第25話 五十嵐 瑠奈
広すぎる。
ルナ――五十嵐瑠奈は、リビングのソファに寝転がりながら、ぼんやりと天井を見上げていた。
白くて、綺麗で、何もない天井。少し身体を起こせば、大きな窓の向こうに東京の夜景が広がっている。
さっきまで何度も見た。最初はすごいと思った。スマホで写真も撮った。
でも、一人になると落ち着かなかった。
今まで住んでいた部屋とは、何もかもが違いすぎる。
古いアパート。狭いキッチン。冬になると隙間風が入ってくる窓。上の階の住人が歩くたび、ミシミシと天井が鳴る。
十年以上、ずっとそこで暮らしてきた。
それが今日から、こんな場所で一人暮らし。
しかも、家賃は知り合ったばかりの四十歳のおじさん持ち。
「……字面、マジでヤバいな」
瑠奈は一人で呟いた。
だが、不思議と怖くはなかった。
隣の部屋にいるのが、黒川だからだろう。
ゲームの中では、何度も一緒に死にかけた。初期装備のナイフ一本で課金者に突っ込み、何百万円もの装備を奪った。サーバー最強の【アヴァロン】からも、十九人分の戦利品を奪って逃げた。
考えてみれば、普通の友達よりずっと濃い時間を過ごしている。
現実では、今日初めて会ったばかりなのに。
「……変なの」
瑠奈はスマートフォンを持ち上げた。
口座残高を見る。
何度確認しても、数字は変わらない。
二千万円近い現金。
高校生の自分には、一生かけても稼げるか分からないと思っていた金が、今は自分のものになっている。
それだけではない。
【アヴァロン】から奪った十九人分の高額装備も、まだほとんど売っていない。黒川が「全部売るのは待て」と言ったからだ。
使える物が混ざっているかもしれない。
今後の戦いで必要になる物もあるかもしれない。
だから、明日から二人で一つずつ確認することになっている。
全部売れば、さらに大きな金になる。
でも、今はまだ売っていない。
それでも。
二千万円。
これだけあれば、何年暮らせるのだろう。
大学にも行ける。
好きな服も買える。
学校を辞めても、すぐには困らない。
もう、バイトのシフトを増やす必要もない。
瑠奈は別の画面を開いた。
表示された名前を見て、指が止まる。
『お母さん』
未読のメッセージが一件。
『今月の家賃、振り込んどいたから』
少し間を空けて、もう一件。
『ちゃんと学校行ってる?』
瑠奈は返信しなかった。
スマートフォンを胸の上に置き、目を閉じる。
昔から、母親と二人だった。
父親の顔は知らない。写真も見たことがない。母親に聞いたこともあったが、
「別に知らなくていい人」
そう言われて終わった。
だから、瑠奈にとって家族とは母親のことだった。
古いアパートで、二人で暮らしていた。
金はなかった。
夕飯がカップラーメンの日もあった。電気代を払えず、夜に突然部屋が真っ暗になったこともある。母親が財布の中身を全部テーブルに出して、二人で小銭を数えたこともあった。
それでも、子供の頃は不幸だと思ったことはなかった。
母親はよく笑っていた。
給料日の夜には、コンビニで少し高いアイスを買ってくれた。瑠奈の誕生日には、金がないくせに小さなケーキを買ってきた。
「瑠奈がいるから頑張れる」
何度もそう言ってくれた。
瑠奈も、母親が好きだった。
ずっと二人で生きていくのだと思っていた。
変わったのは、中学生の頃だった。
母親に男ができた。
最初は、いい人だと思った。
飯を奢ってくれた。服も買ってくれた。三人で出かけることもあった。
何より、母親が楽しそうだった。
瑠奈はそれが嬉しかった。
ずっと苦労してきた母親が、ようやく幸せになれるのかもしれない。
そう思っていた。
だが、男が家に来る回数が増えるにつれて、少しずつ空気が変わった。
「またいるの?」
ある日、学校から帰ってきた瑠奈を見て、男が言った。
自分の家なのに。
「いや、いるのは当たり前か」
男は笑った。
冗談のような言い方だった。
だから、瑠奈も笑った。
笑うしかなかった。
それから、似たような言葉が増えた。
「高校って行く必要ある?」
「もう働けるだろ」
「いつまで面倒見るの?」
直接、瑠奈に言うことは少なかった。
いつも母親に言った。
瑠奈に聞こえる場所で。
狭いアパートだった。
聞こえないふりをする方が難しかった。
それでも、瑠奈は待っていた。
母親が怒ってくれるのを。
「そんなこと言わないで」
「瑠奈は私の娘なんだから」
そう言ってくれるのを。
だが、母親は何も言わなかった。
困ったように笑って、
「まあ、まだ子供だから」
そう答えるだけだった。
その言葉が、何より嫌だった。
男の言葉より。
母親の沈黙の方が、ずっと痛かった。
そして、中学を卒業する少し前。
母親に言われた。
「私たち、引っ越すことになったから」
瑠奈は最初、「私たち」の中に自分も入っていると思った。
違った。
母親と、あの男。
二人だけだった。
「瑠奈は高校もあるでしょ?」
「……うん」
「転校するのも大変だし、この部屋にいた方がいいと思うんだ」
母親はそう言った。
「家賃は払うから」
「……うん」
「生活費も、少しは振り込むし」
「……うん」
「もう高校生だもんね」
母親は笑った。
「一人でも大丈夫だよね?」
あの時、自分が何と答えたのか。
瑠奈は覚えていなかった。
たぶん、「うん」と言った。
それ以外に、何を言えばいいのか分からなかった。
母親は自分を捨てたわけではない。
家賃は払っている。
毎月、少しだけ生活費も振り込んでくる。
たまに連絡も来る。
『ちゃんと食べてる?』
『学校行ってる?』
『困ったことがあったら言ってね』
だから、誰かに相談することもできなかった。
殴られたわけでもない。
家を追い出されたわけでもない。
金も払ってもらっている。
それでも。
母親は、自分より男を選んだ。
その事実だけは、どうやっても変わらなかった。
瑠奈はスマートフォンを握り直した。
一人暮らしを始めてから、ずっと怖かった。
今月は家賃が振り込まれた。
でも、来月は?
男に何か言われたら?
母親に子供ができたら?
もう瑠奈に金を使いたくないと言われたら?
高校生のバイト代なんて、たかが知れている。
学校が終わってから働いても、月に数万円。
家賃。
食費。
光熱費。
スマートフォン代。
全部を自分で払うには足りない。
だから金が欲しかった。
服が欲しかったわけではない。
遊びたかったわけでもない。
贅沢がしたかったわけでもない。
金があれば、誰にも頼らなくていい。
金があれば、家賃が振り込まれたか確認しなくていい。
金があれば、「ここにいていい?」と誰かに聞かなくていい。
誰かに捨てられても、自分で生きていける。
だから【クレアトール・オンライン】を始めた。
稼げると聞いたから。
高校生でも。
何の才能もなくても。
運が良ければ、大金を手に入れられると聞いたから。
結果は散々だった。
手に入れた先天スキルは【無課金領域】。
課金すればするほど強くなるゲームで、自分の周囲だけ課金能力を消す。
パーティーを組めば、仲間まで弱くなる。
誰も瑠奈とは組みたがらなかった。
「疫病神」
そう呼ばれた。
現実でも。
ゲームでも。
結局、自分は誰かにとって邪魔な存在なのだと思った。
だから一人で危険エリアに入った。
死んでもいいとは思っていなかった。
ただ、全部失っても、今までと同じになるだけだと思っていた。
そんな時に。
あのおじさんが現れた。
最初は、ただの変な初心者だと思った。
男子高校生のアバターの中に、疲れ切った四十歳のおじさんが入っていた。
面白かったから、「おじさん」と呼んだ。
それだけだった。
なのに。
あの男は【無課金領域】を見て、言った。
使える、と。
初めてだった。
誰かが、自分の持っているものに価値を見つけた。
黒川は優しくない。
口も悪い。
作戦は無茶苦茶。
女子高生を平気で囮にする。
危険な場所にも連れていく。
でも。
一度も瑠奈を置いて逃げなかった。
稼いだ金を誤魔化したこともない。
半分と決めたら、必ず半分渡した。
今日だってそうだ。
二千万円近い現金を持っている瑠奈に、
『俺が払う』
と、当たり前のように部屋を用意した。
きっと、黒川にとってはただの必要経費なのだろう。
効率がいいから。
安全だから。
その方が稼げるから。
それだけなのだと思う。
それでも。
瑠奈にとっては、少し違った。
黒川は、約束を守る。
言ったことを変えない。
一緒に逃げると言えば、一緒に逃げる。
半分渡すと言えば、半分渡す。
それだけのことが。
瑠奈には、ひどく珍しかった。
スマートフォンが震えた。
瑠奈は画面を見る。
『おじさん』
黒川からだった。
『明日、十時。必要な設備を買いに行くぞ』
瑠奈は思わず眉をひそめた。
『早すぎ』
すぐに返信が来る。
『会社員はもっと早い』
『もう無職じゃん』
しばらく、返信が来なかった。
やがて。
『うるさい』
瑠奈は吹き出した。
静かだった広い部屋に、自分の笑い声が響く。
少し前まで。
一人の部屋でスマートフォンが震えるたび、瑠奈は怖かった。
母親からの連絡かもしれない。
家賃を払えないと言われるかもしれない。
もう面倒を見られないと言われるかもしれない。
でも、今は違う。
瑠奈は母親とのトーク画面を閉じた。
そして、黒川との画面を開く。
『明日、起こして』
少し考えてから送った。
『自分で起きろ』
予想通りの返信だった。
「ケチ」
瑠奈は笑いながら、スマートフォンを胸の上に置いた。
二千万円があるから安心したのだと思っていた。
もう、母親の金を待たなくていいから。
誰にも頼らなくていいから。
だから、この部屋で眠れるのだと思っていた。
でも。
廊下を挟んだすぐ隣に、あのおじさんがいる。
そのことに、ほんの少しだけ安心している自分がいた。
「……ま、いっか」
五十嵐瑠奈は、ゆっくりと目を閉じた。
もう、誰かに「ここにいていい?」と聞く必要はない。
少なくとも今夜は。
この場所が、自分の部屋だった。
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