08

東京地方裁判所、地下駐車場。


公判前日の夜。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、ナトリウムランプのオレンジ色の光だけが、コンクリートの柱に不気味な影を落としている。


氷室圭吾は、愛車の黒いセダンの前で足を止めた。自分の靴音がコンクリートの壁に反響し、ひどく耳障りに感じられた。


明日は、連続殺人事件の第一回公判。世間の注目を集めるこの裁判で、検察側は絶対に負けるわけにはいかない。D-Witnessが導入されて以来、検察の有罪率は限りなく100パーセントに近づいている。その一分の隙もない実績に、泥を塗ることは許されない。


氷室は、スーツの内ポケットから車のキーを取り出そうとして、ふと視線を落とした。


彼のルーティンは完璧だ。毎日同じ時間に退庁し、同じルートで車に乗り、同じルートで帰宅する。その規則正しい生活リズムこそが、彼の精神の均衡を保つための防波堤だ。


だが、今日、その防波堤にわずかな亀裂が生じていた。


車のボンネットに、白い封筒が置かれている。


氷室は周囲を警戒しながら、ハンカチ越しにその封筒を手に取った。


宛名はない。糊付けもされていない。


中には、一枚のSDカードと、印字されたメモが入っていた。


『三年前の事件。被告人が首を吊った夜、あなたがクロノス・メディカルの神崎隆一と交わした通話記録。――桐生蒼真』


氷室の心臓が、不規則なリズムで跳ねた。


彼は周囲を見回したが、桐生の姿はない。監視カメラの死角を突いて置かれたのだろう。


氷室は車に乗り込み、ドアをロックすると、ノートパソコンを開いてSDカードを読み込んだ。


頭上から、ノイズ混じりの音声が流れ出す。


『ええ、判決は出ました。D-Witnessの証拠能力が完全に認められた瞬間です』


それは、氷室自身の声だった。三年前の、あの夜の声。


『素晴らしい。これで、我々のシステムは国家のインフラとして確固たる地位を築いた。氷室検事、あなたの尽力に感謝します』


神崎の声が続く。


『私は、私の仕事をしただけです。ただ、一つ確認しておきたい。あの被告人は、本当に有罪だったのですか?』


音声の中で、数秒の沈黙があった。


『システムが有罪だと判断した。それがすべてです。氷室検事、あなたは正義を成し遂げた。何も疑う必要はない』


『わかりました』


音声はそこで途切れた。


氷室は、ノートパソコンを閉じ、深く息を吐いた。


閉じた天板の冷たい金属の感触が、手のひらから伝わってくる。


三年前のあの日。神崎隆一と交わしたあの短い通話が、自分のキャリアにおける唯一の「汚点」であり、同時に「必要悪」だったと、氷室は今でも信じている。


法と正義は、時に矛盾する。D-Witnessが提示した完璧な有罪判決を、人間の不完全な証拠や証言で覆すことなど、許されてはならない。だからこそ、彼はあの夜、神崎の提案に頷いた。


だが、桐生蒼真はどこからこの音声データを手に入れたのか。


クロノス・メディカルのサーバーは、国家最高レベルのセキュリティで守られているはずだ。神崎が個人的にバックアップを取っていたとしても、それが桐生のようなはぐれ弁護士の手に渡るルートなど、存在しない。


「……沙耶か」


かつてD-Witnessの開発に関わり、そして追放された天才プログラマー。彼女の技術力ならば、あるいは。


三年前。彼は確かに、D-Witnessの緻密さを信じていた。いや、信じたかった。妹を殺した犯人が、証拠不十分で無罪になったあの日の絶望から逃れるために、彼は絶対に間違えないシステムを渇望していた。


だからこそ、彼はあの夜、神崎に確認の電話を入れた。自分の中に芽生えた、わずかな疑念を打ち消すために。


「桐生」


氷室は、ハンドルを強く握りしめた。


「この音声記録で、私を脅迫するつもりか」


だが、桐生の狙いは脅迫ではない。氷室にはそれがわかっていた。


桐生は、氷室の「正義」の根底にある揺らぎを突きつけてきた。


「お前が信じている機械は、本当に完璧なのか?」と。


氷室は、スマートフォンを取り出し、事務官に電話をかけた。


「私だ。明日の第104号法廷の警備体制を、最高レベルに引き上げろ。金属探知機の感度を最大にし、傍聴人の持ち物検査を徹底しろ。弁護人であっても例外ではない」


『は、はい。しかし、突然どうして、』


「桐生蒼真が、法廷に何かを持ち込もうとしている可能性がある。物理的な証拠か、あるいはシステムに干渉するためのデバイスか。絶対に阻止しろ」


電話を切り、氷室はエンジンをかけた。


桐生が何を企んでいようと、法廷の論理体系に亀裂を入れさせるわけにはいかない。


明日、彼は桐生を完全に叩き潰す。そして、自らの信じる正義の完璧さを、再び証明してみせる。


***


同じ頃、桐生は神田の地下事務所で、沙耶が完成させたドングルを手のひらで転がしていた。


親指の先ほどの小さな黒いデバイス。これが、明日、法廷という巨大な密室の扉をこじ開けるための、唯一のマスターキーとなる。


「本当に、これをUSBポートに挿すだけでいいんだな」


三十秒で正義を盗む——なんとも現代的な泥棒仕事だと、桐生は口の端を僅かに歪めた。法の番人たちが築いた砦は、結局、親指の先ほどの玩具一つで崩れ落ちる。


桐生が確認すると、沙耶は複数のモニターから目を離さずに、無愛想に頷いた。


「物理的な接続さえ確保できれば、あとは私がバックドアから侵入する。ただし、猶予は三十秒。それ以上接続を維持すれば、システムの防壁に弾かれるだけでなく、こちらの物理位置まで逆探知される」


「三十秒か。検察側の尋問中に、証言台の横にある端末にアクセスする。氷室の視線を逸らすための『餌』は、俺が用意する」


桐生は、机の上に広げられた膨大な資料の束に目を落とした。


その中には、明日証言台に立つ予定の、二人の証人の調書がある。


一人は、事件当夜に現場近くで被害者を目撃したというコンビニの店員。


もう一人は、被害者の直属の上司だった男。


どちらの証言も、D-Witnessの弾き出した「有罪率99.9%」という数字を補強するための、完璧に計算されたピースだ。


だが、完璧すぎるパズルには、必ずどこかに歪みが生じる。


「氷室圭吾……。お前の信じる無謬の神を、明日、俺が引きずり下ろしてやる」


桐生は、ドングルをポケットに滑り込ませ、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。


カフェインの苦味が、胃の粘膜を刺激する。


明日の法廷は、単なる裁判ではない。


これは、人間の記憶とデジタルの絶対性、そのどちらが真実を決定するのかを決める、代理戦争だ。


「できたわよ。最高傑作が」


沙耶は、目の下に濃い隈を作りながら、誇らしげに言った。


「エリュシオン・サーバーのファイアウォールを物理的にバイパスして、御影瑠璃の『偽証プロトコル』の制御権を奪う。あんたがマイク越しに特定の周波数の音声を発すれば、プロトコルが起動し、瑠璃のホログラムが『あんたの望む真実』を語り始めるわ」


「よくやった」


ドングルをポケットにしまった。


「でも、氷室は馬鹿じゃないわよ」


沙耶は、レッドブルの缶をあおりながら言った。


「あんたが封筒を置いたことで、奴は確実に警戒レベルを上げてる。明日の法廷は、針の穴を通すようなセキュリティになるはずよ」


桐生は答えず、ピルケースから最後の錠剤を取り出して噛み砕いた。苦味が舌に広がる。


「……それでいい」


「氷室の目は、俺の持ち物や、傍聴席に向けられる。奴は、俺が外部から何かを持ち込むと確信しているからな。だからこそ、すでに『内側』にいる人間――被告人である鷹野がドングルを持っているとは、夢にも思わない」


「鷹野がドングルを落としたり、挙動不審になったりしたら終わりよ」


「奴はやるさ。自分の人生を取り戻すためにな」


桐生は、錠剤を噛み砕き、苦味とともに飲み込んだ。


明日は、すべてが決まる日だ。


機械が勝つか、人間が勝つか。


いや、違う。これは、壊れた機構と、壊れた人間の、醜い殺し合いだ。


桐生は、デスクの引き出しから、古びた銀色のジッポライターを取り出した。


それは、三年前の事件で首を吊った男が、最後に桐生に託したものだった。


『先生、頼む。俺の無実を』


「待たせたな」


桐生は、ライターの冷たい感触を確かめながら低く言った。


「明日、神の祭壇を燃やしてやる」


雨は、夜半を過ぎても降り続いていた。


東京の街は、明日起こる未曾有の事態を知る由もなく、冷たい雨に打たれながら眠りについている。


だが、桐生の脳内は、すでに明日の法廷での激しい攻防のシミュレーションで、熱く沸騰していた。


モニターには、明日の法廷の座席表と、システムのネットワーク構成図が映し出されている。


勝算は、決して高くない。氷室は優秀な検事であり、機構の防壁は強固だ。


だが、桐生には失うものが何もない。


すべてを失った男の執念がどれほどのものか、明日、氷室と、そしてこの国を支配する機械に見せつけてやる。


(2-4 完)


## 第3章 偽証の法廷

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