9.死にかけで生まれた①
沈黙が十畳の部屋を貫き、空気を凍結させた。
耳を疑った。藤原が告げたことは、到底すぐに受け入れられるものではない。そろそろ脳の容量が足りなくなりそうだ。硬直している殿崎くんに向かって、藤原がまた口を開く。
「俺、倫理の課題のテーマを性犯罪にしたから、駒場市で起きてる連続暴行事件を詳しく調べたんだ。公表されている被害者は五人だが、実際の被害者数はもっと多い。そのうち最悪なのは、松下静雄の姉のケースだ。付けたもんが破れたのか知らねえけど、そういう結果になった」
殿崎くんが見た松下静雄のお姉さんは具合が悪そうだったという。それが妊娠していたからだとしたら。それに、どこかで見たことがある気がしたのも、弟に似ているからだけでなく実際に見たことがあったのだとしたら。
「そんなはずない」
殿崎くんはからっとした返事をしたけれど、その声は細かった。それに被せるように藤原が殿崎くんに何かを耳打ちすると、殿崎くんの顔色がさっと変わった。
「そんなはず、な、い」
殿崎くんは眼を見開き、顔の筋肉を強張らせた。彼がずっと保っていた余裕が遂に崩れた瞬間だった。
「ほら」
藤原は握っていた発射口の長い銃を畳に置き、スウェットのポケットから四つ折りの紙を取り出し、一振りして広げて殿崎くんに突きつけた。殿崎くんは唇を噛んで、ますます顔を青ざめさせた。
「俺じゃない」
「眼、泳いでるぞ。きっと覚えがあるんだろ? その日は特に乱暴にしたとか、付け心地が悪かったとか」
藤原が放ったその紙がこちらに飛んでくる。それは「松下礼香」の氏名が明記されている、母子手帳のコピーだった。本当に、本当なのだ。
「そんな」
もう私が介入する必要はなさそうだった。数分前から一変、殿崎くんは藤原に胸ぐらを掴まれていなければ崩れ落ちそうなほど生気がなくなっていた。焦げ茶色の眼は光を失っただけでなく、脅迫されたように震えている。藤原は脅したわけじゃない、殿崎くんの行為の結果を伝えただけだ。
「残念だったな。お前は最も忌み嫌っていた、玉田以外の女に自分の遺伝子を残すことを実現してしまったんだよ」
藤原はおそらく敢えて悪意を込めた言い方をした。
「わざとじゃない、わざとじゃないんだ」
どこかに飛んでいってしまいそうに殿崎くんが言う。わざとかわざとじゃないかなんてどうでもよかった。彼が松下礼香さんの身に、法律や常識と照らし合わせて最悪な出来事を降りかからせ、犯罪者の子どもを宿させたという事実に吐き気を催す。今の殿崎くんが、かつて女性から強いられたショックと同等のショックを受けているのは、自業自得でしかないのだ。
「小山内」
急に呼ばれて飛び上がる。
「殿崎、何か言ってたか?」
私を一瞥たりともせず藤原が訊く。何かどころではない、この夜をひっくり返す真実を言っていた。でも、松下静雄が生きていると聞いたと言えば、藤原に「小山内は俺の霊感が嘘だと思ったのではないだろうか」と思わせてしまいそうだ。私は、私が藤原を信じていることを知ってほしいのに。藤原を一人にはさせたくないのに。
「何、かっ、て?」
どうしようと迷いながら言ったので、ぎこちない発音になってしまう。今夜は一生分、自分の鼓動の音を聞いたんじゃないか。でも藤原は私の様子には言及せず、心配そうに私を見下ろした。
「そりゃ、誰がどこにいるかとかだよ。この夜を切り抜ける手がかりになること」
すごく久しぶりに彼と目を合わせた気がする。そういうことかとほっとした。
「俺は部屋の前でぐったりしてたクリさんたちと、鉢合わせた佳奈と沢田を銃で牽制してトイレに閉じ込めさせてもらったよ。クリさんとはちょっと揉み合ったけど銃はすぐ手放してたし、泣き腫らした顔で『やっぱり従う方にまわるしかないのね』って言っておとなしく従ってくれたからなんだか申し訳ない気がしたけど」
藤原は涼しげに話しながらも、殿崎くんを掴む手の色は赤と白のまだらになっていて、尋常ではない力を込めているのがわかる。
「助けに来てくれて本当にありがとう。えっと、西棟の階段降りたところに殿崎くんと同室の男子がいるみたい」
「残ってるのは三人くらいか。銃とスタンガンがあれば切り抜けられそうだな」
藤原が殿崎くんからやっと手を話した。殿崎くんは脱力しきっていて、壁伝いにずるずるとしゃがみ込む。そんな、嫌だ、俺は、由里子さん、と呟いていた。
そのときだった。
「きゃー!」
どこかで上がった声が旅館中に反響した。その主が誰か、今度はすぐにわかった。
「由里子!」
藤原も顔を上げた。殿崎くんはゆっくりと目線を動かしただけだった。
「きゃー!」
由里子は途切れなく叫んでいる。私はへたれこんでいた姿勢を勢いよく起こして立ち上がった。そして、立ち眩みでちかちかと光る視界の向こうに大きく踏み出す。同時に「小山内!」という藤原の一喝ともいえる一言が飛んできた。
「他のやつらが集まる! 行くな!」
そこで次の一歩のために上げていた左足をその場に下ろしていたら、私はここに留まってしまっていただろう。でも私は左足を数十センチ向こうに下ろした。
「ごめん、ずっと守ってくれたのに勝手な真似して。すぐ戻る」
藤原の顔を見ずに、私はドアを開けて廊下に飛び出した。スタンガンの紐を手首に通してしっかり握ってから、声がする方に走る。誰が飛び出してきてもいい、容赦なくスタンガンを突きつけてやる。由里子を叫ばせている人もぶっ飛ばしてやる。
「わっ」
呼ぶのはこれで最後だと決めていたように由里子の声は短く放たれ、途切れた。二階から聞こえたのに気づき、真衣とやり合ったのが随分と昔に思える階段を駆け上がる。未だどこかにいる三人の男子たちに捕まる危険性はある。でも脅威だった銃の二つは隠せて一つは藤原の手にあるから、今一番強いのはこのスタンガンなはずだ。だから私は大丈夫、大丈夫。
二階に辿り着くと、今度は「薫?」と小さく聞こえた。浴場の手前にある洗濯室からだと思い、スタンガンを構えながら飛び込んだ。由里子は洗濯機の陰から顔を覗かせていた。目が合った瞬間私たちは駆け寄って、互いの鼓動が聞こえそうなほどひしと抱き合った。
「由里子、大丈夫? 一人? 何ともないの?」
「ごめんね本当は何もないの。薫にどうしても伝えたいことがあって、叫んだら来てくれるかもって思ったの。本当に来てくれた」
私にしがみつく由里子が泣き出さんばかりに言う。安全なら一安心だ。
「薫こそ大丈夫だった?」
「ここに来るまでは大丈夫。それより伝えたいことって」
私たちは互いの温かさを惜しむように離れた。由里子は一度俯いてから、目を潤ませた顔を上げる。
「ごめん、先にこれ訊かせてもらうね。殿崎くんとは会った?」
その名前を聞いただけで背に汗が滲む。混沌の夜に由里子をこれ以上混乱させたくないし、もうあんな人を由里子に近づけさせたくない。そのためには、今は万全だと伝えて心配を払拭させ、殿崎くんへの意識を薄めさせておいた方がいい。
ぎこちなく頷くと、由里子は「良かった! 無事だったんだね」と破顔した。外傷は無いにしても無事とはとても言えないから、これに頷くことは出来なかった。その動揺が由里子に伝わらなかったのは、「嬉しい」と言った彼女が涙を流し始めたからだった。
「あれ、勝手に出てきた……」
両手で涙を拭う由里子を、私はほとんど反射的にまた抱き寄せた。親友が無事を喜んで泣いている相手が犯罪者なのだと思うと苦しくて、力一杯抱きしめることしか出来ない。
「由里子は本当に殿崎くんが好きなんだね」
「うん、大好き」
これほどに好きだという心が詰まった言葉を聞いたことがなかった。それは私の心臓を、切実な美しさとどうしようもないやりきれなさで締め付ける。私は由里子を守らなければと、殿崎くんに近づけさせるまいと心に決めていた。でも、彼の罪を知っても傍にいたいと由里子が思ったら、私に止める資格はない……。
「ごめんね、薫の方がずっと辛いのに私なんかが泣いてしまって」
私の肩に手を置いて身を離し、涙を流し続けながら由里子は私を覗き込んだ。
「一組は崩壊してしまったけど、私は明日からも薫と殿崎くんとずっと一緒にいたいよ」
やりきれない思いを殺して私は唇を噛んだ。そこまで迫っているバッドエンドでさえも、愛があれば乗り越えられてしまうのかもしれない。でも世界はそれをハッピーエンドとは思わないだろう。それが辛い。
「頑張ったね、思い切り泣いてね」
そう言われて初めて、私は目から水がぽろぽろと零れだしているのに気がついた。この涙の理由が罪を一人で背負わされる恐怖からではなく、親友の幸せを願いたくても願えない苦しさだと気づかれてはいけない。目を擦り、さも涙なんかなかったようにして、私は言い切る。
「私も由里子といたい。殿崎くんとのことも……ずっと見守る。由里子に辛い思いはさせない」
だからやっぱり今は死ねない。
ありがとうと由里子は言って、少しだけ濡れている私の頬を両手で挟んで撫でてから、こちらを改めて見据えた。
「実は来てほしかったというより、薫を引き離したかったの。あのね、私は何があっても薫の味方だから」
思わず後ずさりしたくなる。これから聞くのが、私の味方ではない人についての話だと確信せざるを得なかったからだ。応戦しなきゃいけない人数も命を脅かす武器ももうほとんどないと思っていたのに。由里子は深刻そうに目に力を込め、深呼吸をした。
「私、薫がお風呂から出て行くとき、目を覚ましたの」
電流の量を調節したおかげで、随分早く目を覚ましていたのか。
「知秋の話し声が聞こえて、夏奈と恵理が倒れてるのが見えた。誰もいなくなるまでしばらく気絶しているふりをしようと思って目を瞑ろうとした」
緊張が伝わってくる。由里子の真意が読めず、私はごくりと唾を飲む。
「そしたら目の前に人の後頭部が倒れ込んできた。ごつって嫌な音がして、それが知秋の頭だってわかった。薫、これから私が言うこと信じてほしい」
由里子は指の先が赤くなるほど両手を力一杯組んでいた。改まって名前を呼ばれ、私は覚悟を決める前に頷いてしまう。もちろん、由里子を信じないわけがないけれど。
「すぐに知秋の頭部に足が乗って、何回も踏みつけた。その後は何回も殴ってた」
誰が知秋に乱暴したか、聞かずともわかってしまう。あの場にいた、由里子の口から出てきていない人物は一人しかいないのだ。由里子を信じないわけがない、でもその光景が事実だとは信じたくない。胃が捻られたように痛む。
「藤原は知秋を気絶するまで殴り続けたんだよ」
由里子は眉をハの字にして、潤みながらも真剣な目で私を見ていた。これを否定しても意味がないのはわかっている。
「いくら薫を守るためとはいえすごく怖かった。薫、藤原に気をつけて。これが言いたかった」
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