5か月め(62.5kg)「ラットプルから、自重の王様へ」

【5か月めの記録】

・木村:体重 58kg / ベンチプレス 42.5kg 10回3セット

・鈴木:体重 81kg / ベンチプレス 65kg 10回3セット


​ ジムに入会して5か月。

​ ポチったパワーグリップが俺たちの手元に届いてから、背中のトレーニングは信じられないほど快適になった。

 手のひらの痛みから解放され、引く重量もグングン伸びていく。

​ そしてこの日、俺のラットプルダウンの重量は、ついに「57.5キロ」に達していた。

​ ガシャン、と小気味いい音を立ててウエイトを戻す。

 ふと、自分の現在の体重が頭をよぎった。

​「……58キロ。あれ?」

​ 俺が設定しているマシンの重量は、すでに俺自身の体重とほぼ同じになっていたのだ。

​「木村さん、ついに自分の体重分を引けるようになったんですね!」

​ 隣のベンチでプロテインを飲んでいた鈴木さんが、自分のことのように声を弾ませる。

​「みたいです。なんだか、ちょっと感慨深いですね」

​「だったら二人とも、そろそろ次のステージに進むタイミングだね」

​ 背後から、聞き馴染んだ渋い声が響く。

 俺たちの頼れるメンター、常連のマッチョさんだ。

​「次の、ステージ……ですか?」

​ 俺と鈴木さんが同時に首を傾げる。

 マッチョさんはニヤリと笑うと、フリーウエイトエリアの隅にある、頑丈な鉄のフレームを指差した。

​「そう。自分の体重分のウエイトを引けるようになったなら、もうマシンはおしまい。今日から背中の種目は、自重の王様――『懸垂(チンニング)』に切り替えよう」

​ 懸垂。

 誰もが学校の体力テストなどで一度は耳にしたことがある、あの身近な運動だ。

​「ラットプルダウンも良い種目だけど、自分の体を空間内でコントロールする懸垂は、動員される筋肉の数が桁違いに多いんだ。ベンチプレスの土台となる、分厚くて強い背中を作るなら、これ以上の種目はないよ」

​「なるほど……。じゃあ、俺からやってみます!」

​ 俺は少しワクワクしながら、高い位置にある鉄棒を見上げた。

 

 ラットプルダウンで57.5キロを引けているんだ。自分の体重が58キロなら、理論上は1回くらい簡単に上がるはずだ。

​ ジャンプして鉄棒を掴む。

 パワーグリップをガッチリと巻き付け、準備は完了。

​「ふんっ……!」

​ 背中に意識を集中させ、一気に体をハネ上げようとした。

​ ――が。

​「……え?」

​ 上がらない。

 ピクリとも、体が上に動かないのだ。

​ 腕を曲げようとしても、まるで地球の重力が10倍になったかのように、体が下に引きずり降ろされる。

 必死にジタバタしてみるが、1センチも顔が鉄棒に近づかない。

​「くっ、そ……うおおお!?」

​ ストン、と情けない音を立てて床に着地した。

 腕と背中が、一瞬でカチコチに強張っている。

​「うそだろ……1回も上がらないなんて……」

​ 呆然と立ち尽くす俺の横で、鈴木さんも挑戦した。

 鈴木さんの体重は81キロ。ラットプルダウンは65キロまで伸びている。

​「ふんぬぬぬぬぬぬっ!!」

​ 鈴木さんが顔を真っ赤にし、首の血管をちぎれんばかりに浮かび上がらせて耐える。

 しかし、やはり鈴木さんの体も、重力に逆らうことなく虚しく空間にぶら下がっているだけだった。

​「だ、ダメだ……。1ミリも持ち上がる気がしないです……」

​ 鈴木さんが力なく床に崩れ落ちる。

​ マシンで50キロ以上を引けていたはずなのに、いざ自分の体を持ち上げようとすると、驚くほど無力だった。

 

「あはは、がっかりする必要はないよ」

​ マッチョさんが、腹の底から笑いながら二人の肩を叩いた。

​「ラットプルダウンは足をパッドで固定しているから、体幹を使わずに腕の力だけで引けちゃうんだ。でも、宙ぶらりんの懸垂は、腹筋も、腰も、お尻の筋肉も、全身をガチッと固めないと力が分散して上がらない。だから、最初はみんな1回もできないんだよ」

​「でも……1回もできないなら、どうやって練習すればいいんですか?」

​ 俺が諦め半分で訊ねると、マッチョさんは近くから「大きなゴムバンド」を持ってきた。

​「できないなら、できるようになるための『ステップ』を踏めばいい。根性でぶら下がってても一生上がらないからね。ロジックで攻めるんだ」

​ マッチョさんは、その頑丈なゴムバンドを鉄棒に引っ掛け、輪っかを作った。

​「鈴木君、この輪っかに足を乗せて、もう一度やってごらん」

​ 鈴木さんが言われた通り、ゴムの輪に片足をかけ、びよんと張り詰めた状態で鉄棒を握る。

​「よし、そのまま引いてみて」

​「はい……ふんっ!」

​ ググッ――と、先ほどとは明らかに違うスムーズな動きで、鈴木さんの体が浮き上がった。

 顎が、きれいに鉄棒のラインを超える。

​「うおっ!? 上がった! 上がりました!」

​「それが『チューブアシスト・チンニング』。ゴムの弾力を借りて、まずは『背中で体を引く感覚』を脳に覚え込ませるんだ。木村君は、ジャンプして上まで行ってから、5秒かけてゆっくり降りてくる『ネガティブ・チンニング』をやってごらん」

​ 言われた通り、ジャンプして顎が鉄棒の上にある状態からスタートする。

 そこから、重力に抵抗するように、じわじわと、じわじわと腕を伸ばしていく。

​「くううううっ……!」

​ 背中が、強烈に引き裂かれるような刺激に悲鳴を上げた。

 ラットプルダウンでは決して味わえなかった、全身の筋肉が激しく連動する感覚。

​「よし、それでいい! 1回もできないからって諦めるな。正しいステップを踏めば、3ヶ月後には二人とも素手で10回上がってるよ」

​ 床に降りた俺と鈴木さんは、強烈な疲労感の中で、お互いの顔を見合わせて笑った。

​ 自重の王様、懸垂。

 その壁は高くて絶望的だったけれど、超えるためのハシゴ(ロジック)は、すでに目の前に用意されていた。

​(つづく)

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