第7話


 湯船に浸かった私は自分の腕をゆっくりと撫でた。一日の汚れが落ちていくのがわかる。


「いったいどういうつもりなんだろう……」


 渚が妹になって三週間が経過した。期間としては短いかもしれないが、心の距離はそれなりに縮まったと思う。

 にもかかわらず、ここにきて私は渚のことがわからなくなっていた。

 もともと本心を隠すのは上手い子だった。ミステリアスなところ含めて私はナギが好きだった。アイドルとファンの関係だったらこの状態でよかっただろう。


 しかし、私たちは親の再婚で姉妹となった。

 近くなりすぎて下心を持つのは問題だ。

 でも、遠くなりすぎて生活に支障が出るのも問題だと思う。


 ――実は、お姉さんと推し被りしちゃったんだ……。


 渚の言葉を思い返して溜息をつく。

 近衛ノノは魅力的な配信者だ。気怠げだが努力家でファンを大切にするところが好きだった。国民的アイドルになろうとしている渚が、ノノを推しにするのも別におかしなことではないと思う。それくらいノノは魅力的だからだ。


 でも、まったく釈然としなかった。

 私の推しをいきなり好きになるなんて、不自然じゃないか?

 あまりに急すぎる。

 渚には別の目的があるのではないかと私は思う。

 あるとしたら、 おそらく私関連だろう。


「私を動揺させて楽しんでる……?」


 からかうための言動ならまだいい。


「……まさか、推し変した私に報復を……」


 私は湯船に顔を沈めた。しばらく潜水してから顔を出す。おでこに張り付いた髪を脇にどけた。


「……私、お姉ちゃん失格だな」


 素直に妹の言葉を受け取れない自分に失望する。

 休日は二人でデートに出かけたらしい。


 推しと距離を置く理由を話そうとしない私に渚がむかついているのはわかる。だが、そんな私を苦しめるためだけに貴重な休日を好きでもない相手に捧げたりはしないだろう。

 私はきっと考えすぎている。

 素直に推し被りしてしまったと考えるべきか。


 私はナギの追っかけをしていた時、同担拒否――推し被りを気にしていなかった。つまり、今回のことでやきもきする必要はどこにもないのだ。

 そう自分に言い聞かせながら浴室を出た瞬間、脱衣所に渚が入ってきた。私は慌てて水滴だらけの体を丸めて隠す。


「ご、ごめん!」


 顔を熱くしながら謝罪した。現役アイドルに裸体を見せているのだ。私の方が謝るべきだろう。

 渚は動きを止めて私の体をまじまじと見つめている。台本を読んでいる時のような真剣な表情だった。


「いや、あの、出ていってほしいんだけど……」

「お姉さんの体、えっちだね」

「セクハラだよそれっ」


 私は恥ずかしさで頭が変になりそうだった。


「あっ、ごめん、行くねっ」


 渚は我に返ったようで、洗濯機にハンカチを入れてから扉を閉めた。若干、耳が赤くなっていた気がする。

 逆だったらよかったのに……。


「……いや、いやいやいや、何を考えてるんだ私は」


 近くの壁に額をぶつける。

 私は変になっていた。


 元推しと推しの接触に動揺しすぎだ。

 いっそのこと、脳内でカップリングさせてみようか。それならハッピーになれるかもしれない。

 手を繋いでデートし、一つのソフトクリームを分け合っているところを想像する。近衛ノノの口元についたアイスを、渚が指ですくって口に入れるのだ。そして「美味しいね」と微笑み、ノノが頬を赤らめる。


「うん、いいかもしれない。うふふ」

「お姉さん、大丈夫……?」


 扉の向こうから渚の心配そうな声が響いた。

 ……お姉ちゃん、もうだめかもしれないよ……。

 バスタオルで水滴を拭い、ドライヤーで乾かした髪を束ねてから自室に戻る。渚はスマホで振り付けを確認していた。先にお風呂に入っていた渚から私と同じ匂いが漂っている。

 仕事の邪魔にならないよう私は勉強を始めた。


「ねえ、お姉さん」


 十分後、ローテーブルの上にスマホを置いた渚が私を見つめてきた。


「明日の放課後って予定ある?」

「うん、生徒会の活動があるね」

「休めない?」


 私は体ごと渚の方を向いた。


「どうしたの? 何かあった?」

「実は相談したいことがあってさ」

「ここではだめなの?」

「明日の決まった時間になってからじゃないと相談できないことだから」


 不可解なことを言う。

 真剣な顔をしている渚を見て、私はペンを置いた。


「……みんなには休むって話すよ」

「え、いいの?」

「可愛い妹の頼みだからね」


 渚は微笑んだ。


「流石はお姉さん、頼りになるね。ゲームが上手いだけあるなぁ」

「そんな上手くないって」

「わたしが下手だと?」

「……」

「あ、目を逸らした!」


 膨れた渚が表情を変え、上目遣いになる。


「お姉さんってどうして生徒会長になりたいって思ったの?」


 渚はたまに話題をぶった切り、自分のしたい話を唐突に投げてよこすことがある。最初は戸惑ったが、一緒に過ごす内に慣れてきた。


「なりたくてなったわけじゃないよ。気づいたらなってたって感じかな」

「あ、それ知ってるやつだ。友達とか家族とかが勝手に応募していつの間にかアイドルになってました~、ってパターンね。だいたいあれって嘘なんだけど」

「え、そうなの……? あ、いや、私は嘘じゃなくて本当だからね?」

「ふーん」

「生徒会役員の先輩に強引に生徒会に入れられて、それからなし崩し的に会長になったんだ。候補者は他にいなかったし、現副会長の藤長には任せられないと思っていたから」


 藤長の自慢エピソードを全校集会で聞きたくはなかったし、彼女の自分本位な思いつきに振り回されるのもごめんだった。


「お姉さんを無理矢理生徒会に入れた人、お姉さんのことが好きだったんだろうねぇ」

「え、それはどうだろう……。中学時代から面識はあったけど、別に好かれてはなかったかな。昔から使える人をそばに置いておくのが好きな人で、私に利用価値があると思ったから強引に引きずり込んだだけだと思うよ」

「お姉さんの周りって結構濃い人多いよね」


 確かにそうかもしれない。

 ただ、「渚がそれ言う?」とは思った。


「そういう渚ちゃんはどうしてアイドルを……。あ、いや、ごめん、なんでもない」


 私は慌てて口を噤んだ。自分の踏み込んでいい領域ではないと気づいたからだ。

 渚が大人びた笑みを浮かべる。


「ふふ、知りたいんだ?」

「べ、別にそんなことないけど……」

「お姉さんにだけ特別に教えてあげるね」


 渚は立ち上がると、椅子に腰掛けていた私に近づいた

 柔らかそうな唇が耳元に近づいてくる。


「……ふー」

「なっ」


 息を吹きかけられた私は身を引いた。

 顔全体が熱くなる。


「な、なにするのっ」

「え? サービスしようと思って?」 

「もう二度とこういうことはしちゃだめだからねっ、絶対ねっ」

「はいはい、節度節度」


 不真面目な態度の渚にむっとする。これでも生徒会長をしているのだ。たまには本気で怒るのもありかもしれない。


「喜ぶと思ったんだけどなぁ」

「お姉ちゃんはこんなことで喜びませんっ。ファンサなんて不要だからっ」

「そっか、もうわたしのファンじゃないもんね」

「そうだよ。姉妹はこんなことしないから」


 実際の姉妹のことはわからないが、私はそう断言した。


「こういうのは今後、お姉さんにはしないようにするよ。サキちゃんにするね」

「えっ……」


 急に出された推しの名前に動揺する。

 デートでそういう間柄になったんだろうか?

 胸がざわつく。


「お姉さん、急に怖い顔になったね」

「……いや、いつも通りだけど?」

「ふーん」


 渚は自分の薄い唇に触れて笑った。


「あ、そうだ。やっぱりサキちゃんを紹介してあげよっか? お姉さんもわたしと一緒にサキちゃんと仲良くすればいいんだよ。そうしたら三人でデートを」

「いい、やめて」


 私は冷たい声を出した。

 モヤモヤの原因がわかった気がする。

 私はどんな理由であれ、渚には近衛ノノと近づいてほしくなかったのだ。

 理由は上手く言語化できない。

 これはたぶん理屈じゃない。私の単なる願望だった。

 人に願望を押しつけるとろくなことにならない。それはナギの追っかけをしていた時に痛感したことだ。


「前にも言ったけど、私は推しと仲良くするつもりはないよ。それで痛い目を見たからね。でも、渚が個人的に推しとどうしようと私は何も言わないよ」

「その言い方だと、お姉さんはわたしとサキちゃんが仲良くするのはイヤだけど我慢するね――そう言っているように聞こえるんだけど?」

「そんなことないよ。この家に呼ばない限りは、何も言わないから」


 付き合うのをやめてくれと本当は言いたい。しかし、そんなことを言う権利はなかった。


「……うん、わかったよ。お姉さんの言葉を信じるね」


 渚はそう言うと、振り付けの確認作業に戻った。

 翌日、生徒会の仕事をメンバーに任せた私は、待ち合わせ場所の喫茶店に足を運んだ。珍しく体調を崩してしまったが、渚の真剣な顔を思い出すと、ドタキャンするわけにはいかなかった。

 二階の奥側の席に渚は腰掛けていた。


「おまたせ」


 渚の向かいの席に座り、注文を済ませる。通路側を見て、私は動きを止めた。ゆっくりと渚の方に向き直る。


「……どういうこと?」

「ごめんね」

 

 渚は手を合わせた。もう一度通路を挟んだ向かいの席に目を向けると、私の推し――近衛ノノこと、今野サキさんが席に腰掛け、申し訳なさそうにこちらを見ていた。

 どうやら私は元推しと推しにはめられたらしい。

 

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