公開すれば助かる
一名を保存します。
その一文の下で、灯はクリックした。
画面が白くなった。
通話が切れた。
編集部の空調が止まり、雨音だけが近づいた。
灯は、しばらく動けなかった。
やがて管理画面が戻った。
下書きは消えていた。記事一覧には、新しい公開記事が一本増えている。
タイトルは変わっていた。
「雨の日、白い傘の女に呼ばれてはいけない」
本文は、灯が直した通りだった。駅名も時刻もない。女は落ちない。誰かの声に気づいて、黄色い線の内側へ戻る。ただの都市伝説としては、少し弱い。怪談としては、締まりが悪い。
でも、それでよかった。
灯は椅子の背に体を預け、スマホを見た。凪からの着信が五件。メッセージが三件。
「通話切れました」
「今、記事が見えます」
「灯さん、これ、前からありました?」
灯は眉を寄せた。
すぐに返信しようとして、手が止まった。
凪から、もう一件届いた。
「検索したら、五年前の記事として出ます」
灯は夜目録の公開ページを開いた。
そこには確かに、今公開したはずの記事があった。
公開日、五年前の六月十三日。
著者、夜目録編集部。
コメント、二百三十一件。
灯は画面をスクロールした。
コメント欄には、古い日付の閲覧者が何人も書き込んでいる。
「これ有名なやつですよね」
「白い傘の女、うちの地元にもある」
「東線の話だと思ってた」
「昔、これ見てホームの内側に戻った人がいたって聞いた」
灯の指が冷えた。
今書いた文章が、五年前から存在している。
そんなことはない。
あるはずがない。
けれど検索結果にも、SNSにも、まとめサイトにも、「白い傘の女」はあった。数年前からある都市伝説として扱われていた。夜目録の記事が引用され、改変され、誰かの体験談に混ざっている。
その中心に、灯がさっき作った一文があった。
黄色い線の内側へ戻る。
スマホが震えた。
凪からではなかった。
見知らぬアカウントから、夜目録の問い合わせフォームに届いた通知だった。
件名。
「助かりました」
本文は短かった。
今日、白い傘を持って東線に乗りました。
葦原町の八番ホームで、誰かに名前を呼ばれた気がしました。
でも、昔読んだ怪談を思い出して、黄色い線の内側に戻りました。
快速が入ってきたとき、背中のすぐ後ろを、誰かの手が通りました。
本当にありがとうございました。
灯は、画面を見つめたまま動けなかった。
今日。
まだ、今日ではない。
問題の快速は、明日の二十一時十七分のはずだった。
けれど問い合わせの送信時刻は、今夜の二十三時五十九分だった。
本文の日付表示は、五年前だった。
頭の中で、時刻だけがばらばらに鳴っていた。
会社の電話が鳴った。
深夜の編集部で、固定電話の音はひどく古く聞こえた。灯はびくりとして受話器を見た。鳴るはずがない。夜目録の問い合わせはメールだけで受けている。代表番号も営業時間外は留守電に落ちる。
三回目の呼び出しで、灯は受話器を取った。
「夜目録編集部です」
自分の声が、仕事用の声になっていた。
無音。
それから、かすかな駅の放送。
雨に濡れたホームで聞こえる、遠いアナウンス。
「まもなく、八番線に、快速」
灯の喉が詰まった。
「下がって」
受話器に向かって、思わず言った。
「黄色い線の内側に、下がってください」
返事はない。
代わりに、女の息が聞こえた。
近くで、誰かが小さく笑った。
電車の進入音が、受話器の奥で大きくなる。
灯は叫んだ。
「下がって!」
通話が切れた。
その瞬間、公開記事のコメントが一件増えた。
日付は五年前。
本文は一行。
「呼んでくれて、ありがとう」
灯は椅子から立ち上がった。
足が震えていた。けれど、倒れなかった。スマホを取り、凪に電話をかける。今度は一回でつながった。
「灯さん、記事、見ました」
凪の声は震えていた。
「五年前のログが出ています。でも、サーバーには今作られた形跡がある。両方あります。矛盾してるのに、どっちも正しい」
「問い合わせが来た」
「誰からですか」
「白い傘の人」
凪が息をのむ音がした。
「助かったって」
灯はタイトル欄に目を戻した。
公開記事のアクセス数が、じわじわ増えている。深夜の怪談記事にしては速すぎる。SNSで誰かが拾ったわけではない。検索からでもない。アクセス元は、管理画面上では空欄だった。
読まれている。
今ではないどこかの時間で。
「凪ちゃん」
「はい」
「削除済みって、投稿者名じゃないよね」
「たぶん、違います」
「じゃあ何」
凪は答えなかった。
灯は記事一覧に戻った。
新着記事の一番上に、公開済みの「白い傘の女」がある。
その下に、さっきまでなかった下書きが一本増えていた。
作成日時は、二十三時四十七分。
著者名は、削除済み。
タイトルは、
「明日、閉じたエレベーターの中で、配達員が返事をする」
灯は、息を吐けなかった。
凪が通話の向こうで、ほとんど聞こえない声で言った。
「灯さん。ブラウザ、閉じないでください」
管理画面の右下に、小さな通知が出た。
記事の公開を確認しました。
一名を保存しました。
次の未公開を受信しました。
その下に、もう一行あった。
担当編集者を登録しました。
登録名、真瀬灯。
灯は反射的に設定画面を開いた。夜目録の権限管理は、社員番号と社用アドレスで紐づいている。そこに担当編集者などという項目はない。少なくとも、灯が知っている管理画面には存在しなかった。
けれど通知は、消えなかった。
まるで、会社ではなく、画面そのものに雇われたみたいだった。
灯は、雨の窓を見た。
自分がどこにいるのか、少しだけわからなくなった。
編集部の壁時計は、いつの間にか二十三時四十七分を指していた。
さっき、二十三時五十九分を過ぎたはずだった。
灯は時計から目をそらした。
雨音だけが、まだ同じ速度で窓を叩いていた。
怪談は、ほんの少し具体的な方が怖い。
でも、具体的すぎる怪談は公開できない。
灯はその境目を毎晩見ていた。
その夜から、境目の向こう側が、灯を見返すようになった。
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