第12話 泥水の底で牙を研ぐ

ズゥゥン……と、分厚い鉄製シャッターの向こう側から、鈍い振動が伝わってくる。


鉄仮面の三人組が、破壊魔法でも撃ち込んでいるのだろう。


だが、閉じた防火シャッターは、そう簡単には突破できない。


何度か続いていた振動が、やがて途切れた。


「ゲホッ、ゲホッ……! マジで死ぬかと思った……。空気最悪だし、暗いし、なんなのここ……」


暗闇に包まれた通路で、ルナが激しく咳き込みながら、床のコンクリートにへたり込んだ。


五感同期型のフルダイブシステムは、ビルの気流が巻き上げた数年分の埃と煤煙の匂いを、容赦なく俺たちの鼻腔に送り届けてくる。


口の中がジャリジャリとして不快極まりないが、それ以上に、生き延びたという実感が全身を支配していた。


「大丈夫か、ルナ。HPゲージは?」


「……あ、私は全然減ってない。おじさんが庇ってくれたから……。あ、でも、おじさんの肩、めっちゃ血が出てるじゃん!」


ルナが暗闇の中で目を凝らし、俺の右肩を指差した。


見ると、鉄仮面の放った矢が刺さった傷から、赤黒い光の粒子がじわりと滲み出ている。


システムウィンドウを隅に引き出すと、俺のHPは全体の二割ほど削られていた。初期装備の布服一枚では、たった一発でもこの有様だ。


俺はアイテム欄から、危険エリアの入り口付近で手に入れた最安値の「下級ポーション」を取り出し、一気に飲み干した。


合成着色料のような、ひどく薬品臭い味が口の中に広がり、肩の傷がじわじわと光の粒子に変わって塞がっていく。


「ふぅ……。これでなんとかなる」


「ねえ、おじさん」


ルナが、背後を塞ぐ巨大なシャッターを見上げた。


「さっきの、何だったの? なんであんなの急に落ちてきたの?」


「ただの防火シャッターだ」


「ただのって……普通、あんなの見つけても使おうと思わないでしょ」


「昔、ビルメンテナンス関係の営業をやっていた。現場で嫌というほど見てきたからな」


「……元社畜の業務知識で、数十万の課金魔法を止めたってこと?」


ルナが呆れたように俺を見る。


「マジで意味分かんないんだけど。おじさん、やっぱり頭おかしいわ」


「褒め言葉として受け取っておく」


「褒めてないし」


ルナは小さく笑った。


ようやく少しだけ緊張が解けたらしい。


だが、俺の表情は晴れなかった。


シャッターの向こう側から聞こえていた振動が、完全に止まっている。


正面突破を諦めたのだ。


(次に奴らが考えることは分かる)


このビルの別の搬入口か、外周の非常階段。


そこから内部へ回り込み、逃げ場を失った俺たちを挟み撃ちにする。


敵からすれば、それが最も合理的な判断だ。


そして――それこそが、俺の待っていた動きだった。


「ルナ、喜ぶのは早いぞ。一時的に追撃を撒いただけで、俺たちの状況が悪いことに変わりはない」


俺は壁から身体を離し、ビルの奥へと続く、完全に光の途絶えた暗い通路を見据えた。


「手口がネットの掲示板で割れている。あの三人組は、お前の【無課金領域】の半径五メートルを正確に把握し、その外側から遠距離攻撃を仕掛けてきた。さらに、俺の【発煙】を潰す索敵連動の課金装備まで持っている。……完全に、俺たちを『ハメ殺す』ために編成されたパーティーだ」


「じゃあ……もう諦めてログアウトする?」


ルナが不安そうに言った。


「滞在税は引かれちゃうけど、ここで全ロスするよりはマシじゃん」


その提案は、ゲームのプレイヤーとしては至極真っ当なものだった。


ここで無理をして死ねば、稼いだ数十万円分のリソースも、これまで必死に貯めた軍資金も、すべてその場にぶちまけて失うことになる。


安全圏へ逃げ帰るのが、一番リスクが低い。


だが、俺は冷徹に首を横に振った。


「無理だ。危険エリアでは、戦闘状態が解除されてから五分間、同じ場所で待機しなければログアウトできない。途中で移動すれば、待機時間は最初からやり直しだ」


「えぇ……」


「奴らが別の搬入口や非常階段から回り込んでくる時間を考えれば、五分間も同じ場所に突っ立っていたら終わる」


「じゃあ、どうすればいいのよ!?」


ルナの声が、再びパニックになりかける。


「逃げられない、煙も通じない、近づいたら蜂の巣にされる。詰んでんじゃん!」


「詰んでなどいない。ビジネスの基本を思い出せ」


俺は、暗闇の中でサバイバルナイフの刃をそっと指先でなぞった。


「競合他社が、圧倒的な資金力と、こちらの弱点を突く新製品を引っ提げて市場に参入してきた。そのとき、無能な経営者はただ怯えて逃げ出すか、無策のまま価格競争を挑んで自滅する」


「……また始まった、おじさんのビジネス理論」


「だが、有能なビジネスマンは違う」


俺は構わず続けた。


「相手の強みが『機能しない市場(フィールド)』へ、こちらから引きずり込むんだよ」


「……何するの?」


「奴らの強みは二つ。距離を保ったまま攻撃できる『射程の長さ』と、煙の中でも俺たちを追える『情報の優位性』だ」


俺は暗闇の中で目を閉じた。


頭の中に、先ほど外から見たビルの形状を思い浮かべる。


搬入口。


エレベーターホール。


吹き抜け。


そして、建物の上下階を繋ぐ、狭い縦の動線。


「ならば、その二つを同時にドブに捨てるしかない場所へ、奴らを誘い込めばいい」


「そんな場所、あるの?」


「ああ」


俺は目を開いた。


「ルナ。このビルの非常階段を探すぞ」


「非常階段?」


ルナが怪訝そうに眉をひそめる。


「あんな狭い場所に行ってどうすんの?」


「狭い場所だからこそ意味がある」


俺は歩き出しながら答えた。


「幅が一メートル強しかない非常階段なら、奴らは今までのように扇状に展開して俺たちを囲めない。長弓も長杖も、広い場所ほど自由には扱えなくなる」


「でも、結局あいつらが遠くから撃ってきたら同じじゃん」


「そうだな」


「そうだなって……」


「だから、もう一つ使う」


俺は足を止め、ルナを振り返った。


「お前の【無課金領域】だ」


「え?」


「ルナ。お前、自分の領域が『円』じゃないことは覚えているか?」


「……あ」


ルナの目がわずかに見開かれた。


以前、ネズミ狩りの合間に、俺は彼女の【無課金領域】の性能を徹底的に調べていた。


ルナを二階に立たせ、俺だけが一階へ降りる。


戦利品として拾った課金装備を身につけたまま階段を一段ずつ移動し、どの位置で装備効果が消え、どこまで離れれば元に戻るのかを何度も測った。


その結果、分かったことがある。


【無課金領域】は、地面に描かれた半径五メートルの『円』ではない。


ルナを中心として、上下左右すべてに半径五メートルの効果を及ぼす――完全な『球体』だ。


「お前の領域は、壁も床も関係なく貫通する」


「うん……。でも、それが何?」


俺は答えなかった。


代わりに、暗闇の奥を指差した。


「ルナ。非常階段を見つけたら、お前は上へ行け」


「上?」


「ああ」


「おじさんは?」


「俺は別の階に行く」


ルナが数秒、黙り込んだ。


「……え? 一緒に戦わないの?」


「戦うさ」


俺はサバイバルナイフを腰に戻した。


「ただし、別の階からな」


「……何それ。全然意味分かんないんだけど」


「それでいい」


「は?」


「奴らにも、分からないから意味がある」


俺は再び歩き出した。


手持ちのコマの正確なスペックを把握しておくのは、ビジネスにおけるリスク管理の基本だ。


あの時の地道な検証が、今、この最悪な戦況をひっくり返す切り札になろうとしている。


相手がこちらの対策を練ってきたというのなら、俺はそのさらに裏をかく。


そして、俺の対策を読んできたのなら――そのまた裏をかくだけだ。


二百万円の借金を完済し、人生をやり直すための道。


こんな泥水の底のような場所で、金持ちの子供たちに小突かれたくらいで、立ち止まってたまるものか。


「ルナ、作戦を伝える」


俺は暗闇の中で、静かに笑った。


「今度は、俺たちが奴らをハメ殺す番だ」


俺たちは気配を消し、静かにビルの深層へと足を踏み入れた。


最初の大きな障壁。


それを突破するための冷徹な罠は、まだ誰にも、その全貌を見せていなかった。

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