第三章 憲兵隊の招待状

南京憲兵隊の建物は、病院に似ていた。

白い壁。

磨かれた廊下。

静かな足音。

そして、人々がそこへ入るときよりも、出るときのほうが老けて見えるところまで。

六月二十九日、午前九時。

氷室隼人少佐は黒塗りの軍用車を降りた。

昨夜届いた呼び出し状は簡潔だった。

至急出頭されたし。

理由は書かれていない。

理由を書かないこと自体が理由だった。

正門の衛兵に身分証を見せる。

敬礼。

案内。

二階。

突き当たりの部屋。

軍隊という組織では、階級がすべてだと言われる。

だが憲兵隊の前では違う。

少将でも中将でも、一枚の調書で人生を終わらせることができる。

氷室はそれを知っていた。

部屋に入ると、一人の男が窓際に立っていた。

憲兵少佐。

四十代半ば。

痩せた顔。

鋭い目。

軍服には一切の乱れがない。

「氷室少佐」

男は振り返った。

「ご足労いただき感謝します」

言葉は丁寧だった。

だからこそ警戒すべきだった。

「用件は」

「まず座ってください」

氷室は椅子に腰を下ろした。

机の上には茶が二つ。

どちらも手つかずだった。

男は自ら名乗った。

「南京憲兵隊の黒田です」

氷室は名前を記憶した。

軍隊では人間より役職を覚える。

しかし危険な人間だけは例外だった。

「黒田少佐」

「ええ」

「私に何の用です」

黒田は微笑した。

「世間話ですよ」

氷室は何も言わなかった。

世間話ほど恐ろしい尋問を彼は知らない。

黒田は机の引き出しから紙を取り出した。

新聞記事だった。

上海の闇市場に関する報告。

法幣。

金塊。

為替。

どれも戦時下ではありふれた話だ。

だが一箇所だけ赤鉛筆で線が引かれていた。

『最近、正体不明の紙幣が流通しているとの噂あり』

黒田は紙を指で叩いた。

「面白い話だと思いませんか」

「別に」

「私は面白いと思います」

沈黙。

窓の外で蝉が鳴いている。

黒田は続けた。

「少佐は経済の専門家だそうですね」

「多少は」

「偽札についても詳しい」

「一般論なら」

「一般論ですか」

黒田は笑った。

「便利な言葉ですね」

氷室は相手の狙いを測っていた。

黒田は情報を持っている。

だが確証はない。

だから探っている。

問題は、どこまで知っているかだった。

「昨夜」

黒田が言った。

「少佐は誰と会いました」

来た。

氷室は表情を変えない。

「誰とも」

「本当に」

「仕事だった」

「上海から来た白井敬三氏と」

黒田はさらりと言った。

氷室は初めて、この男を危険だと認識した。

監視されていた。

しかも昨夜からではない。

もっと前からだ。

「軍務です」

氷室は答えた。

「機密事項になります」

「もちろん」

黒田は頷いた。

「私も機密は尊重します」

嘘だった。

憲兵は機密を尊重しない。

機密を暴くのが仕事だ。

「ただ」

黒田は煙草に火を点けた。

「最近、妙な動きがありましてね」

煙が細く立ち上る。

「どんな」

「誰かが軍の金を盗んでいる」

氷室は黙った。

「あるいは軍の名を使って金を作っている」

黒田の目が細くなる。

「どちらでも結構です」

その瞬間。

氷室は理解した。

憲兵隊も何かを追っている。

《銀雨作戦》そのものではない。

だが同じ影を見ている。

そして彼らもまた全体像を知らない。

「黒田少佐」

「何でしょう」

「あなたは何を疑っている」

黒田はしばらく答えなかった。

やがて窓の外を見たまま言った。

「私は戦争に負けると思っています」

部屋の空気が凍った。

軍人が口にしてはならない言葉だった。

しかし黒田は平然としていた。

「だから不思議なんです」

「何が」

「勝つと信じている人間より、負けると知っている人間のほうが最近は金持ちになっている」

黒田は煙草を灰皿に押しつけた。

「少佐」

「何だ」

「敵は中国人ではないかもしれませんよ」

氷室は立ち上がった。

面会は終わりだった。

出口へ向かう。

扉に手を掛けた時、黒田が最後に言った。

「気を付けてください」

氷室は振り返らない。

「誰に」

黒田の返事は静かだった。

「私にも分からない誰かに」

廊下へ出る。

窓から差し込む夏の日差しが眩しい。

だが氷室の胸には妙な寒気が残っていた。

白井。

憲兵隊。

存在しない紙幣番号。

そして敗戦後の利益を計算している何者か。

別々だった線が少しずつ近づき始めている。

その日の夕方。

司令部へ戻った氷室を待っていたのは、一通の電報だった。

差出人は東京。

送り主は記されていない。

本文はわずか二行。


登戸ヨリ技師一名派遣ス

到着七月三日

氷室は電報を見つめた。

《銀雨作戦》が始まって以来、登戸研究所から現場へ人間が送られてくるのは初めてだった。

そして彼はまだ知らない。

その技師こそが、この事件の最初の死者になることを。

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