暮林茉莉花
第7話 遠い人
玄関のチャイムが鳴った。
三回。今日も三回だ。
続いて玄関のガチャガチャと鍵を開ける音がして、「お邪魔しまーす」という声がした。
聞き慣れた声。
ドタドタと階段を上がってくる足音を聞きながら、僕は上半身を起こした。今日は四月、新年度の始業式だ。四月の朝にしては暖かくもなく、寒くもなかった。
「入るよ!」
コンコン、コンコンとリズムを刻んで――ノックというより、もはや打楽器に近い。
そしてドアが開いた。
「起きろー! 遅刻するぞ!」
八神桜子。うちの隣に住む叔父夫婦の娘…すなわち従兄妹で、ほぼ毎朝この儀式をやらかしていく。両親がレアメタルの採掘責任者としてオーストラリアに海外赴任に出てから、僕の平和な朝はこいつに徹底的に掻き回されてきた。
「……あと一分ボーッとさせてくれ」
「あと一分じゃない。ほら、ブレザーとスラックス。アイロンかけといてあげたから」
掛け布団の上に何かが乗っかった。きちんと畳まれたブレザーとスラックスだった。
「サンキュー」
「どういたしまして。あと三分で降りてこなかったら、氷水ぶっかけるからね」
そう言って桜子は出て行く。僕は服を掴んで、溜め息をついた。
*
朝ご飯は桜子が作ったピザトーストと野菜サラダで、僕はそれを口に運びながら、ふと思い立った。
「なあ、桜子」
「なに」
「今年こそ彼女、作ろうかな」
トマトを食べながら言うと、桜子は食事の手を止めた。そして、ヤレヤレとでもいうような顔をした。
「はいはい、いつものが出ましたよっと」
「いつものって何だよ」
「なんか去年も同じこと言ってたよね」
そう言って、桜子はオレンジジュースをひと口飲んだ。
僕は何も言い返せなかった。
※
登校して、体育祭実行委員の名前が貼り出された掲示板の前で、僕は自分の名前を見つけて小さく舌打ちした。
「八神、お前、立候補しなかったよな?」
「マジで立候補した覚えはないんだけど」
隣で笑っている友人の佐伯に文句を言っても仕方がない。たぶんクラスの誰かが適当に僕の名前を書いたのだろう。夏休みまでに彼女を作る――そう決めたばかりの始業式の日に、面倒な仕事が増えるのは正直勘弁してほしかった。
とはいえ、委員会自体は悪くない話のはずだった。クラスをまとめる係を集める場、つまり他クラスの女子と顔を合わせる機会が増えるということでもある。ある意味、選択肢が広がるのは悪くない。そんな軽い気持ちで、僕は委員会室に足を運んだ。
扉を開けてすぐ、空気が変わったのを感じた。
机の前に立っていたのは、クールビューティーと言われている三年生の先輩だった。長い黒髪を一つに束ね、背筋はまっすぐ伸びている。手元の資料を読む顔は美しく、口を開いた声は涼やかだった。
「時間です。座ってください」
たったそれだけの言葉に、教室にいた十数人の委員が一斉に席に着く。誰も口を挟まない。笑い声も雑談もない。普段の学校行事の打ち合わせとはまるで違う緊張感が漂っていて、僕は思わず息を呑んだ。
「三年A組、暮林茉莉花です。今年度の実行委員長を務めます」
名前は知っていた。弓道部のエースで、近寄りがたいくらい綺麗な先輩がいる――そんな話は何度か耳にしたことがある。だが、こうして実際に相対するのは初めてだった。噂が伝える印象よりも、目の前の人物はずっと張りのある空気をまとっていた。
「資料を見てください。今年は競技数を二つ減らします。理由は昨年の進行時間超過です」
淡々とした口調のまま、暮林先輩は議題を次々に進めていく。質問には的確に答え、無駄な間がない。誰かが意見を言えば、それが筋の通ったものであればすぐに採用し、的外れであれば一言で切り捨てる。容赦がないと言えばそれまでだが、不思議と誰も反発しなかった。彼女の判断には、いつも理由があったからだ。
僕はその様子を、半分呆れながら、そして半分感心しながら眺めていた。
「八神くん、だよね」
不意に名前を呼ばれて顔を上げる。暮林先輩の視線が、まっすぐ僕に向いていた。
「は、はい」
「広報担当をお願いします。各クラスへの連絡と、当日のアナウンス原稿の作成。できますか」
できるかと聞かれて、できないと答えるのも格好がつかない。僕は頷いた。
「できます。あ、ついでに何か提案してもいいですか」
「提案、というのは?」
「当日、ちょっとしたレクリエーションを挟んだら盛り上がるんじゃないかなって。クイズとか、応援合戦的なやつとか」
軽い思いつきだった。実行委員会というものがどれほど厳密に進行を管理されているか、僕はまだ知らなかった。だから次の瞬間、教室の温度が一段下がったことに気づくのが少し遅れた。
暮林先輩は資料から顔を上げ、僕をまっすぐ見た。
「その企画、誰が責任を持つんですか」
「え、それは……みんなで…」
「みんなで、というのは誰も責任を持たないということです」
言葉そのものは静かだったが、刃のような鋭さがあった。
「進行が一分遅れれば、後ろの競技すべてに影響します。雨天順延の判断もぎりぎりまで待たされる。去年、実行委員が思いつきの企画を入れたせいで閉会式が二十分押しました。生徒だけでなく、来賓も、地域の方も待たせた。覚えていますか」
「いえ……」
「覚えていなくて当然だわ。あなたは去年、委員ではなかったから」
淡々と続けられる言葉に、反論の余地が見つからなかった。教室にいた他の委員たちは何も言わず、ただ僕と暮林先輩のやり取りを見ている。誰も助けてくれる気配はない。
「責任を持てないなら、関わらないでください」
その一言が、思いのほか深く僕の中に刺さった。軽い気持ちで口を出したことを恥ずかしいと思うより先に、悔しさが先に立った。
「やる気がないなら、委員なんて辞めたら?」
追い打ちのようにそう言われて、僕はとうとう何も言えなくなった。
会議が終わり、委員たちが三々五々教室を出ていく中、僕は資料を片付けながらしばらく動けなかった。隣の席にいた女子委員がそっと声をかけてくる。
「気にしなくていいよ、暮林先輩いつもそんな感じだから」
「いつも、ですか」
「うん。でも去年も、ちゃんとやり遂げた人にはちゃんと評価してくれるよ。あの人、結果しか見てないから」
結果しか見ていない――その言葉が、なぜか引っかかった。
*
帰り道、僕は一人で自転車を押しながら、今日のことを思い出していた。普段なら多少へこむことがあっても気にしないタイプだ。けれど暮林先輩の言葉には、からかいや嫌味の色がまったくなかった。ただ事実を、その通りに告げられただけだった。だからこそ、余計に堪えた。
スマートフォンが震える。桜子からのメッセージだった。
『実行委員になったんだって? 佐伯くんから聞いたよ』
『なんか面倒なことになった』
『面倒なことって、どんな?』
僕は今日あったことを、できるだけ軽い調子で打ち込んだ。三年生の委員長に企画を提案したら一瞬で切り捨てられたこと。みんなの前で「責任を持てないなら関わらないで」と言われたこと。
既読がついて、しばらく間が空いた。
『その先輩、たぶん俊之のこと見てるよ』
『は? めちゃくちゃ睨まれただけだけど』
『睨むのも、見てないとできないことだから』
桜子らしい、よくわからない返事だった。からかわれているのか慰められているのか判断がつかない。けれど不思議と、気持ちが少し軽くなった。
*
次の日、僕は早めに委員会室に向かった。理由は自分でもよくわからなかった。ただ、昨日のままで終わらせたくないという気持ちだけがあった。
教室には暮林先輩が一人、資料を整理していた。誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残る。そういう人なのだと、なんとなく察した。
「おはようございます」
声をかけても、先輩は手元の作業を止めなかった。
「おはよう」
それだけだった。会話を続ける気はないらしい。それでも僕は、昨日のうちに考えてきた広報担当としての案を差し出した。各クラスへの連絡方法、当日のアナウンス原稿の構成案。思いつきではなく、ちゃんと筋の通ったものにしようと、夜更かしして作ったものだった。
先輩はそれを受け取り、最初から最後まで目を通した。長い時間がかかったように感じたが、実際は数十秒だったのかもしれない。
「悪くない」
顔を上げずに、ぽつりとそう言った。
「合格点、ってことですか?」
「ギリギリの合格点よ。満点ではない」
厳しい評価だったが、僕は妙に嬉しかった。切り捨てられなかったというだけで、こんなに気持ちが上向くものなのかと、自分でも驚いた。
「あの、昨日のことなんですけど」
「昨日の、何?」
「責任を持てないなら関わらないでって言われたこと、ちゃんと考えました。今日のはその答えです」
暮林先輩は、初めて手を止めて僕の方を見た。表情はあまり変わらない。けれど、その視線には昨日とは違う温度があるような気がした。
「どうせ途中で投げるタイプでしょ」
静かな声だったが、僕の中で何かに火がついた音がした。からかいでも本気の評価でもなく、ただ確かめるような言い方だった。それが余計に、僕を動かした。
「投げません。最後まで、ちゃんとやります」
言ってしまった後で、自分でも少し驚いた。普段の僕なら、こんなにまっすぐな言葉を口にすることはない。誰かに認められたいと、こんなに強く思ったこともなかった。
暮林先輩はしばらく僕を見つめた後、小さく息を吐いた。
「言葉だけなら、誰でも言えるわ」
「結果で見せます」
その一言に、先輩はわずかに目を細めた。笑ったのか、それとも呆れたのか、判断がつかなかった。けれど、それまでの完全な無関心とは違う何かが、確かにそこにあった。
委員会室の窓から、朝の光が机の上に長く伸びていた。誰もいない教室に、僕と暮林先輩の二人だけ。静かな時間の中で、僕はこの人にどうしても認められたいと、強く思っていた。
*
その日の夜、いつものように桜子からメッセージが届いた。
『今日はどうだった?』
『ちょっとだけ、認めてもらえた気がする』
『そっか。俊之、嬉しそうだね』
画面を見ながら、僕は自分が口元を緩めていることに気づいた。
『次は満点取ってやる』
『頑張って。応援してるから』
短いやり取りだったが、桜子のその一言に、なぜか少しだけ胸の奥がざわついた。理由はわからない。けれど、その夜はなぜか、暮林先輩の静かな声がずっと耳に残っていて、なかなか眠りにつけなかった。
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