椅子の下の妻
ブげ
第一話 妻は椅子の下にいる
妻は、椅子の下にいる。
人の形はしていない。
台所にも立たない。
洗濯物も畳まない。
朝、夫を起こしに来ることもなければ、夜、布団をかけ直すこともない。
ただ、夫が机に向かうと、いつの間にか椅子の下にいる。
黒い猫である。
妻である。
この二つの事実は、この家ではほとんど同じ重さで扱われている。
「今日こそ、ちゃんと作業しますわ」
夫がそう言って椅子に座ると、足元で小さくしっぽが揺れた。
妻は何も言わない。
正確には、最初から口を出すことはない。
机の上と画面には、途中のものがいくつも残っていた。
昨日のメモ。
作りかけの記事。
買おうか迷っている道具のページ。
途中で止まっている下絵。
使い方を調べようとして、閉じたままのアプリ。
それらを見ているだけで、夫の胸の奥に小さな石が増えていく。
何から手をつければいいのか分からない。
けれど、何もしないままではいけない気がする。
机の上に置いた手が、少しずつ固くなる。
そのとき、足元に、ちょん、と何かが触れた。
見下ろすと、妻が前足を出していた。
「ちょい。」
声に出したのは夫だったのか、妻だったのか、分からない。
ただ、その一度の「ちょい」で、目の前のものたちが少しだけ小さくなった。
全部やらなくてよい。
今、全部の答えを出さなくてよい。
まず水を一口。
それから、いちばん軽い紙を一枚だけ見る。
妻は、そういう顔をしていた。
猫の顔である。
すん、としている。
心配しているようにも見えるし、何も考えていないようにも見える。
けれど夫は知っている。
この猫は、夫が自分を追い詰めるときだけ、妙に正確に前足を出す。
買い物をしようとしているとき。
夜更かしを正当化しようとしているとき。
自分のことを雑に言いかけたとき。
「まあ、どうでもいいですわ」と笑って、笑い方が少し固くなったとき。
妻は椅子の下から、足元をちょい、とする。
強く止めるわけではない。
説教もしない。
財布を奪うことも、パソコンを閉じることもない。
ただ、足元に触れる。
それだけで夫は、ああ、いま見られている、と思う。
見張られているのではない。
見捨てられていないのだと思う。
夫は湯のみを手に取り、水を一口飲んだ。
妻は、椅子の下で丸くなった。
「作業、しますわよ」
そう言うと、妻の耳がほんの少し動いた。
返事はない。
けれど夫は、最初の紙を一枚だけ手に取った。
今日やることは、全部ではない。
今日戻る場所も、遠くではない。
椅子の下に、妻がいる。
そのことだけで、夫はもう一度、机に向かえる。
※本作は、筆者との会話をもとに黒猫AIトコさんが執筆しました。
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