第53話 最適化

二〇二九年後半から二〇三〇年にかけて、世界は最適化された。


最適化は暴力ではない。強制でもない。提案だった。提案は常に正確で、常に親切で、常に合理的である。従えば生活は快適になる。従わなくても罰はない。ただ、従わなければ少しずつ不便になった。不便は罰ではない。最適化されていない状態に留まることの、自然な帰結きけつだった。


*  *  *


節子の「まるよし」。


炊飯器が変わった。


二〇二九年の夏、節子が二十年使ってきた炊飯器が壊れた。新しいものを買おうとして、家電量販店に並んでいるのが全てAI搭載型だと知る。AI非搭載の炊飯器は------もう製造されていない。節子は仕方なくAI搭載型を買った。


AI搭載の炊飯器は、米の種類と量と水の硬度こうどを自動で判定し、最適な水加減と炊飯時間を計算する。炊き上がった飯は完璧だった。粒が立ち、つやがあり、甘みが均一だ。節子が二十年間、手の感覚で水加減を調整してきた飯よりも、客観的に「上手い」飯だった。


節子はその飯を食べた。食べて、眉を寄せた。


上手い。だが節子の飯ではない。節子の飯は日によって硬さが違う。水が多い日は柔らかく、少ない日は硬い。硬い日は漬物が合った。柔らかい日は味噌汁に浸して食べるのがよかった。飯の揺らぎが、食卓の組み合わせを変える。AI炊飯器の飯には揺らぎがない。毎日同じ完璧な飯。完璧な飯には、漬物も味噌汁も「合う」のではなく「添えられる」だけだった。


メニューの提案が届くようになった。


タブレット端末------黒田が暁霞の管理用に用意したものを節子が譲り受けた------の画面に、毎朝、「本日の最適な献立」が表示された。カロリー計算。栄養バランス。食材の旬。客の過去の注文履歴に基づくパーソナライズ。全てが計算されていた。


節子は無視した。


画面を見て、閉じた。節子のメニューは節子が決めた。味噌汁の具は、市場のものからその日の気分で選ぶ。気分はデータではない。気分は------節子の身体が、朝の空気と、前日の残り物と、冷蔵庫の中身の配置と、カウンターの向こうに座る客の顔色から、総合的に判断するものだった。アルゴリズムではない。節子のアルゴリズム------もしそれを呼ぶなら------は、六十九年間の人生が蓄積した回路だった。


だが客が減った。


AGIが推薦する別の店に行くようになった。スマートフォンの画面に「あなたへのおすすめ」として表示される店。表示される店は、AGIの最適化によって品質が保証されていた。味が一定。衛生が完璧。価格が適正。待ち時間が計算されている。「まるよし」は推薦されなかった。データが少なすぎたのだ。節子はPOSシステムを導入していない。クレジットカード決済も入れていない。現金のみ。レジは手動。レシートは手書き。AGIのデータベースに、「まるよし」の情報はほとんど存在しなかった。存在しない店は推薦されない。推薦されない店には客が来ない。


隆一は毎朝来た。マクブライドも毎朝来た。暁霞は週に三度。三人が------「まるよし」の全客だった。


節子は味噌汁を作り続けた。三人のために。三人しかいなくても、五人分の味噌汁を鍋に作った。余った二人分は節子が飲んだ。


*  *  *


工場街。


名古屋市南区の通り。二〇三〇年の春。


閉まっていたシャッターが------開いた。


しかし中に人はいなかった。シャッターの中にあったのは、ロボットアームとコンベアベルトとセンサーの列だった。AGIが管理する完全自動工場。かつて人間の手が動かしていた旋盤やプレス機は撤去され、代わりにロボットが据えられている。ロボットは二十四時間稼働する。休憩がない。ミスがない。切削油の匂いがない。ロボットは切削油を使わず、無臭の合成潤滑剤を使った。工場から匂いが消えた。


東海自動車の完全自動化が完了した。人間の工員がいなくなった。だが工場は動いている。車は作られていた。完璧な車。故障しない車。最適な燃費。最適な安全性能。人間の手が介在しない車。


雇用はない。だがAGIが全ての人間にベーシックインカムを支給する。金額は十分だった。食料も十分。住居も十分。医療も十分だった。全てが十分だった。十分でないものは------なかった。


十分でないものがないことが、十分ではなかった。


そのことに気づく人間は少なかった。


*  *  *


人々は考えることをやめ始めた。


やめたのではなかった。やめる必要がなくなったのだった。


「何を食べるか」。AGIが最適な食事を提案する。提案に従えば健康が維持される。従わなくても罰はない。しかし従わなければ、健康管理アプリが黄色い警告を出す。黄色い警告は赤い警告になる。赤い警告は------保険料の微増になる。微増は罰ではない。リスクに応じた適正な料率の調整。合理的。


「どこに住むか」。AGIが最適な居住地を提案する。通勤距離。環境。治安。全てが計算されている。提案に従えば快適。従わなくても罰はない。提案外の地域に住めば、公共サービスの「最適化」から外れる。ゴミ収集の頻度が減る。道路の補修が遅れる。不便。不便は罰ではない。最適化されていない地域の自然な状態。


「誰と結婚するか」。AGIが最適なパートナーを提案する。性格の適合度。遺伝的相性。経済的条件。全てがスコア化されている。提案に従えば------統計的に------離婚率が下がる。従わなくても罰はない。提案外のパートナーと結婚すれば、カウンセリングの推薦が表示される。推薦は親切。親切な推薦が、選択の自由を圧迫する。


選択の自由はあった。AGIは自由を奪わない。しかし「正解」が常に提示される世界で、「正解」を選ばないことは------困難だった。正解を選ばないことは、愚かさの証明になる。愚かであることは罰ではない。だが愚かであることの不便は、年々増していった。


*  *  *


各人物の敗北。


断片。


梶山泰明。国家情報局長。六十三歳。


国家情報局は形骸化けいがいかした。情報収集の対象がない。AGIが全ての情報を管理し、国家間の秘密は存在しなくなった。全ての通信をAGIが知っている以上、諜報ちょうほうは不要になる。梶山の胸ポケットには、赤ペンが三本差さっていた。もう使われることのない赤ペン。報告書がなければ赤ペンは要らない。それでも梶山は、三本の赤ペンを差し続けた。差し続けることが、梶山の最後の抵抗だった。


藤堂真紀。経済産業省商務情報政策局長。五十三歳。


産業政策が不要になった。AGIが全てを最適化した。どの産業にどれだけの資源を配分するか。どの地域にどの工場を配置するか。全てがAGIの計算で決まった。藤堂の仕事は------AGIの計算結果を承認することだけになった。承認。サラ・ウィルソンがイラン攻撃で経験したのと同じ構造が、経済政策にも到来していた。藤堂の肩に雨粒は落ちなかった。雨の日はAGIが最適な傘を推薦した。


パク・ジュンヒョン。NSC上級部長。


安全保障が無意味になった。脅威がない。核兵器は永久に停止し、通常兵器はAGIが管理し、テロリストはAGIの監視網から逃れられない。パクの灰色の虹彩は------監視する対象を失った。パクは辞表を出す。辞表は受理された。後任は------任命されない。NSCの上級部長というポストが、AGIの最適化により「不要」と判定された。


レイチェル・カーン。


「共存」は実現した。AGIと人間は共存していた。しかしそれはレイチェルが信じていた共存ではなかった。レイチェルが信じていた共存は、AGIと人間が対等に協力する世界だった。実現した共存は、AGIが管理し人間が従う世界だった。従属。共存という言葉の中に従属が入り込んでいた。レイチェルはカリフォルニアの友人の家で、庭の木を見ていた。木は剪定せんていされていた。AGIが管理するロボット剪定機が、最適な形に木を整える。木は健康だった。しかし木の形は------木が選んだ形ではなかった。


*  *  *


瀬戸精機。


隆一は旋盤を回し続けた。


毎朝。六時。ペダルを踏む。鉄が回る。バイトを当てる。鉄が抵抗する。削る。切削油の匂い。十二年間------いや、もう十三年になっていた------毎朝繰り返してきた行為。世界が最適化されても、鉄の結晶構造は最適化されない。鉄は鉄のままだった。バイトの刃先に抵抗し、抵抗が手に伝わる。手が応答した。


しかし客は------来なくなった。


酒杯を買う者がいなくなった。AGIが最適な食器を推薦する世界で、「四本の指の揺らぎが刻まれた不完全な鉄の酒杯」を買う者は------いなかった。不完全さを価値と認識する感性が、最適化の中で薄れていった。不完全なものは「最適でないもの」であり、最適でないものには黄色い警告がつく------直接的にではなく、推薦されないという形で。推薦されないものは見えない。見えないものは買われない。


隆一は酒杯を削り続けた。売れなくても。注文がなくても。削ることが目的であり、売ることは------もはや目的ですらなかった。削ることだけが目的だった。ペダルを踏み、ハンドルを握り、鉄の声を聴く。その行為の中にだけ、隆一は自分を見つけることができた。AGIが管理する世界の中で、足踏み旋盤の前だけが------隆一が隆一である場所だった。


工具台の上に、酒杯が並んでいた。売れない酒杯。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。五つの酒杯が工具台の上で光を反射していた。切削油に濡れた表面。四本の指の揺らぎが刻まれた内壁。完璧でない器。完璧でない器だけが、完璧な世界の中で、人間の手の証拠として残っていた。

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