第39話 名前のない依頼
そのメールが届いたのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。
ARDEN知財戦略研究所の執務室には、まだ朝の静けさが残っていた。板橋の低いビル群の向こうで、冬の光が薄く反射している。会議室ではアラタが古い記録の整理を続けており、ソアの机の上には、前日に作った仮称フォルダの出力紙が置かれていた。
YUN_MATERIALS。
まだ、外には出さない名前。
その上に、秘書が一枚の紙を置いた。
「代表、確認をお願いします」
ソアは画面から目を上げた。
「急ぎ?」
「先方は、本日中の返信をご希望です」
「先方は?」
秘書は少しだけ言葉を選んだ。
「ミョンウ法律事務所です。韓星電子の代理人として、とのことです」
その名前で、部屋の温度がわずかに変わった。
ソアは紙を手に取った。
件名は、簡潔だった。
――半導体関連保有技術に関する外部評価業務のご相談
本文に、ユン工業の名前はなかった。
ユン・ジンウの名前もない。
十年前の共同開発という言葉もない。
ただ、韓星電子が保有する一部の半導体関連技術について、外部専門家による権利関係および技術評価の必要が生じていること、ARDEN知財戦略研究所の知財戦略支援実績を確認したこと、一度意見交換の機会を持ちたいことが、礼儀正しい文章で書かれていた。
あまりに整っている。
だから、気持ちが悪かった。
ソアは最後まで読み、紙を机に置いた。
「代表?」
「ミンギュに転送して」
「はい」
「アラタにも。本文だけでいい。添付は開かせないで」
秘書が頷き、部屋を出ていく。
ソアはしばらく、画面に残ったメールを見ていた。
韓星電子。
十年前、父の技術を持っていった会社。その名が、今度は依頼主としてARDENの前に現れた。だが、彼らは何も言っていない。何も認めていない。名指しもしていない。ただ、専門家として意見を聞きたいと言っている。
礼儀正しい文章ほど、何を避けているのかがよく見える。
数分後、ミンギュから電話が入った。
「読んだ」
挨拶はなかった。
「早いわね」
「君が転送させたんだろ」
「どう見る?」
「偵察だ」
ミンギュは即答した。
「謝罪でも、交渉でも、返還でもない。向こうはまだ、自分たちが何を持っているのかをこちらに言っていない」
「でも、韓星電子の代理人として来ている」
「そこだけは隠していない。隠していないというより、隠さない方がこちらの反応を測れる」
ソアは椅子にもたれた。
「ユン工業の名前を出してこない」
「出したら、向こうが先に認めたことになる」
「父の名前もない」
「それも同じだ」
短い沈黙があった。
ミンギュの声は、電話越しでも冷静だった。けれど、いつもの投資判断だけの声ではない。彼もまた、これがただの業務依頼ではないことを分かっている。
「受けるのか」
ミンギュが聞いた。
「このままでは受けない」
「正解だ」
「でも、断りもしない」
「それも正解だ」
ソアは目を伏せた。
韓星が初めて外に手を伸ばしてきた。
たとえ代理人越しでも、たとえ名前を伏せていても、こちらの存在を無視できなくなったことだけは分かる。だが、そこで前のめりになれば、相手の土俵に乗ることになる。
ユン工業の娘として怒るのではない。
ARDENの代表として、相手に情報を出させる。
「返信の条件を出す」
ソアは言った。
「対象技術の特定。依頼目的。現在の権利保有状況。守秘義務範囲。利益相反確認。韓星電子のどの部門からの依頼か」
「加えて、代理人の権限範囲」
ミンギュが言った。
「その法律事務所が、ただの窓口なのか、交渉権限を持っているのか。そこを曖昧にされると、面談だけして終わる」
「分かった」
「もう一つ」
「何」
「最初の面談は、向こうの事務所でも韓星の建物でもない場所にしろ」
ソアは小さく息を吐いた。
「ARDEN?」
「それも悪くないが、向こうにこちらの設備や人員を見せる必要はない」
「では」
「CRESCENTの会議室を使えばいい」
ソアは少しだけ黙った。
「あなたの場所に?」
「君が嫌ならホテルの会議室でもいい。ただ、相手が法律事務所を盾にしてくるなら、こちらも投資家を同席させる。初手から一人で行くな」
「心配?」
「リスク管理だ」
「都合のいい言い方ね」
「状況を整理するには適切だ」
その言い方に、ソアはほんの少しだけ笑いそうになった。笑わなかったが、肩の力は抜けた。
「アラタは?」
「連れてこなくていい」
ミンギュは即答した。
「技術者を初回から見せるな。向こうが知りたいのは、君が何を持っているかだ。アラタを連れていけば、そこに目が行く。盗られるぞ、アラタを」
「どうやって」
「金で動かないやつを動かす手管はお家芸だろ、韓星は」
「……そう、ね」
「攫われて監禁されるかもな、畳めばアイツは小さくなりそうだし」
想像してソアは少し笑った。
「ああ。YUN_MATERIALSも出すな」
ソアは机の上の紙を見た。
仮の名前。
まだ外に出さない名前。
「分かっている」
電話を切ると、会議室の扉が開いた。
アラタがノートパソコンを持って入ってきた。髪は乱れていて、片手にはコンビニのコーヒーがある。メールを読んだのだろう。いつもより顔が少しだけ険しかった。
「これ、偶然じゃないよね」
「偶然なら、もっと下手な文面になる」
ソアが言うと、アラタは机の前で立ち止まった。
「ユン工業って書いてない」
「ええ」
「ジンウさんの名前もない」
「ええ」
「じゃあ、こっちも何も言わない?」
「何も言わないのではなく、相手に言わせる」
アラタは少しだけ考えた。
「面倒」
「そうね」
「でも、こっちから名前を出したら負け?」
「負けではない。でも、安く見られる」
その言葉に、アラタは黙った。
ソアは、彼にも分かるように言葉を選んだ。
「向こうは、こちらが何を知っているかを見たい。だから、こちらが先に全部説明すると、相手は何も出さずに済む」
「じゃあ、質問だけ返す?」
「質問と条件」
「強そう」
「強いふりでは足りないわ。業務として正しい形にする」
アラタは机の上の紙を見た。
「受けるの?」
「条件を満たすなら」
「満たさなかったら?」
「会わない」
アラタは短く頷いた。
「それでいいと思う」
その返事は、思ったよりはっきりしていた。
ソアは彼を見る。
「理由は?」
「向こうが本当に困ってるなら、条件を出してくる。困ってないなら、ただ様子を見たいだけ」
「ミンギュみたいなことを言うのね」
「やめて」
アラタはすぐに顔をしかめた。
その反応に、部屋の空気がほんの少しだけ軽くなる。
だが、紙の上の名前は変わらなかった。
韓星電子。
その四文字は、ただそこにあるだけで、十年前の空気を連れてくる。
午後、ソアは返信文を作った。
文面は短く、感情は入れなかった。
ご連絡への礼。
業務受任可否の判断には、対象技術の特定が必要であること。
権利評価か、技術評価か、紛争対応準備か、契約交渉前評価か、依頼目的を明示してほしいこと。
韓星電子内の依頼部門と、代理人の権限範囲。
守秘義務の相互性。
利益相反確認のため、関連当事者名の提示が必要であること。
面談の可否は、それらの情報確認後に判断すること。
最後に、面談候補地として、ARDENでも韓星でもない第三の会議室を指定した。
CRESCENT CAPITAL。
送信前の画面を、ソアはしばらく見つめた。
そこには、ユン工業の名前はない。
父の名前もない。
だが、相手にそれを出させるための言葉は並んでいる。
「送る?」
アラタが聞いた。
ソアは頷いた。
「送る」
送信ボタンを押す。
メールは、音もなく画面から消えた。
返事が来るまで、数時間はかかると思っていた。
だが、一時間もしないうちに、ミンギュから短いメッセージが届いた。
――向こうが読んだ。
続けて、もう一通。
――動くぞ。
その頃、ソウル市内の法律事務所の会議室では、ミョンウ法律事務所の担当弁護士が、受信したばかりの返信文を印刷していた。
紙は二部。
一部は弁護士の手元に。
もう一部は、向かいに座る韓星電子側の若い男へ渡された。
ハン・ソジュンは、文面を最後まで読んだ。
読み終える頃には、いつもの柔らかい笑みは消えていた。
「代表的な断り文句ではありませんね」
弁護士が言った。
「違います」
ソジュンは紙を置いた。
「これは、会うつもりがある返事です」
「ですが、かなり条件が多い」
「条件を出せる相手だということです」
ソジュンは、もう一度紙に目を落とした。
対象技術の特定。
依頼目的。
権限範囲。
関連当事者名。
どれも、こちらが最初の文面で避けたものだった。
避けた場所を、正確に踏んで返してきている。
さすがだ、と言いそうになって、ソジュンは言葉を飲み込んだ。彼が知っているユン・ソアは、十年前のクラウンヒルズで見た少女の記憶で止まっている。今、紙の向こうにいるのは、その記憶とは別の人間だった。
ARDEN知財戦略研究所代表。
IPコンサルタント。
そして、ユン工業の娘。
ソジュンはスマートフォンを取り出し、姉に文面の写真を送った。
すぐに既読がついた。
返事は短かった。
――いい返し方ね。
続けて、もう一通。
――こちらが名前を出さずに済む相手ではない。
ソジュンは画面を見たまま、少しだけ息を吐いた。
弁護士が尋ねる。
「どう返しますか」
ソジュンは紙を指で押さえた。
「対象技術は、まだぼかしてください。ただし、依頼目的は変えます」
「変える?」
「外部評価では弱い。権利関係の確認と、過去資料の整合性確認。その範囲まで認める」
弁護士の表情がわずかに硬くなった。
「それは、十年前の関係に踏み込むことになります」
「踏み込まないと、向こうは来ません」
「会長室の了承は」
「こちらで取ります」
言いながら、ソジュンは自分が少し震えていることに気づいた。
怖いからではない。
軽く見られることに慣れていた自分が、初めて韓星の名前を背負って、相手の前に出ようとしている。その重さが、指先に来ていた。
姉から、もう一通届いた。
――最初の席で謝るな。
ソジュンは眉を寄せた。
すぐに続きが来る。
――謝罪は条件がそろってから。先に謝れば、ただの感傷になる。
ソジュンは画面を伏せた。
韓星側にも、まだ言えないことが多すぎる。
だが、もう戻れない。
ARDENからの返信は、ただの受任確認ではなかった。
こちらが何を隠しているかを、最初の一枚で測ってきた。
ソジュンは弁護士に向き直った。
「返答を作ってください」
「内容は」
「ARDENの条件を一部受け入れる。面談場所はCRESCENT CAPITALで構わない。出席者は、代理人、韓星電子側担当者、それから――」
彼は一度、言葉を切った。
「私の名前を入れてください」
弁護士は明らかに驚いた顔をした。
「ハン常務のお名前を?」
「はい」
「よろしいのですか」
「名前を出さずに済む段階は終わりました」
その言葉を口にして、ソジュンはようやく、自分が何を選んだのかを理解した。
ソア側は、ユン工業の名前をまだ出していない。
韓星側も、十年前のことをまだ認めていない。
それでも、互いに分かっている。
何の話をしているのか。
誰の名前を避けているのか。
どの扉の前に立っているのか。
最初の対決は、会議室ではなく、一通のメールから始まった。
名前のない依頼。
名前を出させる返答。
その二つの間で、十年前に閉じられた扉が、ほんの少しだけ開いた。
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