第17話 もう付き合ったら?

 表参道のデートから、早いもので二週間が経過していた。


「……はぁ」


 平日の午後三時。オフィスに響くカタカタという打鍵音に紛れさせ、私は小さく溜息をついた。


 デスクのPC画面が暗転した一瞬、そこに映り込んだ自分の顔を見て、思わず指が止まる。


(……前髪、ちょっと伸びてきたな)


 詩織に綺麗に切り揃えてもらった、お気に入りのシースルーバング。それが、目にかかるかかからないかという、絶妙に「そろそろ切りたい」と思う長さに達しつつあった。


 仕事に集中している時は忘れられるのに、Excelの数字を入力し終えた一瞬や、給湯室でコーヒーを淹れている時など、ふとした瞬間にあの表参道の記憶が鮮明に蘇ってしまう。


 お昼休みに、職場のキラキラした同僚たちが「あのリップ、新作出たんだって」とか「週末、どこの美容室行く?」なんて楽しそうに話しているのを、私はデスクでランチパックを齧りながら、ひっそりと聞き流していた。


 普通の女の子なら、ここで「あ、そろそろ美容室の予約しなきゃ」となるのかもしれない。


 しかし、今の私は違う。


(……いやだめだ。私は今、セルフ出禁中なんだから……っ!)


 オフィスの化粧室で鏡を見るたび、私はスマホをポケットの奥深くにねじ込んでいた。


 あの深夜のLINE以来、私と詩織のやり取りは完全にストップしている。


 正確に言えば、詩織からの「ゆっくりでいいから」という言葉を拡大解釈した私が、お店の予約アプリを文字通り『封印』している状態だ。


 会いたい。めちゃくちゃ会いたい。


あの時、カフェのテラス席で触れ合った、詩織の指先の温かさ。

 私だけを真っ直ぐに見つめていた、琥珀色の瞳。

 思い出すだけで、職場のデスクで変な声が出そうになる。慌てて咳払いをして、必死に誤魔化す毎日。


 それだけじゃない。仕事帰りの満員電車の中、一日に何度もお店の予約空き状況をチェックしては、「あ、今週の土曜日空いてる……」と画面を見つめる不審者ムーブを繰り返していた。


 だけど、次にあの鏡の前に座ったら、絶対に「お返事」の話になる。


 元カレに植え付けられた「お前なんかと歩くのは恥ずかしい」という呪いが、まだ胸の奥に残っている今の私じゃ、詩織の真っ直ぐな好意を受け止めきれずに、また変な空回りをして逃げ出すに決まっている。


 仕事でミスをして落ち込んだ時、元カレは「だからお前はだめなんだ」と説教されたけれど、詩織ならきっと「姫奈、毎日お仕事頑張ってて偉いね」って、あの優しい手で髪を撫でてくれるんだろうな──なんて、妄想しては頭を抱える。


「そんなに会いたいなら、さっさと返事して、付き合っちゃえばいいじゃん。見てるこっちがもどかしいんだけど」


 その日の夜。

 仕事帰りに合流したファミレスで、ユリが心底呆れたように、私を睨みつけていた。


「無理だよ! 詩織だよ!?  あんな表参道の動くパワースポットみたいな美少女が、私を本気で好きとか、まだ現実味がなさすぎて脳がバグるんだって!」


「あっちから『本当に好き』ってLINE来たんでしょ? 歌舞伎町のホストだって、そこまで直球のメッセージは、逆に客が冷めるから滅多に打たない。姫奈の勝ち」


 ユリはドリンクバーのコーラをストローでズズッとすすり、さらに言葉を続けた。


「でも、そのセルフ出禁のせいで、向こうは今ごろ『姫奈に完全に嫌われた』って枕を涙で濡らしてる可能性あると思う。カリスマ美容師のプライド、今ごろ粉々なんじゃない?」


「え……詩織が?」


 あの完璧で、いつも余裕そうな笑顔を浮かべている詩織が、私のせいで傷ついている?

 想像しただけで、胸の奥がキュンと、切なく締め付けられた。


 嫌われたわけじゃない。ただ、私が臆病なだけなのに。

 このまま髪が伸び続けたら、私の恋心もどんどんこじれて、取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。

 

「……よし。決めた」


「何よ、急に」


 私はポテトを握りしめ、ユリに向かって宣言した。


「前髪くらい、自分で切る!!」


「はあ!? あんた、カリスマに切ってもらった髪をセルフカットすんの!?」


「だってお店には行けないもん! でも明日も普通に仕事だし、前髪が目に入ると邪魔だもん!」


 それが、恋の病に冒された私の、トチ狂った決意だった。


 詩織に会いたいという禁断症状を、私は最悪の形でこじらせようとしていた。

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