萬屋はらぐろ怪異録

久坂瑞綺

第1話 堺の萬屋(よろずや)”はらぐろ”

堺の朝は早い。


夜明けとともに町が動き出す。


潮の匂い。


魚を捌く包丁の音。


荷車の軋み。


商人たちの怒鳴り声。


船頭たちの掛け声。


異国の言葉。


南蛮人の笑い声。


唐人商人の値切る声。


ありとあらゆる音が混ざり合い、朝靄を押しのけるように町へ広がっていく。


環濠に囲まれた自治都市――堺。


戦国の世が終わりへ向かおうとしている今も、この町だけはどこか別世界だった。


天下人が変わろうが。


大名が滅ぼうが。


戦が起ころうが。


銭は回る。


商いは止まらない。


人が生きる限り、欲もまた消えない。


堺はそんな町だった。


大通りには早くも店が並び始めている。


魚。


米。


酒。


布。


薬。


刀。


南蛮渡来の珍品。


金の匂いに集まった人々が朝から忙しく行き交っていた。


そんな賑わいから少し離れた裏通り。


古びた二階建ての店がある。


暖簾には大きく、


『飯酒屋 はらぐろ』


と書かれていた。


初めて見た者は大抵こう思う。


なぜそんな名前にしたのか、と。


実際、近所の者も知らない。


店主すら説明しない。


だから余計に怪しい。


だが店は繁盛していた。


飯がうまいからだ。


そして何より。


困った時に助けてくれるからだった。


朝の店内。


炊きたての米の匂いが漂う。


「兄ぃ! 仕込み終わった!」


元気な声とともに暖簾が揺れる。


飛び込んできたのは長い黒髪を後ろで束ねた少女だった。


瑞綺。


歳は十八。


看板娘。


……と名乗ってはいるが、どう見ても看板娘には見えない。


腰には刀。


背筋は真っ直ぐ。


目つきは鋭い。


むしろ辻斬りの方が似合う。


「おう」


店奥から小太朗が顔を上げた。


「焼き物は?」


「飛太がやっとる」


炭火の前から不満そうな声が返る。


「やっとる言うな」


札を口に咥えながら串を返している青年。


飛太。


陰陽師である。


本人はその事実を非常に大切にしている。


だが周囲は誰も気にしていない。


「俺は陰陽師だ」


「焼き鳥焼いてるじゃん」


「違う」


「焼いてるじゃん」


「陰陽師だ」


「焼き鳥屋じゃん」


飛太が黙った。


小太朗が吹き出した。


「朝から始まったな」


「兄ぃ、この人面白い」


「お前が悪い」


「何で俺なんだ」


飛太が心底納得いかない顔をする。


そんなやり取りも、店の日常だった。


小太朗は笑いながら米俵を持ち上げる。


三十前後。


日に焼けた顔。


無精髭。


どう見てもただの飯屋の主人。


だが店の隅には一本の大槍が立て掛けられている。


普通の飯屋に槍などない。


そしてそれを誰も不思議に思わない。


堺ではそういうこともある。


この店は飯屋であり。


居酒屋であり。


萬屋だった。


荷運び。


用心棒。


人探し。


修繕。


妖退治。


依頼があれば何でもやる。


それが「はらぐろ」の商いだった。


「今日の依頼は?」


瑞綺が聞く。


「昼から荷運び」


「地味」


「井戸修理」


「もっと地味」


「飯代になる」


「夢がない」


「夢で米は買えん」


「名言っぽく言うな」


そんな時だった。


暖簾が勢いよくめくれた。


「飯ぃぃぃ!!」


店内全員が振り向く。


少女だった。


ぼさぼさの髪。


泥だらけの着物。


草履は片方壊れている。


だが目だけは妙に強い。


野良猫みたいな目だった。


「飯寄越せ!」


「誰?」


瑞綺が聞く。


「知らん!」


少女が答える。


「何だそれ」


「腹減った!」


「知るか!」


「死ぬ!」


「死なん」


「死ぬ!」


小太朗が笑う。


「とりあえず座れ」


少女は涙目で席についた。


そして。


食った。


食う。


食い続ける。


飯三杯。


焼魚二匹。


味噌汁三杯。


串焼き十本。


漬物。


卵焼き。


さらに飯。


飛太が真顔になる。


「店潰れる」


「まだいける」


少女が言う。


「怖ぇよ」


一時間後。


少女は腹を撫でていた。


幸せそうだった。


「生き返った……」


「良かったな」


小太朗が言う。


「で?」


瑞綺が笑顔になる。


「金」


少女が固まる。


沈黙。


さらに沈黙。


「……ない」


「ん?」


「持ってない」


「ん?」


「無銭」


瑞綺の笑顔が消えた。


「兄ぃ」


「うん」


「埋める?」


「駄目」


「じゃあ川」


「駄目」


少女が青くなる。


その瞬間。


店の外から悲鳴が響いた。


「助けてくれぇ!」


空気が変わる。


小太朗の目が細くなる。


戦場帰りの目。


遊びの時間が終わった顔だった。


「何があった」


飛び込んできた商人は真っ青だった。


「船が消える!」


「盗賊か」


「違う!」


男が震えながら叫ぶ。


「水の中から手が出た!」


店内が静かになる。


瑞綺が腕を組む。


飛太は小さく眉を寄せた。


妖。


その言葉が自然と浮かぶ。


戦乱の後にはよく出る。


死者の念。


恨み。


穢れ。


この国は昔から人と妖が近い。


だが今回は妙だった。


「場所は?」


「南の堀だ!」


小太朗は立ち上がる。


「仕事だな」


その瞬間。


後ろから元気な声。


「行く!」


無銭飲食少女だった。


「行かん」


「何で!」


「金払ってない」


「根に持つなぁ!」


瑞綺が笑う。


「じゃあ働け」


「何を」


「囮」


「鬼かお前!」


こうして。


萬屋はらぐろの奇妙な一日が始まった。


そして誰もまだ知らない。


この水妖騒ぎが。


堺全体を巻き込む大きな事件の始まりになることを――。


その頃。


堺の豪商屋敷。


閉ざされた茶室。


老人が一人座っていた。


死人のように青白い顔。


生気のない目。


だが唇だけが笑っている。


目の前には一枚の札。


水妖に貼られていたものと同じ印。


老人は静かに呟いた。


「駒が一つ潰れたか」


茶碗を撫でる。


誰もいないはずの部屋で、影だけが揺れた。


「面白い」


老人の口元が歪む。


「萬屋はらぐろ……か」


茶室の温度が一瞬下がる。


まるで何かが笑ったように。


闇の奥で…


静かに…


確かに…

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