第14話 父親がようやく気付く

アシュフォード侯爵様は、完璧な当主でした。


領地の経営は盤石で、使用人からの信頼も厚く、社交界での立ち位置も安定していて、再婚後もお母様を丁寧に迎え入れてくれていました。わたしに対しても、最初から温かく接してくれていました。


ただ——娘のことは、見えていなかったようでした。


わたしがそれに気づいたのは、ある夕食のときのことでした。


「エレノア、最近は学園の調子はどうだ」


「問題なく過ごしております」


「そうか。良かった」


それで終わりでした。


侯爵様は満足そうに頷いて、次の話題に移りました。


エレノア様は「問題なく」と言いましたけれど、問題だらけでした。噂が立っていて、自己評価が低すぎて、婚約者に婚約破棄を勧めようとして、コートを渡そうとしていました。


でも侯爵様には、そのどれも届いていませんでした。


エレノア様が「問題なく」と言うから、問題ないと思っていたんです。


「問題なく」というのが、エレノア様にとってどれだけ広い意味を持っているか——知らなかったんです。


お母様は気づいていました。わたしも気づいていました。


でも侯爵様だけは、ずっと気づいていませんでした。


---


転機が来たのは、ある夜のことでした。


侯爵様が書斎にいるところへ、わたしはノックしました。


勇気がいりました。お父様でもない方の書斎を勝手に訪ねるのは、失礼かもしれないとも思いました。


でも、誰かが言わないといけないと思いました。


「入りなさい」


「失礼します」


書斎は広くて、本棚が壁一面にありました。侯爵様は書類から顔を上げて、わたしを見ました。


「リリア嬢か。どうした」


「エレノア様のことで、お話があって参りました」


侯爵様の表情が、少し変わりました。


「座りなさい」


促されて、向かいの椅子に座りました。深呼吸をして、話し始めました。


屋根裏部屋への引っ越しのこと。厨房での料理の練習のこと。就職活動リストのこと。コートのこと。婚約者を渡そうとしたこと。侍女の方から聞いた、幼少期のこと。


全部、順番に、丁寧に話しました。


侯爵様は途中で一度も口を挟みませんでした。ただ、聞いていました。


話し終わったとき、書斎に静寂が落ちました。


長い沈黙でした。


「……知らなかった」


侯爵様が、静かに言いました。


そして、ゆっくりと、書類を脇に置きました。


「……わたしは、あの子が大丈夫だと思っていた」


「大丈夫ではなかったと思います」


「なぜ気づかなかったんだろう」


わたしはしばらく考えました。


「エレノア様が、大丈夫に見えるように生きてきたからだと思います」


侯爵様がわたしを見ました。


「大丈夫に見えるように」


「弱音を言わないから、弱音がないように見える。問題がないと言うから、問題がないように見える。でも——言えないだけなんだと思います。言う練習が、できていないから」


侯爵様が、少し目を伏せました。


「……そうなった理由が、わたしにはわかる気がする」


「え?」


「エレノアの母親が、死んだのは——あの子が九歳のときでした」


わたしは、少し息を呑みました。


知らなかったです。なんとなく、お母様を亡くしているのは知っていましたけれど——九歳、という具体的な言葉が、胸に落ちてきました。


「あの子は——変わったんです。母親が死んでから」


侯爵様の声が、少し低くなりました。


「泣かなくなりました。弱音を言わなくなりました。わたしの前では、いつも凛としていた。わたしはそれを、強くなったと思っていた」


「……」


「でも、違ったんでしょう。わたしを心配させまいとしていただけだった。母親がいなくなった分まで、一人で抱えようとしていたんだと思います。九歳の子どもが」


わたしは、言葉が出てきませんでした。


九歳から。


ずっと、そうしてきたんです。


父親を悲しませないように。心配させないように。泣かずに、弱音を言わずに、大丈夫な顔をして——それが、この人の「普通」になっていたんです。


「それなのに」


侯爵様が、少し遠くを見るような目をしました。


「わたしは再婚した。あの子に何も言わないまま。あの子の気持ちを、ちゃんと聞かないまま」


「……エレノア様は、居場所がなくなったと思っているのかもしれません」


「そうだろうな」


侯爵様が静かに頷きました。


「母親の代わりに気を張ってきた家に、新しい母親が来た。自分がいなくても、もう誰も困らないと——そう思ったのかもしれない」


書斎が、しんと静まり返りました。


そうか、とわたしは思いました。


そういうことだったんです。


屋根裏部屋への引っ越しも、就職活動リストも、服を渡そうとしたことも、婚約者を渡そうとしたことも——全部、そこから来ていたんです。


居場所がなくなったと思った人が、それでも誰かの役に立とうとして、先にいなくなる準備をして——そうやって生きてきたんです。


「侯爵様」


「なんだ」


「エレノア様に、謝っていただけますか」


「……どう謝ればいいんだ」


「正直に、知らなかったことを謝ってください。気づかなかったことを。そして——ここにいていい、ということを、ただそれだけ伝えてください」


侯爵様がわたしをじっと見ました。


「リリア嬢は、十六歳だったか」


「はい」


「……娘を持てたことを、嬉しく思う」


そう言ったとき、侯爵様の表情が少しだけ、柔らかくなりました。


わたしは少し、目が熱くなりました。


「ありがとうございます」


「礼を言うのはこちらだ」


侯爵様が立ち上がりました。


「明日、話してみる」


「よろしくお願いします」


書斎を出て、廊下を歩きながら——少しだけ、足の力が抜けた気がしました。


わかりました。やっと、わかりました。


エレノア様がどうしてあんなふうになったのか。


九歳から、ずっと一人で抱えてきたものが、何なのか。


言えて、良かったです。聞けて、良かったです。


---


翌朝、侯爵様がエレノア様を書斎に呼びました。


わたしは呼ばれていなかったので、廊下で待っていました。アシュに手紙を出して「今日、大事なことがある」と伝えていました。学園に遅刻するかもしれないと思いましたけれど、それよりも気になって動けませんでした。


書斎の扉は閉まっていて、中の声は聞こえませんでした。


お母様が廊下に来て、わたしの隣に座りました。


「聞こえないわね」


「聞こえません」


「でも、行ってくれたのね。昨日」


「はい。お話ししました」


お母様がわたしの手を握りました。


「ありがとう、リリア」


「わたしはただ、言っただけです」


「言うことが、一番難しいのよ」


そうかもしれないです。


でも——エレノア様の前で泣きながら怒ったことに比べたら、大人に話すことはそれほど怖くなかったです。怖かったけど、怖くなかったです。変な言い方ですけど、そういう感じでした。


三十分くらい経って、書斎の扉が開きました。


エレノア様が出てきました。


目が、少し赤かったです。


でも——泣いた後の顔ではありませんでした。


泣きそうで、でも泣けなかった顔でした。


九歳から、そうしてきたんだ——と、わたしはまた思いました。


「エレノア様」


「リリア様」


「大丈夫ですか」


エレノア様がしばらく黙っていました。


「……大丈夫かどうか、わかりません」


「それでいいと思う」


「そうですか」


「無理しなくていいのよ」


エレノア様がわたしを見て、少し困ったような笑顔になりました。


「……また変なことを言っています」


「変じゃないですって」


お母様がそっとエレノア様の手を取りました。エレノア様が少し、身を固くしました。でも逃げませんでした。


「エレノア様?」


「……はい」


「おはよう」


それだけでした。お母様は、それだけ言いました。


エレノア様がお母様を見ました。目が、また少し揺れました。


お母様からそう言ってもらえる朝が、どのくらいなかったんだろう——とわたしは思いました。九歳から、ずっと。


「……おはようございます」


小さな声でしたけれど、聞こえました。


わたしは少し、胸が温かくなりました。


小さな朝の挨拶が、こんなに大きく聞こえることがあるなんて——知りませんでした。


---


でもその翌朝、エレノア様が消えました。


朝食の時間になっても来なかったです。部屋を見に行ったら、いなかったです。


代わりに、机の上に手紙がありました。丁寧な字で、書かれていました。


『皆様へ


このたびは大変お世話になりました。


皆様のご厚情、心より感謝申し上げます。


ただ、このままここにいることが、皆様の負担になると判断いたしました。


わたしが自立することで、皆様が本来あるべき形で生活できると思います。


お体に気をつけてお過ごしください。


エレノア』


わたしは手紙を持ったまま、しばらく動けませんでした。


「……姉様」


声が、出てきませんでした。


皆様の負担になると判断した。自立することで、皆様が本来あるべき形で。


昨日、侯爵様と話して、お母様が手を握ってくれて——それでも、この人は、いなくなることを選んだんです。


むしろ、それがきっかけになってしまったのかもしれません。


大切にされた。受け取ってしまった。


九歳から、ずっと一人で抱えてきた。父親を心配させないように。母親の代わりに気を張って、大丈夫な顔をして——それが、この人の生き方になっていたんです。


そこへ新しいお母様が来て、わたしが来た。


自分がいなくても、もう誰も困らない。むしろ、いない方が、みんなが「本来あるべき形」で生きられる。


だから、逃げた。


「リリア様!」


侍女の方が廊下を走ってきました。


「エレノア様がいなくて——」


「知っています。手紙があって……」


「どうしましょう」


わたしは手紙を握り締めました。


怒っていました。泣きそうでもありました。


でも今は、どちらより先にやることがありました。


「侯爵様を呼んでください。お母様も。レオナルト様にも連絡を」


「はい」


「それと——」


アシュの顔を、思い浮かべました。


「アシュ・レインフォード様にも、来ていただけるよう連絡をお願いします」


「承知しました」


侍女の方が走っていきました。


わたしは廊下に立って、もう一度手紙を見ました。


姉様。


どこへ行ったんですか。


見つけます。絶対に、見つけます。

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