第13章 千ペソ札の噂
昭和十九年十月。
噂は風より早く広がる。
そして戦時下の噂ほど恐ろしいものはない。
その朝、マニラの市場では奇妙な話が広がっていた。
「千ペソ札が出るらしい。」
最初は誰も信じなかった。
だが昼になる頃には魚屋も米屋もその話をしていた。
夕方には街中がその噂で持ちきりになっていた。
人々は不安そうな顔で囁き合う。
「本当なのか。」
「五百ペソ札が出たばかりじゃないか。」
「もし本当なら、また値段が上がる。」
誰もが同じことを考えていた。
高額紙幣の発行は便利になることではない。
通貨価値の下落を意味していた。
市場の空気は明らかに変わった。
昨日までは様子を見ていた人々も、その日から買いだめを始めた。
米。
塩。
砂糖。
乾燥魚。
石鹸。
何でもいい。
軍票より信用できる物なら何でも買う。
そういう空気が広がっていた。
エステバン・サントスは店先からその様子を見ていた。
客の数が異常だった。
しかも必要以上に買っていく。
「十キロじゃ足りない。」
「二十キロくれ。」
「塩も全部だ。」
まるで嵐の前の準備だった。
店員のラモンが言う。
「旦那、本当に千ペソ札が出るんですか?」
エステバンは首を振った。
「分からん。」
そう答えながらも心の中では確信していた。
出るだろう。
五百ペソ札が出た時も同じだった。
最初は噂だった。
そして現実になった。
今回も同じ気がしていた。
その頃。
軍政部では緊急会議が開かれていた。
議題はもちろん噂の件だった。
氷室少佐は会議室の末席で資料を読んでいた。
そこには新紙幣の試作図案が添付されている。
千ペソ札。
噂は事実だった。
上層部は発行を検討していたのである。
会議室では様々な意見が飛び交う。
「必要だ。」
「流通量が足りない。」
「軍への支払いが間に合わない。」
氷室は静かに聞いていた。
やがて上官が尋ねる。
「氷室少佐。」
「意見は。」
部屋中の視線が集まった。
氷室は立ち上がる。
そして短く答えた。
「発行すべきではありません。」
部屋が静まり返った。
上官の顔が険しくなる。
「理由は。」
「市場が誤った信号として受け取ります。」
「さらに物価上昇を加速させるでしょう。」
誰も反論しなかった。
その分析が正しいことは皆分かっていた。
だが現実には別の問題がある。
軍への支払いができないのだ。
結局、会議は結論を出さないまま終わった。
しかし氷室には分かっていた。
決定はすでに下されている。
発行される。
それだけだった。
その夜。
エステバンは再びゲリラとの取引場所へ向かっていた。
最近は取引量が増えている。
危険も増していた。
しかし止めることはできなかった。
家族を守るため。
店を守るため。
それが必要だった。
港近くの廃倉庫。
いつもの場所。
だがその日は様子が違った。
人影が多い。
空気が張り詰めている。
エステバンは直感的に危険を感じた。
その瞬間。
銃声が響いた。
乾いた音が夜空を切り裂く。
誰かが叫ぶ。
「憲兵だ!」
市場は一瞬で混乱した。
人々が走る。
荷物を捨てる。
悲鳴が上がる。
エステバンも反射的に走った。
背後からさらに銃声。
心臓が激しく鼓動する。
雨でぬかるんだ路地を全力で駆け抜ける。
何度も転びそうになりながら走り続けた。
気が付けば港から離れた倉庫街の裏路地だった。
息が切れる。
額から汗が流れる。
そして初めて気付いた。
死ぬところだった。
もし数秒遅れていたら。
もし逃げる方向を間違えていたら。
今頃捕まっていたかもしれない。
その事実に背筋が冷たくなる。
翌朝。
エレナは父の顔を見て異変に気付いた。
疲れ切っている。
目の下に濃い隈がある。
「何かあったの?」
エステバンは少し迷った。
だが隠しきれなかった。
昨夜の出来事を話す。
エレナは青ざめた。
「もうやめて。」
「無理だ。」
「危険すぎる。」
「危険じゃない道は残っていない。」
その言葉にエレナは何も言えなかった。
それが戦争だった。
選択肢そのものが消えていく。
その日の夕方。
軍政部で仕事を終えたエレナは氷室の執務室を訪れた。
窓際で資料を読んでいた氷室は彼女の表情を見て異変を察する。
「何かあったのか。」
エレナは迷った。
父のことは言えない。
だが誰かに話したかった。
「少佐。」
「人はどこまで追い詰められるのでしょう。」
氷室はしばらく黙った。
そして静かに答える。
「生きるためなら、どこまでも。」
その言葉は重かった。
戦争を知る者の言葉だった。
窓の外では夕日が沈み始めている。
市場では今日も噂が飛び交う。
千ペソ札。
新しい紙幣。
さらなる値上がり。
そして人々の不安。
誰も未来を信じられなくなりつつあった。
だが本当の嵐は、まだ始まったばかりだった。
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