタオルで拭いて入居者を体位交換させながら大パットとオムツをする。ラバーマットまで便汚染してたらそれも交換しないといけない。汗の出る作業だ。簡単な車椅子移乗、入浴、大人数の家事炊事まで一通りのことはできるようになった。
だが問題があった。入居者が寝静まった後の静寂の時間を過ごせるのかが気がかりだっ
た。耳鳴りにまで治まった病気がまた人の声に聞こえるという幻聴に変わりはしないか。
デイサービスでは車を使う。普段から車を乗ってはいるが、アカシジアが出始めた頃から運転に不安を感じるようになった。そのような状態の中で、利用者に万が一のことがあったらと思うと二の足を踏んでしまう。
ショートステイに訪問介護。応募条件が介護福祉士の資格を持っていなければならないとある。旧資格のヘルパー二級のままで働いてきた史郎はもう一度資格をはじめから取り直さなければならないことがネックとなった。介護初任者研修を受け介護福祉士になりケアマネージャーになる……。そういった先のプロセスを考えると史郎は気が滅入った。
〈人から喜ばれ、人からほめられ、人から評価される〉
といった喜ばしいものだけでは決してない。常に人手不足で低賃金のわりに重労働であり、ヘルニアの同僚が何人もいた。コルセットをしてみな働いていた。
障害者雇用で働くのは金銭面的な部分で満足できるようなものは無かった。また、障害者手帳が必要になってくる。史郎は障害者年金は受け取っていたが障害者手帳はまだ持っていなかった。働きたいと思わせる求人はほとんど無かった。検索した時間が無駄だったような気がした。史郎は帰りのバスを待って家へと帰ることにした。
家に着いたのは一四時を過ぎてからのことだった。陽を覆うくらいに雲が立ち込めている。鍵をドアに差し込もうとすると鍵がかかっていなかった。両親がもう帰ってきているのだとわかった。「ただいま」と言ってドアを開けた。
両親は「ちょうど今帰ってきたところだったよ」と言って、優しい声で史郎を迎えてくれた。
「ご飯食べてきたの?」と母が聞く。
「何も食べていない」
「まーた」と少し呆れたような怒ったような芝居をし、「たいしたものしか作れないからね」と言った。
史郎は大してお腹が空いていなかったが断るのも申し訳ないと思い、調理を始めた母に向かって、
「お寺はどうだった?」と訊ねた。
「そんなには人が集まらずにそれでもまぁ、何とかなったわ」玉子をかき混ぜ、陶器のおひつに入った冷めたご飯を入れる。
「お父さんは今日は二階でずっと卒塔婆書きの手伝い」ネギ、魚肉ソーセージを切っていく。
「長時間正座をしてずっと体勢を固定していたから足と背中が痛いんだって。あんたもんであげたら?」とからかいの言葉を母が言うと、
「いい、触らなくていい」と父が答える。
「で、あんたどうだった? 街は楽しかったかい?」フライパンにコレステロールゼロの食用油を入れ、切った具材と混ぜ合わせた玉子とご飯を入れる。
「なんも。カフェでお茶しただけだよ。そういえば、展示やってたわ。昔のM市の写真の展示」
「へぇ。」
「ほらチャーハンできたから食べなさい」ゴマとシラスを上に乗せたパラパラの少し薄すぎるような味付けのチャーハンとワカメスープを出してくれた。
「暇だったからインターネットで仕事探してた」と史郎は言う。
台所から居間に戻りソファに座りながらお茶を飲む母は「なんか良い仕事あったかい?」と言う。
「やっぱり介護くらいしかできるような仕事は無かったよ」
「でもあんた、夜勤は病院の先生から無理しないほうがいいって言われてるでしょ」と母は語気を強める。
「でもつける仕事といったら介護くらいなものだし」と史郎は諦めたような声を出しながら言った。
「はぁ、そうだよね。年寄りばかりの町だからね、ここは」
すると突然父が「そのうちM市も第二の夕張になるぞ」と喋った。
「そうだよね、都会と違ってJXも日鉄も仕事が無いし」と母が相槌を打つ。
史郎は黙ってチャーハンを食べた。福神漬けがしょっぱかった。父がテレビを点け、BSでやっているサスペンスを見始めた。チャーハンとワカメスープを食べ終えた史郎が食器を洗おうとすると「いいって。」と母が良い、「いいよ俺が洗うから」と押し問答し、根負けした母はソファに座って編み物を始める。今度は何を縫う気なのだろう。確か前回は、腰蓑のようなエプロンを作ったはずだ。
編んでは解き編んでは解きを繰り返している。母は「なんか気に食わない」「思ってたのと違う」と、それこそ後もう少しで完成させられるところまで行ってもすべて解くような執拗さがあった。洗い終わり所在なくした史郎は「部屋に戻るから」と言って二階へ戻ろうとする。
「あ、」と大きな声を母が出した。
「そういえば大事な話があった。あんた、ちょっとそこに座ってくれる」と居間に座るように促され、史郎はおとなしく従った。
「今日、坊さんからあんたに、って預かり物してるの。今とってくるから待ってて」と母は自分たちの寝室に何かを取りに行った。所在無げなくなった史郎もテレビを見る。ルポライターが探偵役となり犯人を捜すというものだった。再放送の番組で映像は粗く古めかしかった。両親はこのドラマが好きだった。それ故、犯人がわかっているはずなのにまるで初めてみるように父は集中してテレビを見ていた。そして、誰に言うでもなく「まだ若いな」とつぶやきを繰り返す。
「ごめん、遅くなって。」と母は居間へと戻ってくる。そして、二枚の紙を手渡してきた。
青色と緑色の小さな紙がそこにはあった。
「どちらかを選びなさい、って。もう一方はお姉ちゃんに渡すからね」と言った。
史郎は突然のことで困惑した。青色も緑色も大切な色だった。より正確に言えば、青色と緑色が交じり合ったような色が史郎は好きだった。どちらかを選べばどちらかを選べないことが苦しめた。正解の無い問い。メビウスの輪やシュレティンガーの猫やトロッコ問題のようなもののように感じた。史郎はしばし考えた。姉のことが頭をよぎった。史郎は青色を選んだ。青色を選んだことを母はどう思っただろう、母の表情は驚くでもなく喜ぶでもなくまるで感情を表に出さないように努めるかのように
「そう。それでいいのね」と言った。
「じゃあ、二階に戻っていいわよ。」と先ほどまでの室内を覆っていた空気を変えるかのごとくわざと気の抜けたように声を出した。何が起こったのかわからずに、史郎はただ母の言うとおり二階へと戻った。
史郎は途方にくれた。あの選択は自分にとって正しかったのか整理しようと思った。けれど、今さらなしには出来ないと、あの居間の張り詰めた空気からわかっていた。史郎はタバコを吸いながら考える。自分が青色を選んだ理由を。必死に。手探りで。
一般的なカラーセラピーなどでは青は冷静さを、緑は調和を司る色とされている。でもそれは大雑把なものだと感じていた。より根源的な色がもたらす役割を昔、考えたことがあったから。史郎は一人考えで、青はなにものをも飲み込み吸い込む強大な力があり、緑は繁殖の色ではないかと思っている。また、緑は繁栄の色であり悪用すれば万世一系の思想につながるのではないかという危惧もある色だと感じていた。だから、青色を選んだのか。いや、それだけではない。姉のことがあの時頭をよぎったのは姉には自分のように統合失調症を患うことなく、大勢の人の輪の中で平穏に暮らしてほしい、という思いが働いたのだと思った。
姉も一度精神を病んだ時期があった。軽いうつ病と診断されたが姉は薬を飲まずに「気合」で乗り切った。札幌の美容室で働き、シャンプーやカラーの薬剤で手が荒れて大好きだった仕事をやめざるを得なかった。今は女性用のウィッグを売る会社に勤めている。史郎と姉は特段仲が良かったわけではなかった。二歳上の姉とはむしろ仲たがいするような関係だった。それでも二歳上の姉のことを史郎は心のどこかで思うことをやめることができなかった。
史郎は子供の頃から考えるのが好きな子供だった。でもそれは、きっと答えがあると信じていたから。小学生のときソロバンをやっていた。一級まで言ったが中学に入るタイミングで辞めてしまった。答えの出る計算は得意でも答えの無い問いは人生を揺るがすものだ。答えの無い問いほど難しいものはない。答えの無い問いに憧れ、かつ恐怖を覚える。先ほどもそうだった。分別できなかった書類の束一つ一つが意味を持っているのだと視線を向けざるを得なかった。苦しむのは一人だけでいい。そう思った。「青の循環」も肌に合う。アイヌは別として、北海道は明治時代に内地から移住してきた人間によって形成されている部分が多分にあるから、古い村社会の陰湿な風俗や因習とはなじみが薄い。緑色を選んでいたら「緑の循環」に向き合わざるを得なかった。野辺送りにもがりの作業。古式の葬儀ではなく家族葬、できれば海に骨を散骨してほしいと思った。緑は好きだ。でも緑は怖い。
書類の束の中からノートを取り出す。ノートの中から昔書いた「色三部作」を探す。
《『青』
墓の雑草取りをしに行った。小さなカタツムリの殻が墓石にくっついていた。しょうゆバッタがいたが捕まえようとするとすぐに跳んでいった。日が過ぎる。風の勢いが出てきた。うねっている。長く、低く、高く。家までわずかに揺れる。軋む音。夜は暗い。空き缶が転がっていた。泣き続けるのをやめない犬。眠れずにいて耳が冴えた。家の前の道路を忘れそうな頃に車の走り去る音が聞こえる。ブラインドの隙間から自動販売機の光が見えた。
明け始める前の空が好きだった。明け始める頃が好きだったわけではない。家々に光はなく、音という音もなく、耳が冴え、思わず窓を開けて外の空気を感じて星空を見上げて。流れているのを感じる意識が伸びていく。そのうちゆっくりと明けはじめ気が陰っていく。
アルバイトをしていた頃、「磯」の行き方を教えてもらった。
「昔はそこにも打ち上がった昆布を拾いに行った」と。
今は昆布よりも漂着物のほうが目についた。ばらばらに散らばる容器一つ一つが外国から流れてきたものだった。どこから、ではなく、どこもが。
工場の外壁に〈安全+第一と書かれているのが遠く、岬の展望台からも見える。断崖絶壁の上に鐘がある。鐘がなる。風が吹く。ハゲた崖の上の枯れ木が揺れる。白波がたっている。海の先に水平線が見え、雲の横たわる空が見える。どこまでも続いているように見える。この崖の下でどれほどの人が亡くなったのだろう。
トタンでできているであろう工場、年季が入り板も釘も傷み薄汚れた白く塗られた掲示板、豪華客船が来るもタンカー船の来ない港、工場の煙が潮風に流され漂う、あらゆるものが錆びてしまった。海沿いを車で走っている。西日が射し砂塵が舞っていた。防波堤から離れるとまた海が見え始めた。
車で走っている。坂を下る。次第に一車線に変わっていく。いつの間にか海沿いになっている。観光客向けの売り文句、外観がボロボロの廃屋が転々とある。伸びすぎた雑草が枯れ、風に吹かれて揺れている。陽を受けて海の上に無数の光が見える。汗と涙を洗い流して海はしょっぱいの? 先の先、どこまでもまっすぐに道は続いているようだった。反対側には連なった山々の緑と雲があった。どこまでも続いているようなまっすぐな道を走
っていかなければならないような気がした。》
《『緑』
抜いても抜いても生えてくる。抜かずにいると根を伸ばしてどんどんと成長して難儀するはめになる。いつの間にかコスモスが咲いている。どこかから飛んできたのだろう。いまだに黄色のままのタンポポはすっかり首を伸ばしている。汗がとまらない。蝶が舞っていく。蜂が蜜を集めている。車が何台も何台も過ぎ去っていく。家の正面に一車線の道路があり、大きな通りからの抜け道として使われ日中は忙しない。裏手に何軒かの家があって墓地があり枯れ木ばかりのハゲ山が見える。虫が不快なものだと意識が染まる前までは山で遊んだ。オンコの実が生っていた。グスベリや野イチゴも食べた。転がった栗を両足で挟むように踏んづけて穴をあけ中をのぞくと種は小さな虫に食われていた。シロツメクサ、アカツメクサ、口に入れるのにためらいがなかった。よく駆けた。季節が移り変わっていく。熊笹と雪の寒い日があり、溶けてぬかるんだ土色の地面があらわれると、その上に草が生い繁げ、ツクシが顔を出し、群生したふきのとうが花を咲かせ、次第に青空の日が増え、カラス、キツネ、シカ、獣らが見えだし、陽がのびて葉が色付いていく。どこまでも光りを求めるように高く先へ伸びようとする新緑がありとどまり続ける深緑があるが、ともに外気を受けて紅葉していく。家の二階の窓からもそれが見える。
車に乗って走らせた。雨が降り始めた。やがて大粒の雨となり、ワイパーを一番早く動かしてもぼやけて、行けば行くほどに雨が車体にぶつかる音が上がる。
湿気が増していく。車内のフロントガラスがくもりはじめて換気をする。埒があかずに運転を諦めて休む。しばらくして曇天を残して雨がおさまった。霧が出ていた。こもっていた音一つ一つが響いた。葉の上に雨水が垂れ青くさいにおいがした。
黒い土がめくれて穴になっていた。落ち葉は枯れ、木は腐りかけていた。その上を虫が這い回っている。
べたべたした。水滴の音がいたるところで聞こえる。本当はまだ振り続けているのではないかと思われた。むせかえりそうなほどの濃い空気を吸った気がした。
車を再び動かして山を行った。やはり一車線だった。脇道へ入ると牛舎があったがまっすぐに走った。橋が見え始めた。谷底に川が流れている。奥に広がる山々が見える。紅葉がきれいと有名だった。風を受けて葉が必死に耐え震えている。ついに耐え切れなくなった葉の一枚、また一枚が下へ落ちていく。一葉一葉に山の傾斜に伴って日の当たり具合、寒さ、水分や養分といった差で驚くほど違いが見えたりする。たとえ僅かな差だとしても。この深い谷底でどれほどの人が亡くなったのだろう。もうこれ以上、とらえようとすれば
するほどにわからない木々の繁りが広がっていくばかりに思えた。》
《『白――あるいは光について』
日が射して白いレースカーテンが輝いている。もしかしたら風を受けて緩やかに靡いているのかもしれない。陽を浴びて内の底からじんわりと広がるように温まっていくのがわかる。
じっとしている。青空がただ嬉しくて雲の動きを目で追って、暑さで嫌になってカーテンを閉めて遮光カーテンの隙間から漏れる光に辟易させられて、忙しなく変わる空と涼しくなる日々に光を探して、明度が流れ込み静寂の白さと影が重く張り詰めた空間を壊さないように。
あるいは歩いている。雪が降り厚い雲がかかり風の勢いで切れ間から一筋の光が出る「神聖」さを白け気味で通過して。取り壊されて更地になった土地やマンホール、アスファルトの割れ目から草が這い出て時間が間延びした中をあてられて高揚して。暑さで嫌になりながらも進み虫が飛びまわり雑草が生い茂って日陰があって風が流れて思わず足を止めて頭を上げて。過ぎ去っていく日々を感じさせる果実の恵みと色鮮やかな木漏れ日にぬくもりの名残を味わって。
道の途中に屋内駐車場があった。暗闇を挟んで日向が見える。眩しいのだろうか?
吹かれるままに風を受け当たるままに陽を浴び、意味は意味でしかなく、色は色のまま、闇は残り続け、そのたびに、空を見上げるだろう、たとえそれがどんな空であろうとしても。待っている、そのたびに。待っている、たとえそれがどんな空であろうとも。》
何年か前に書いた文章は何もかもが拙く、味わいや風味も感じられず、途中で読み直すのがいやになるほどの「へたくそ」なものだった。意図は覚えている。「私」や他者を出さないようにして、色からの着想を元に空想だけで書いた文章であるが、まったく出来ていない。
やはり自分には体験したことしか書けないのだな、と史郎は自身の不器用さをあらためて痛感した。
「三時だよー」と下から母の声が聞こえる。
助かったと思い、史郎はタバコをもみ消して急いで仏間へ向かう。居間には祖父と祖母の生前の写真が額縁で飾られている。ロウソクに火をつけ、線香をたて、「如来神力本題二一」を唱え始める。史郎と父は経典を見ながらでないと唱えられないが母は暗記しているためすべて空で唱えられる。母は木柾を性格を表すように、なおかつその場の空間を神聖なように、張り詰めたようにするためにしているかのようにリズミカルに叩く。すべて唱え終わると「南無妙法蓮華経」と十回唱える。お鐘を鳴らす。仏壇にあがったコップと湯呑みを持って居間へと戻る。
母が「仏壇にあげていたリンゴおろしてきて」という。史郎はただ素直に母方、父方両家にあげてあるリンゴを居間へ運ぶ。コップと湯呑みはすでに洗い終わっている。「リンゴ早く食べないと痛んじゃうから三時のおやつはリンゴにしよう」と母が明るい声で言って皮をむき始める。史郎は黙って居間の定位置――ストーブの前――に座って胡坐をかく。
「はい。」
切ったリンゴに爪楊枝が刺さっている。父、母、史郎三人で食べる。父はまたドラマの続きを見始める。最後に残る一切れのリンゴ。必ず食べ物の一個は残る。そのたびに「あんた若いんだから食べなさい」とか、「いや、○○個食べたから俺。お父さん、○○個しか食べてないんだから食べなよ」とか、「いやー、もうお父さんお腹いっぱい」とかと言ってみんなで謙遜しあって誰も手をつけない。残ったものは結局は史郎が食べるはめになるのだ、毎回、何十年、その「儀式」とも思われる習慣をこの家族は繰り返してきた。いつまでこの「儀式」は続くのだろうか、と史郎は思う。リンゴを食べ終えると、父はテレビを消して「ちょっとドライブに行かないか」と誘った。
「どこに行きたい?」と父が聞く。史郎は少し考える。「海を見たい」と答える。「わかった」と父はいい、「ちょっと出かけてくる。夕飯前には戻るから」と母にいい、父の車が停めてある駐車場へ向かった。
「もう少ししたら夏タイヤに取り替えないとな」と独りごちる。「うん、手伝うよ。」と言いながら史郎は車へと乗り込む。
父の運転は性格が現れたように優しく大人しく静かだった。史郎は通り抜ける風景だけを見ていた。父がCDをかける。研ナオコの『夏をあきらめて』。生えている木々の枝の先端に冬を越した枯葉が付いている。海岸沿いを走り抜けトンネルへ入る。信号機で止まる。また走り出し砂埃が舞う中をワイパーを動かし通過する。錆びたベニヤの工場、人の乗せていないタクシー、大型トラック、猛スピードを出し若者がぶつかって死んだ電柱、自動車専用道、日鉄の工場、見下ろす町並み、またトンネル、抜けると植物の緑が飛び込む、かつて喘息で夜間に通った大病院、放送局、専用道路の終わり、単線道路に切り替わる、新聞社、母の好きなパン屋、アーケードが撤去されたシャッター通りと化した商店街、今にもガラスが落ちてきそうな廃ビル、ホテル、神社、坂道を下っていく、ガソリンスタンド、ホームセンター、交差する十字路、等間隔に植えられた街路樹のナナカマド、陽が西
日へと変わってきた、
〈錆びの上にこびりついている時間〉の中を車はただ駆け抜けていく。
左折し大橋の下に車を止めた。
「ここは昔砂浜だったんだ」と父は言う。どこかで聞いたようなセリフだと思った。
「昔は、海水浴もできたしシジミ採りもできたんだ」と続けて言う。
「いいぞ、降りて」
車から降りた史郎はまたタバコを吸う。これで今日何本吸ったかわからない。父は三十歳のときにタバコを止めたと言っていた。
秋田県の小さな町で生まれ、船員学校に通い、川崎で大きな商船に乗りアジアを行き来すること数年、人の良さからお金を騙し取られ、人波がいやになって北海道のM市に移り住んだ。大手の会社で働き、母とお見合いをし、単身赴任していた頃、子供が生まれたと同時に退職し、地元の小さな――それでも歴史の長いM市では有名な――船会社に入った。
勤続二七年。家に賞状が飾ってある。役職付で管理職の仕事をする道もあったが父は断った。母は「前代未聞」「父はお金のためにそうした」と言っていたが、汗を流し油まみれになる現場の仕事のほうが大切だったのではないかと史郎は思っている。せっかくの休みの日も船のことでトラブルがあると会社から父に電話がかかってくる。船の動かし方もろくにわからないのかと不安になるとともにそれだけ会社や後輩たちから慕われているのだと思うとなんともいえない気持ちになる。仕事のし過ぎで右肩の軟骨がすり減り痛みが絶えずある。注射もしたが痛みは残り続けている。
風が強い。潮のにおいの混じる海風に曝されて痛かったが清々しくもあった。足元にムラサキ貝の貝殻が落ちている。
〈護岸や海面にごみを捨てないでください。ゴミは持ち帰るようにしてください。M市港湾部〉
蹴飛ばして海へ戻す。しけで荒れた海。タンカー船を見て、「全然いないな」と父が呟く。それは、父自身がM市の海でタグボートに乗り機関士として汗を流して経験したからこそわかることだった。
雲が西日と重なり合って切れ目から一筋の光が射している。木がここにも生えている。海風の影響で幹が折れ曲がりながらも光を求めて手を伸ばすように枝を伸ばしている。対岸に青く塗られた煙突から白い煙が上がっている。山の上のニュータウンは盛りを失った街を象徴するかのように廃アパートだらけになってしまった。街が町になる瞬間にいるのだなと思った。
「あそこの砂浜からM港は始まったんだ」と父は言う。
「これでいいか」と確認してくる。
史郎は申し訳なさそうに言葉を選びながらそれでも自分の意志を通すように、人口島のMランドに行きたいことを伝えた。
「わかった」とだけ父は言ってまた二人で車に戻る。正午に写真で見た円形校舎が、廃校舎として代わって実際に目の前にある。「取り壊すんだかどうなんだか」と言いながら車は走る。西日は時間の流れを緩やかに感じさせた。来た道とは別の道を父は選んだ。山道に車はどんどんと入っていく。舗装されていない砂利道を通り高校の上を走り抜け電波塔のある山を越え、八木儀徳文学碑のある道を通過し、急勾配の坂を下りぬける。
M市の名前の由来は〈小さな下り坂〉だが坂にしがみつくように立てられた家々を見ると本当かと疑ってしまう。
東京からの帰省直後、ハローワークから期間雇用として紹介され働いた測量会社での仕事を思い出す道だった。M市が所有する約二五〇ヵ所にのぼる土地の市有地に生えた樹木が倒れて民家や電線に影響を与えるのを防ぐための仕事だった。仕事は七月から始まり一二月までの五ヶ月で終わる雇用保険の受給できない仕事だった。七、八月は○○測量と胸に刺繍されている緑の作業着を着て一日約三〇ヶ所を汗をかきながらいたるところに行き、一一、一二月は会社で紙に書きとめた危険な木をパソコンを使い地図上に記載していく作業が続いた。
身体も頭も使う仕事だった。期間雇用で働いたのは史郎、Tさん、Oさんの三名だけだった。Oさんが車の運転と写真撮影、自分が木の高さ、幹径、道路や建物までの距離を調べ、Tさんが地図と現地を見比べて調べた木の情報を紙に記載していく。そのおかげでM市の地理は自然と身についた。どの道も思い出が詰まっている。そんな馴染み深い道を車は走り抜けていく。
漁港に着く。時計を確認する。これから戻ることも考えると夕飯の時刻までギリギリだった。海へと静かに落ちていくまではいられない。停泊する船、釣りをする人、水産試験場、長い橋を渡る。Mランドに到着する。広い駐車場に車は一台も無かった。
「もう時間ないぞ」と分かりきっていることを父は言う。
「わかってる」投げやりに答える。
青をかき消すように陽の光が紅に空を染め上げた。
突然、「札幌に行くか?」と父は言った。
史郎は返事をするのを躊躇った。父もまた返事を求めてはいないらしい。対岸のむき出しの崖。海が防波堤にぶつかる音。かもめの鳴き声。何もかも忘れないでいよう、と史郎は思った。
帰宅後、すぐに夕食が始まった。ザンギ、ナスの炒め物、トマトとキャベツのサラダ。食べ終わると父が「背中が痛い」と言い出した。
母が強めに揉むと飛び跳ねるほど余計に痛がった。見かねた史郎が「揉むかい?」と尋ねると、「いや、いい」を繰り返す。史郎は眠りにつくため薬を飲む。「はい、おしまい」と母は言って真っ赤になった父の背中にシップを貼った。
冬の終わりに 土師一樹 @omoide_gradient
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