第22話 新しい一歩
月曜日の朝。
俺はいつも通り、満員電車に揺られて会社へ向かっていた。
押し潰されそうな車内。誰かの鞄が脇腹に食い込み、目の前では疲れ切ったサラリーマンがスマートフォンを眺めている。
何年も繰り返してきた、変わり映えのしない朝だった。
だが、不思議なことに、今日は何も感じなかった。
以前なら、会社が近づくにつれて胃の奥が重くなった。今日も何時まで残業するのか。結城の尻拭いをどれだけ押し付けられるのか。上司から何を言われるのか。
考えるだけで、朝から疲れていた。
だが、今日は違う。
俺は電車の窓に映る、くたびれた自分の顔を見つめた。
四十歳。独身。
二百万円の借金を抱え、毎月の返済額と給料日までの残金ばかりを気にして生きてきた男。
その借金は、もうない。
昨日は、サーバー最強ギルド【アヴァロン】から十九人分の装備と資産を奪い、生きて帰った。俺には今、会社員として何年働いても手にできなかった金がある。
それなのに俺は、今日もスーツを着て、いつもの電車に乗っていた。
(……なんで俺、会社に向かってるんだ?)
自分でも少し笑いそうになった。
習慣とは恐ろしい。
もう、この会社にしがみつく必要などない。それでも身体は、いつもの時間に起き、いつものスーツを着て、勝手に会社へ向かうのだ。
会社に到着すると、いつものように社員証をかざし、オフィスへ入った。
「おはようございます」
誰に言うでもなく挨拶をして、自分の席へ向かう。
その途中。
俺は、見慣れた後輩の姿を見つけた。
結城翔。
いつもなら高そうなスーツを着て、朝から女性社員と軽口を叩いている男だ。仕事は適当なくせに、上司の前では愛想がいい。面倒な作業は俺に押し付け、成果だけは自分のものにする。
そんな結城が、今日は別人のようになっていた。
髪は乱れ、目の下には濃い隈がある。机の上に置いたスマートフォンを、血走った目で何度も確認していた。
「……なんでだよ」
小さな声が聞こえた。
「やっと入れたのに……」
俺は足を止めた。
結城は俺に気づいていない。
「五百万だぞ……。五百万以上かかってんだぞ……」
その言葉を聞いた瞬間、昨日の光景が脳裏に蘇った。
煙に包まれたトンネル。
ルナの【無課金領域】によって、高額装備の機能を失った男たち。
その中で一人だけ、ギルドマスターの命令に従わなかった黄金の重騎士。
『外せるわけねえだろ……。この装備に、いくらかかったと思ってるんだよ……!』
俺は結城を見つめた。
「……まさか」
思わず声が漏れた。
結城が顔を上げる。
「……なんすか、黒川さん」
「いや」
俺は何事もなかったように、自分の席へ向かった。
偶然だ。
ゲームに五百万円を使う人間など、探せばいくらでもいる。
そう思った。
だが。
「クソ……アヴァロンに入れたら、美咲にも……」
俺の足が止まった。
――美咲。
昨日、黄金の重騎士の首を掴んだとき、【接触読心】で流れ込んできた言葉。
『やっとアヴァロンに入れたのに!』
『この装備に五百万以上つぎ込んだんだぞ!』
『美咲にも自慢して――』
すべてが一致した。
俺は、ゆっくりと結城を振り返った。
昨日、俺が煙の中で殺した黄金の重騎士。
あれは――。
(結城だったのか)
全身から、妙な力が抜けた。
笑いが込み上げるわけでもなかった。達成感もない。
あれほど憎かった男だ。
俺の仕事を押し付け、手柄を奪い、俺が密かに好意を寄せていた美咲と婚約した。
会社に来るたびに、こいつの顔を見るだけで胃が痛くなった。
その男から、俺は五百万円以上の装備を奪った。
しかも、復讐しようとしたわけではない。
名前すら知らず、ただ目の前にいた「損切りのできない馬鹿」を狩っただけだ。
「……そうか」
俺は小さく呟いた。
それだけだった。
もう、どうでもよかった。
結城がどうなろうと。
美咲と結婚しようと。
会社で評価されようと。
今の俺には、関係がない。
「黒川」
自分の席に着いた直後、部長に呼ばれた。
「はい」
「ちょっといいか」
嫌な予感がした。
部長の席へ向かうと、案の定、分厚い資料を渡された。
「今日のコンペなんだけどな。結城がちょっと使い物にならん」
俺は黙って資料を見る。
本来、結城が担当していた案件だ。
「悪いけど、お前がフォローしてくれ。今日中に資料をまとめ直して、先方にも連絡を入れておいてくれないか」
いつものことだった。
結城が失敗する。
俺が直す。
結城が評価される。
俺は残業する。
何年も、何年も、同じことを繰り返してきた。
以前の俺なら、ここで「分かりました」と答えていただろう。
断ったら迷惑がかかる。
会社員なのだから仕方がない。
俺がやらなければ、誰かが困る。
そんな言葉を、自分に言い聞かせて。
だが。
「申し訳ございません」
俺は資料を部長の机に戻した。
「それは、できません」
部長が目を丸くした。
「……は?」
「できません」
「いや、できないじゃなくて。結城がこの状態なんだから、お前がやるしかないだろ」
――お前がやるしかない。
何度、この言葉を聞いただろう。
人が足りないから。
納期がないから。
担当者が休んだから。
結城がやらなかったから。
お前がやるしかない。
そう言われるたびに、俺は自分の時間を差し出してきた。
だが、それも今日で終わりだ。
俺は鞄から、一枚の封筒を取り出した。
机の上に置く。
「退職届です」
部長が固まった。
「……は?」
今日二度目の「は?」だった。
「おい、黒川。ちょっと待て。急に何を言ってるんだ」
「前から考えていました」
これは嘘だ。
少し前までの俺は、会社を辞めるなんて考えてもいなかった。
借金があった。
生活があった。
四十歳で転職できる自信もなかった。
会社を辞めるという選択肢そのものが、俺の人生には存在していなかった。
だが今は違う。
「引き継ぎが必要だろ! お前しか分からない仕事もあるんだぞ!」
「資料はすべて共有フォルダに入っています。進行中の案件についても、一覧を作成してあります」
「いや、そういう問題じゃない!」
部長の声が大きくなり、オフィス中の視線がこちらに集まった。
結城も、呆然と俺を見ている。
俺はその顔を見た。
昨日、俺に殺された男。
今日もまた、こいつが動けないせいで、俺に仕事が回ってきた。
これまでの俺なら、きっと腹を立てていた。
だが今は、本当に何も感じなかった。
「黒川さん……マジで辞めるんすか?」
結城が掠れた声で聞いた。
「ああ」
「なんで……今……」
その問いに、俺は少しだけ考えた。
借金を完済したから。
金を稼げるようになったから。
ゲームで人生が変わったから。
どれも間違ってはいない。
だが、一番近い答えはもっと単純だった。
「もう、ここにいる理由がないからだ」
俺はそう答えた。
自分のデスクに戻り、私物を鞄に詰めた。
驚くほど少なかった。
何年も働いた場所なのに、俺のものと呼べるものは、マグカップと数本のペンくらいしかなかった。
パソコンの電源を落とす。
社員証を机の上に置く。
そして俺は、会社を出た。
時刻は、まだ昼前だった。
平日の午前中に、スーツ姿で会社の外を歩く。
それだけのことなのに、ひどく不思議な感覚だった。
街には人がいた。
カフェで笑う若者。
ベビーカーを押す母親。
公園のベンチで眠る老人。
今までの俺は、この時間の街をほとんど知らなかった。
朝、会社へ行く。
夜、家に帰る。
その繰り返しだった。
俺は空を見上げた。
雲一つない青空だった。
借金は、もうない。
毎月の返済額を気にする必要も、給料日までの日数を数える必要もない。
それでも俺は今朝、いつもの時間に起き、いつものスーツを着て、いつもの電車に乗った。
金の問題が消えても、四十年かけて身体に染みついた生き方までは、勝手に変わってくれないらしい。
だから、最後の一歩だけは。
自分の足で踏み出すしかなかった。
俺はスマートフォンを取り出した。
ルナから、メッセージが届いている。
『おじさん、今日どうする?』
俺は少し考えてから、返信した。
『会社を辞めた』
数秒後。
『はあああああああ!?』
思わず、笑った。
四十歳。
無職。
普通に考えれば、人生の終わりかもしれない。
だが、俺には不思議と、そんな気はしなかった。
借金もない。
会社もない。
明日から何をするのかも、まだ完全には決まっていない。
それでも。
今日、ようやく俺は、自分の人生を自分で選んだ。
これは終わりではない。
俺にとっては――新しい一歩だった。
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