私の作風を知っている方は、短文で細かく刻んでいくスタイルに評価を入れることを意外に思うかもしれません。冗長で過剰で、時にやり過ぎな表現。そういったものは、本作にはまったく存在しないからです。
それとは真逆の、やや足りないほどの短文表現の中で、余白が生まれ、読者に何を委ね、何を委ねていないのかを問う、そういうスタイルです。
果たしてこの結末をどう理解すべきなのか。それ自体、読み手に委ねられています。
「一度、もう一度と」
たったこの一文の中に、どれだけの感情と余白が埋め込まれているのか。それを感じ取るのも読み解くのも、あるいはわかった気になるのもわからないまま終わらせるのも、読み手次第です。
変わるもの、変わらぬもの。その境目は、現代では随分と曖昧になっている気がします。
もしかしたら、当事者である自分自身ですら気づかないほどに、ほんの僅かな綻びが、些細な出来事が、それを変化として意識させ、あるいは変化していないと信じ込ませるような、そんな時代に私たちは生きています。
愛や恋。それとして直截に描くこともまた時代の流れかもしれません。一方で、そこに生まれる歪みや執着、それによってこそ生きる道を見出すことは、賞賛されることではないにしろ、見ないふりをするには、あまりにも我々自身のことであり、そのどうしようもなさでもあります。
優しさという言葉で包むには凄惨で、とはいえ悲壮と呼ぶには純粋な、そのような輻輳する感情が本作にはあります。
たった三千字に満たない掌編ではあります。
同時に、これだけのことを描いて、三千字しかないということも言えると思います。
今日、今晩、空に見た月が、明日同じかどうかを知る術を、私たちは持ち合わせていません。
それは、明日の自分が何を感じ、何を考えるのかを、その日その時が来るまでわからないからでもあります。
いざその刻限が来た時、「嗚呼、同じだ」と思うか「嗚呼、やはり違うか」と思うか。それを知った時、明日のことを想像した昨日の私はもはや居ないのです。それを寂寞と感じるか、はたまた前進したと感じるか。それは、もっぱら己に内在する自我に依存せざるを得ません。
外的環境、周囲の人間関係、どうしようもない世界の理。そういったものを踏まえてなお、最後に世界をどう認識するかは、自我そのものであり、それ以外にはないのだと。そう感じる作品です。
本作を鬼気迫ると感じるか、日常そう感じていると捉えるか、それもまた読み手次第ということになると感じます。
皆さまは、どう感じますか?
ぜひ意識と自我の地平の先に、その答えを見つけに行って欲しいと思います。
迷った時、悩んだ時、そんな時に、本作は明快な答えではなく、そうであるということそれ自体をどう受け止めるべきか、その道しるべになってくれることでしょう。