変動の檻 ― 35年後、あなたの家は誰のものですか―
ソコニ
第1話「普通の選択」(2026年)
※この物語はフィクションです。
1
三月の末というのに、モデルルームの中だけは五月の陽気だった。
加湿された空気、ほのかなシトラスの香り、天井から降り注ぐLEDの白光。佐藤拓也は妻の綾乃と並んでソファに座り、営業担当の田中という女性が差し出したタブレットの画面を眺めていた。
「こちらが今月のイチ押しになります。Bタイプ、四LDK、五千万円ちょうど。変動金利でご契約いただければ、月々のお支払いは——」
田中の指がタブレットをなぞった。数字が浮かんだ。
月額返済額:138,400円
拓也は思わず隣を見た。綾乃が少し目を見開いて、すぐに微笑んだ。その笑顔の意味を、拓也は長い付き合いで知っていた。これ、いけるんじゃない?
「家賃より安いですね」と拓也は言った。
「そうなんですよ!」田中が身を乗り出した。「今の賃貸が月十五万でしょう? こちらは十三万八千円で、しかも資産になる。三十五年後には完全に自分のものです」
資産になる。
その言葉は不思議な重みを持って拓也の胸に落ちた。生まれてから二十八年、拓也は一度も「資産」というものを持ったことがなかった。預金通帳の数字は増えたり減ったり。株は怖くて手が出せない。NISAは始めたものの、月二万円をオルカンに突っ込むだけで、正直よく仕組みを理解していなかった。
でも、家は違う。家は目に見える。触れる。子供を育てられる。
綾乃のお腹には、もうすぐ四ヶ月になる命がいた。
2
契約の翌日、会社の昼休みに拓也は同期の神崎に打ち明けた。
神崎慶一は拓也とは真逆の男だった。独身主義を公言し、都心の六畳一間に住み、給料のほぼ全額を海外インデックスファンドに突っ込んでいると公言してはばからない。社内では「危ない奴」で通っていた。
「マジで買うの?」神崎は箸を止めた。「五千万の変動金利を、三十五年?」
「うん。月々の返済が安くて——」
「頼むから固定にしろ」神崎は珍しく真剣な声を出した。「変動は罠だ。日銀はもう方向転換した。これから金利は上がる。しかも——5年ルールって、わかってる? 月の支払額は変わらないけど、利息が増えた分は元本に乗っかるんだぞ。払い続けてるのに、残債が減らない。どころか増えることがある」
「みんな変動で買ってるじゃないか。八割って聞いたぞ」
「**だから怖いんだよ。**みんなが選んでるから安心——それが一番危ない」
「神崎、お前、子供いないからそういうこと言えるんだよ」
拓也は穏やかに言った。神崎が傷ついた顔をしたのを、拓也は見なかったふりをした。
「俺には、子供が生まれる。家族を守る場所が必要なんだ。お前みたいに身軽じゃない」
神崎はしばらく黙ってから、「……そっか」と言ってご飯を食べ始めた。
その日の午後、神崎はSNSに短い投稿をした。
変動金利住宅ローンは「今は月々が安い爆弾」です。5年ルールの意味を全員が誤解している。
十七のいいねと、二百三十のリプライが届いた。ほとんどは嘲笑だった。
3
四月の第二土曜日、佐藤拓也は契約書に印鑑を押した。
五千万円、三十五年変動金利、元利均等返済。
ハンコを押す瞬間、なぜか胸の奥に小さな石が落ちたような感覚があった。でもそれは気のせいだ、と拓也はすぐに思った。
田中が笑顔で言った。「おめでとうございます! 素晴らしいお買い物です」
拓也も笑った。綾乃も笑った。
外に出ると、春の陽光が眩しかった。
《拓也が押した印鑑の下、契約書の十七ページ、第四条第三項にはこう書かれていた:「返済額が適用金利に基づく利息を下回る場合、差額は未払利息として計上し、残債元本へ順次組み込むものとする」》
誰もその条項を声に出して読まなかった。
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