プロローグ【後編】

幸いなことに、ノエリアの予告した「明日の騒動」は、今日の俺には関係がなかった。

 少なくとも、演習場を離れて学院購買部へ到着するまでは、そう信じていた。

「いらっしゃい。今日はずいぶん派手にやったそうじゃないか、第七位殿」

「やめてくださいよ、その呼び方」

 購買部の奥から声をかけてきたのは、白い口髭を蓄えた店主だった。

 試合が終わってから、それほど時間は経っていない。

 それなのに俺の勝利は、すでに購買部まで届いているらしい。学院における噂の伝達速度は、風属性魔法を超えている。

「《空白の剣士》だったかな」

「その異名は、今ここで忘れてください」

「学院放送局が正式に使ったと聞いたが」

「本人の許可欄が空白です!」

「なるほど。異名まで空白というわけか」

「うまいことを言った顔をしないでください!」

 店主は愉快そうに笑いながら、棚の下へ手を伸ばした。

 取り出されたのは、小さな黒い箱。

 銀色の文字で、商品名が刻まれている。


 高級チョコレート菓子――『黒い初恋』。


 濃厚なカカオを使いながら、口の中では淡雪のように溶ける。王都で評判の一品で、値段のほうも学生の財布へ初恋以上の痛手を与えてくる。

 だが、今日はいい。

 俺は勝った……脚の明日の健康を多少犠牲にして勝った。

 この程度の贅沢は、許されるべきだ。

「いつものように、目立たない包みで頼みます」

「君も大変だな。甘いものが好きなくらい、堂々としていればいいだろうに」

「第七位が、こんな名前の菓子を抱えて寮へ帰る姿を想像してください」

「むしろ人気が出そうだが」

「俺が求めていない方向の人気です」

 店主は黒い箱を無地の紙で包み、さらに茶色い袋へ入れてくれた。


 よし、完璧だ。


 学院序列第七位の威厳は剣で守れる。

 甘党の秘密は、包装紙で守るしかない。

「毎度あり。また勝ったら買いに来るといい」

「毎回これを食べられるなら、試合も少しは悪くないですね」

「次は序列第三位に挑むのか?」

「それは試合の褒美より先に、生命保険を用意してください」

 紙袋を制服の内側へ隠し、俺は購買部を後にした。

 春の夕日が、学院の白い建物を橙色へ染めている。

 授業を終えた生徒たちが、広場や回廊を行き交っていた。その傍らには、さまざまな契約存在がいる。

 小鳥ほどの精霊を肩へ乗せた生徒。

 小型の獣と追いかけっこをする新入生。

 人型の契約存在と並び、同じ教本を覗き込んで歩く上級生。

 この学院で学ぶのは、人間だけではない。

 正式に授業を履修するのは契約者側でも、訓練と生活の大半は契約存在と共にある。

 そして、その中で俺だけが、契約存在を一度も公にしていなかった。


 正確には、できない。


 俺にだって、一応は夢がある。

 学院を卒業し、召喚士資格を取る。

 それから故郷へ戻り、父さんや兄さんと一緒に街道や村を守る。休日には剣を振り、母さんの菓子を食べる。

 俺が望んでいるのは、その程度の穏やかな将来だった。

 世界を救いたいわけでもなければ、王国最強になりたいわけでもない。


 だからこそ、俺の部屋にいる少女の存在は知られてはならなかった。


 あいつが何者なのか、俺にもすべて分かっているわけではない。

 ただ一つ確かなのは、公になれば俺の将来設計など紙屑のように吹き飛ぶということだ。

 学院だけでは済まない。

 王家も、神殿も、場合によっては他国まで動く。

 国際問題という言葉が、冗談ではなくなる。

 だから隠す……あいつのためにも。

 俺自身の平穏のためにも。

 十傑寮へ足を踏み入れる。

 一般生徒の寮とは異なり、十傑には高位契約存在との共同生活を想定した広い個室が与えられている。

 表向き、俺はその部屋を一人で使っている。

 実際には、俺の使用面積のほうが狭い。


 階段を上がり、自室の前まで来たところで、寮の結界がわずかに揺れた。


 淡い光が扉の表面を走り、すぐに消える。いつもの反応だ。

 俺が部屋へ出入りするたび、この結界は「中に何かいる気がする」「しかし登録上はいない」と迷っている。

 頑張れ。深く考えるな。仕事を放棄しろ。

 お前が真相へ到達すると、俺の学院生活が終わる。

「ただいま」

 鍵を開け、扉を押す。

 返事はなかった。

 静かな室内。

 窓から差し込む夕日。

 整えておいたはずの机には、開かれたままの本が数冊。長椅子には、俺の上着が無造作に放り出されている。

 朝、部屋を出たとき、上着はそこになかった。

 机の本も閉じていた。

 犯人については、考えるまでもない。


「エルシア?」


 奥の寝室を覗き込む。

 いた。

 藍色の長い髪を枕の上へ広げ、俺のベッドで仰向けになっている。

 白と藍を基調とした神秘的な衣装。身体を彩る金の装飾。頭には、帯状のリボン。

 瞳を閉じてさえいれば、神殿の壁画から抜け出してきた聖女か、物語に語られる女神にしか見えない。

 瞳を閉じてさえいれば、である。

「……何をしてるんだ?」

 声をかけると、エルシアは片目だけを開いた。

 淡い光を宿した瞳。

 その中心には、人間には存在しない十字の形が浮かんでいる。

『見れば分かるでしょ〜?』

「見ても分からないから聞いてるんだ」

『寝転んでる』

「それは分かる」

『じゃあ、質問する必要はなかったね〜』

「俺のベッドで何をしてるのかと聞いてるんだ!」

『寝転んでる』

 会話が一周した。

 彼女との意思疎通が、これほど困難だと誰が予想しただろう。

 こいつの性格の問題である。


 エルシアが、ベッドの上でゆっくりと伸びをした。

 片脚が持ち上がる。

 ただでさえ短いスカートの裾が、重力という自然法則へ従い、非常に危険な方向へ移動した。

「脚! 閉じろ!」

 俺は反射的に顔をそらした。

『どうしたの?』

「どうしたも何もあるか! その格好で脚を上げるな!」

『レオンしかいないよ〜?』

「俺がいるから言ってるんだよ!」

『僕は気にしないけど』

「俺が気にする!」

『見たいなら、見てもいいよ?』

「見るか!」

『見たくないの?』

「そういう二択を俺に突きつけるな!」

 正直に答えかけた自分を、全力で殴りたい。

 これは倫理と理性の問題である。

 断じて、まともに見られないほど照れているという話ではないからな!?

『顔、赤いね〜』

「試合後だからだ!」

『むふふ〜』

 笑った。

 こいつ、絶対に分かっていてやっている。

「いいから、その脚を下ろせ」

『仕方ないな〜』

 衣擦れの音がした。


 しばらく待ってから、慎重に視線を戻す。

 エルシアは横向きに寝転がり、頬杖をついてこちらを眺めていた。

 スカートも、今度は一応安全な位置へ戻っている。

 助かった。俺の理性と純情と今後の健全な学院生活は、辛うじて守られた!

『それで?』

「それで、とは?」

『服の中に隠してるもの』

 エルシアの視線が、俺の制服の胸元へ向いている。

 嫌な予感がした。

「何も隠してない」

『甘い匂いがするけど』

 神人の感覚を、そんなところで活用するな。

「試合後だからな。勝利の香りだ」

『カカオの匂いがする勝利なんだね〜』

 完全に見抜かれている。

『見せて』

「嫌だ」

『見せて〜』

「嫌だ!」

 エルシアが起き上がった。

 長い藍色の髪が、肩から流れ落ちる。

 まずい。あいつが動いた。

 俺は反射的に胸元を押さえ、半歩後ろへ下がった。

「待て。これは今日の公開査定を生き抜いた俺への正当な報酬だ!」

『僕も心配してたよ?』

「だからといって分配を要求する権利は発生しない」

『契約者が戦ったら、契約存在にも報酬があっていいんじゃない?』

「学院規則にそんなものはない」

『僕たちの契約は、学院の規則で決まったものじゃないけどね〜』

 痛いところを突いてくる。

 エルシアがベッドから降りた。

 膝上まで届く白い長靴下に包まれた脚が床へ着く。

 ゆっくりと近づいてくる姿は、美しく、神秘的で――。

 目的が俺の菓子でなければ、もう少し感動できたかもしれない。

「来るな」

『どうして?』

「お前の目が獲物を狙っている」

『レオンを?』

「菓子をだ! そこで意味深に首を傾げるな!」

 後ろへ下がる。

 エルシアが一歩近づく。

 さらに下がる。

 また近づく。

 やがて俺の背中が壁へ当たった。


 しまった。


 追い詰められた。

 本日二度目である。

 一度目の相手は巨大な戦猪。

 二度目の相手は絶世の美少女。

 世間一般では、後者のほうが幸運に見えるかもしれない。

 断言しよう……どちらも目が本気なら怖い。

「エルシア。話し合おう」

『うん。半分こだね〜』

「まだ何も話し合ってない!」

 エルシアが腕を伸ばす。

 俺は紙袋を守ろうと身体を捻った。

 その瞬間、右脚へ鋭い痛みが走った。

「っ……!」

 力が抜ける。

 壁へ手をついて、どうにか倒れるのを堪えた。

 エルシアの手が止まる。

 先ほどまでの気だるい笑みが、すっと消えた。


『レオン』

「なんでもない」

『嘘だね』

 声から、語尾の緩さが消えていた。

 十字の瞳が、まっすぐ俺の脚へ向けられる。

『《瞬脈》を使った?』

「一回だけだ」

『それだけじゃないね。魔力の流れが偏ってる』

「分かるのか?」

『君の痛みは、少しだけ僕にも届くから』

 エルシアが俺の前へ膝をついた。

 細い指が、制服越しに右脚へ触れる。

 淡い光が滲みかける。

『《瞬脈》で乱れた魔力だけでも整えようか? 痛みも少しは和らぐよ』

「いや」

 俺は首を振った。

「大した怪我じゃない。冷やして休めばいい」

『でも』

「反動を全部軽くしてもらっていたら、自分の限界が分からなくなる。どこまでなら動けるのか、身体に覚えさせておきたい」

 無茶をした結果、どこがどれだけ傷むのか。

 何回までなら動けるのか。

 それを知らないままでは、次の戦いで判断を誤る。

 エルシアがいれば助けてもらえる。

 だからといって、最初から助けてもらう前提で無理をするわけにはいかない。

「冷やすだけで十分だ」

『……頑固だね』

「よく言われる」

『誰に?』

「お前に」

『僕はそんなこと言ったかな〜?』

「今言った!」

 エルシアの声へ、少しだけいつもの緩さが戻った。

 それでも完全には納得していないらしい。

『じゃあ、手当てだけ』

「それなら頼む」

『お菓子は?』

「話を戻すな!」


 結局、俺は長椅子へ座らされ、エルシアが持ってきた冷却布を脚へ巻くことになった。

 どこに何が置いてあるのか、俺以上に把握している。

 俺の部屋なのだがねぇ。

 手当てを終えたエルシアは、そのまま俺の隣へ腰を下ろした。

 肩が軽く触れる。

 本人には、距離が近いという意識すらないらしい。

 藍色の髪から、かすかに甘い香りがした。

 共同生活を始めてから、これくらいの距離には何度もなっている。

 慣れている。そのはずなのに、妙に落ち着かない。

『それで、勝ったんだね』

「ああ。ぎりぎりだけどな」

『学院放送で聞いてたよ〜』

「聞けるのか、ここで?」

『共用受信盤につないだら聞けたよ~』

「いつの間にそんな機能を覚えたんだよ!」

『レオンが知らないだけで、僕は色々できるよ〜』

 その色々を、もう少し生活の片づけに活用してほしいんですがね!

『《空白の剣士》、格好よかったよ』

「それを言うな!」

『実況の子、楽しそうだったね〜』

「俺は試合後に初めて知ったんだぞ、その異名」

『廊下を通った子たちも話してたよ。王女様にも褒められたんだって?』

「噂が本人より先に部屋へ帰ってるんだが」

『嬉しかった?』

「ありがたかったけど、周囲の視線が怖かった」

 アウレリア殿下と話しているだけで、なぜこちらへ殺気が飛んでくるのか。

 学院の男子諸君には、王女は眺めるものであって会話をするものではない、という暗黙の了解でもあるのだろうか。


『明日、帝国から皇女様も来るんだってね』

 エルシアが不意に言った。

 部屋にこもってるくせに、こいつの情報網の広さには正直驚く。

「そうらしいな」

『綺麗な子かな〜?』

「知らない」

『気にならない?』

「ならない」

『本当に?』

「どうして俺が気にする必要がある。帝国皇女だぞ。俺みたいな辺境騎士家の次男とは、住む世界が違う」

『同じ学院に来るんだから、明日からは同じ場所にいるけどね〜』

「言葉の綾だ」

 エルシアは、冷却布の端を指先で整えた。

『僕は、会うことになる気がするな』

「縁起でもない予想を増やすな」

『予言じゃないよ。勘』

「お前の勘は、普通の人間の予言より当たりそうで嫌なんだよ!」

 エルシアの視線が、また俺の制服の胸元へ落ちた。

『それより、そろそろ出してよ』

「何を?」

『黒い初恋』

 名前まで完全に知られている。

「俺の私生活に対する監視能力だけ高すぎないか!?」

『同居人だからね〜』

「同居人なら、俺の分を残すという発想も持て」

『まだ食べてないよ?』

 エルシアが不思議そうに首を傾げた。

 そうだった。

 今回は、まだ取られていない。

「なら、このまま――」

『半分こしようと思って、待ってたんだよ』

 伸ばされた手が、俺の制服の胸元へ触れる。

 顔が近い。

 十字の瞳が、すぐ目の前にある。

「エ、エルシア。自分で出す。だから少し離れろ」

『どうして?』

「色々と近い!」

『僕は気にしないよ〜』

「だから俺が気にするんだ!」

 慌てて紙袋を取り出す。

 エルシアが満足そうに笑った。

 絶対に、菓子を取るだけならもっと簡単にできた。

『むふふ〜』

「その笑い方をした時点で、自白してるからな」

 二人で箱を開ける。

 中には、小さな黒いチョコレートが六つ、整然と並んでいた。

 エルシアの目が輝く。

 神秘的な十字の瞳が、王都の菓子一つでここまで分かりやすく輝いてよいのだろうか。

「三つずつだ」

『四つと二つ』

「なぜお前が多い」

『心配料』

「試合は放送で聞いてただけだろ?」

『見てなくても心配はできるよ』

 それを言われると弱い。

 エルシアは、こちらを見ないまま一つ摘まんだ。

 口へ運び、ゆっくりと味わう。

『美味しいね〜』

「ああ」

 俺も一つ食べる。

 苦みの後から、柔らかな甘さが広がった。

 高かった。だが、その価値はある。


 しばらく、二人とも黙って菓子を食べた。

 夕日の色が少しずつ薄れていく。

 肩が触れたまま、エルシアは離れようとしなかった。

「無事に帰ってきてよかった」

 小さな声だった。

 聞き間違いかと思うほど。

 横を見る。

 エルシアは、残ったチョコレートだけを見つめている。

「心配してたのか?」

『少しだけね〜』

「そうか」

『ほんの少し』

「分かった」

『ほとんど心配してないよ』

「そこまで否定しなくていいだろ」

 こいつは、強い感情ほど小さく言う。

 それを指摘すれば、また笑って誤魔化す。

 だから俺も、それ以上は何も言わなかった。

 エルシアが最後の一つへ手を伸ばした。

 俺も同時に手を伸ばす。

 二人の指先が触れた。

「これは俺のだ」

『心配料』

「もう三つ食べただろ!」

『追加分だね〜』

「心配料を勝手に増額するな!」

 結局、最後の一つは半分に割った。


 こうして俺の春季公開査定は終わった。


 試合に勝ち、脚を痛め、勝手な異名をつけられ、高級菓子の半分以上を失った。

 損得だけを数えるなら、勝利と言ってよいのか微妙なところである。

 それでも。

 いつもの部屋で、いつものようにエルシアとくだらない言い争いをして、一日を終える。

 俺が守りたい平穏とは、きっとこういうものなのだ。



 だから翌朝も、俺は何の心配もせず学院へ向かった。

 入学式が始まり、壇上へ立った帝国皇女を見たときも。

 深紅の髪を揺らす、目を引くほど美しい少女だった。

 凜とした姿勢。

 黄金色の瞳。

 帝国軍装を思わせる、黒と赤の学院制服。

 その隣には、銀髪の戦乙女が静かに控えている。

 なるほど。

 エルシアの言ったとおり、面白そうな人物ではあった。

 だが、やはり俺とは関係ない。

 帝国の皇女。

 学院序列第七位とはいえ、辺境騎士家の次男にすぎない俺。

 普通に考えれば、会話をする機会すらないはずだ。

 その認識が間違っていたと知ったのは、入学式が終わった直後だった。

 大講堂を出ようとした俺の背中へ、よく通る声が投げかけられる。


「待ちなさい、第七位」


 周囲の生徒たちが一斉に振り返った。

 嫌な予感がした。

 ゆっくり振り向く。

 そこには、先ほど壇上へ立っていた帝国皇女がいた。

 黄金色の瞳が、まっすぐ俺を捉えている。

「レオン・アルディス」

 なぜ名前まで知っている。

 俺が口を開くより先に、彼女は手袋をはめた右手を突きつけた。


「私と戦いなさい」


 大講堂前の回廊が、静まり返った。

 俺は一度、目を閉じる。

 昨日のエルシアの言葉が、頭の中で蘇った。


 ――僕は、会うことになる気がするな。


 俺には関係ない。

 そう言った。

 断言した。

 訂正しよう。


 関係しかなかった!!

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