地獄の大気を味方に付けよ

薄暗い第一化学実験室。

ガラス器具が触れ合うかすかな音と、ドラフトチャンバーの重低音だけが響く

室内に、頭の硬い老教授の苛立った声が響いた。


「ダメだ、ダメだ! 富田くん、君のレポートはSFの妄想が過ぎる!」


白髪混じりの教授は、ガバガバの計算書をデスクに叩きつけた。


「金星大気をカーボンで完全遮光して冷却するだと? 金星の気圧は90気圧だぞ! 460度もの熱を蓄えた巨大な二酸化炭素のお布団だ。表面の光をちょっと遮った

ところで、数百年はサウナ状態が維持されるに決まっている。現在の材料工学でも、宇宙に巨大な遮光板を浮かべるなど予算的にも物資的にも100%不可能だ。

研究室の基本データを見直したまえ!」


作業着の袖をまくり、実験机に寄りかかっていた男――富田は、

フッと不敵な笑みを浮かべた。その目は、目の前のデータではなく、

もっと大きな「地球の歴史」という大局を見据えている。


「教授、あんたガチガチの『研究室頭』になって、

熱力学のイロハを忘れてやしませんか?」


「何だと……!?」


「じゃあ聞きますがね」

富田はチョークを取り、黒板に大きく二つの言葉を書き殴った。

変温動物であり大型である『恐竜絶滅』。


「この通りの話なら、変温もしくは中温動物の恐竜は絶滅しないはずだ。

もし『お布団があるから地表は冷えない』のが真実なら、

チクシュルーブに隕石が落ちて塵が空を覆ったときも、

地球は冷えずにぬくぬくサウナだったはずでしょう。だけど現実は違った。

火(太陽)を消されりゃ、いくら分厚い布団があろうが、

外の『絶対零度』の宇宙空間に向けて容赦なく冷え切る。それが物理の根本だ」


教授は息を呑んだ。数式を捏ねくり回すことに没頭するあまり、

地球がすでに、6600万年前に実証してみせた「遮光の圧倒的な冷却ドミノ」

という最大のファクトを見落としていた。


「そ、それは……確かに熱のインプットがゼロになれば……しかし、

その遮光板をどうやって運ぶと言うんだ!」


「誰も宇宙に『板』を浮かべるなんて言ってねえよ」

富田は実験台の上の、黄色く濁った液体の入ったフラスコを指差した。


「金星には、天文学的な量の『硫酸大気』がすでにある。

そうだなあ、カーボンにこだわる必要もない。現地にある硫酸の雲をハックして、

ちょっとした触媒で連鎖反応を起こしてやりゃいいんだ。

雲自身がセルフカラーリングを起こして、紫外線や可視光を最上層で

シャットアウトする暗黒のインクに変わる」


「な……現地調達、化学的自己増殖か……!」


「そう。そして一度その上下の温度差で『嵐』が起きてしまえば、

あとは自動運転(オートマチック)だ」


富田の言葉に熱がこもる。


「地球の90倍の密度を持つ大気の奔流が、マッハ級で地表を駆け巡る。

惑星規模の超巨大サンドブラストだ。地表の黒い火山岩は粉砕され、

チリとなって爆発的に上空へ巻き上げられる。空は勝手に、

さらに不透明に染まっていく」


教授の脳裏に、凄まじい大嵐の中で天地がひっくり返る金星の光景が

フラッシュバックした。


「……そうか! 太陽光線が地表に届かず、大気の比較的薄い上空のチリで

熱に変わる。そこはもう宇宙の目の前だ。生まれた熱は、

シュテファン・ボルツマンの法則通り、ダイレクトに

宇宙へ放射(ブチ捨て)される……!」


「気づきましたか」

富田はニヤリと笑った。


「太陽に近い上空がなぜ寒いのか、ってパラドックスと一緒ですよ。

お布団の上側はただひたすら寒いだけ。熱の発生源を布団の上側に強制移転

させられた地表は、エネルギーの飢餓状態に陥る。あとは460度の熱と

冷気が混ざり合い、地表はボコボコの炭酸スープに変わる。

そのスープの中で二酸化炭素が岩石(石灰岩)にロックされ、

大気が自滅的に冷え切っていく……」


黒板の前で、富田はチョークを放り投げた。


「人類が汗水垂らして土木工事をする必要なんてない。原始地球の誕生ドラマを、

超高速で逆再生させてやるだけだ。

……どうです? ガチガチの物理脳で大局を見忘れると、

本当の現象を読み間違えますよ、教授」


教授はしばらく呆然と黒板の文字を見つめていたが、やがて、

深く大きなため息をついた。その顔には、先ほどのへそ曲がりな

険しさは消え失せ、一人の科学者としての純粋な驚嘆と敗北感が浮かんでいた。


「……完全に、私の負けだ。参ったよ。君は普通の研究員じゃないな。

机の上のノートだけで『できない理由』を並べてブレーキを踏んでいた自分が、

本当に恥ずかしい」


教授は嬉しそうに眼鏡を拭き直すと、富田に向かって新しい白紙のレポート用紙を

差し出した。


「富田くん。いや、チーフエンジニア。この『地獄の土鍋スープ計画』、

今すぐ次のフェーズのシミュレーションを始めよう。科学の可能性をハックする、

最高の相棒(シナリオ)を君から見せてもらったよ」


「……いえ、まだです。教授。計画の『心臓』はこれからですよ」


富田は実験机の隅、耐圧容器の中でゆらりと揺れる、鮮やかな赤い触手を持った異形の生物を指差した。


「化学反応で地表を冷やし、炭酸スープを作るのは『環境の第一歩』に過ぎない。その極限の海が生まれた瞬間に、彼らを解き放つんです」


「それは……何だ?」


「ハオリムシの改変個体です。深海の強酸、熱湯、高圧をエネルギー源にする深海の住人――こいつの代謝系を段階的にハックし、地表の『地獄の土鍋スープ』を餌にするよう作り変えました」


教授は容器を覗き込み、戦慄した。「……まさか、この過酷な環境で増殖させるつもりか?」


「ええ。彼らは硫黄や二酸化炭素を喰らい、地表の有害物質を濾過しながら、死骸となってその場に堆積する。荒れ狂う嵐の後の地表を、彼らが有機物で埋め尽くし、最初の『土壌』を作り上げるんです」


富田は冷徹なまでの眼差しで黒板を見つめた。


「機械が環境を壊し、生物がその死骸から大地を造る。無から有を作るのは神の領域ですが、あるものに手を加えて『地獄から楽園へと至る生命の循環』をハックするのは、僕たち人間だけに許されたエンジニアリングだ」


教授は言葉を失い、ただ目の前の、赤く揺れる「切り札」を見つめ続けた。

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