第12章 見えずとも存在するもの
ニザームと部下たちは頭上を見上げ、驚愕に目を見開いている。巨大な月が、短時間で奇跡のように消失してしまったのだから。
だが、ルシッドとファリードの表情は少し妙だった――二人とも夢でも見ているかのように虚ろな目をして、茫然と宇宙を見上げている――……。まるで偽物の宇宙に魂を吸われているかのように表情は抜け落ち、微動だにしていない。その反応は、私が想定していたものとは違う。
……なんだ? 彼らは、何を見ている?
体の芯からの震えに腕をかき抱いたが、その表情の意味を考える間もなく、意識は月の消失へと引き戻される。
「さっきまであった月は? どこへやったのだ?」
ニザームが早く知りたいとばかり急かしてくる。
「どこへもやっていません。神と同じく、見えずとも存在している」
ハサンはそう言い、そばに垂れていた紐のようなものを引く。すると頭上でバサリと音がして、瞬きをした後には魔法のように丸い月が再び現れた。遅れてハサンの手元に、『大きな青い空』が降ってくる。
「――そうか。そういうことか!」
ニザームも得心がいったようだ。
私はバドルのそばに散乱している物の中のひとつを手に取り、広げて見せた。
「そう。犯人は、これを用いたのです」
――それは、ハサンが月の消失に使ったのと同じ、大きな青い空。
元々は窓にかかっていた青い布幕である。
日差しを遮れるよう、光をほとんど通さぬ厚みがある。
布幕を頭上にかざしてみると、天井の青と布幕の青はほとんど同じ色をしており、薄目で見ればその境目はわからぬほどだ。
これがもし、遠く離れた天井の近くにあったとしたら、もはや布幕の存在を認識すらできなかっただろう。
「仕組みさえわかれば単純なこと。犯人は、この布幕で火星球をまるごと覆っていた。そのせいで、私たちは変わらず頭上にあった火星球が見えなくなり、消失したと思い込んでしまったんだ」
私の口からはすらすらと言葉が出てきて止まらなかった。誰に説明するでもなく、ただそのように造られた機構のように、淡々と真実を述べる。
「なるほど、確かにそうとわかれば単純だ」ニザームが私の持つ布幕を触って観察した。「して、布幕は今してみせたように、紐か何かで括っていたのか?」
「いいえ。今は準備がなく紐で再現してみせましたが、それではバドルがちょうど火星球の真下に来たときを狙って落とすことは難しい」
「部屋に紐を張り巡らせて、足か何かを引っ掛けたときに作動する罠、というのは?」
「違います」今度はハサンが否定し、私の推理を継いだ。「俺たちはバドルが死ぬ前に、火星球を探そうと五人で部屋を捜索していました。五人で動きまわっても、そんな罠は発動しなかった――つまり、別の方法です」
私は布幕の端をたぐり、予想通りのものを見つけた。
半透明の、白っぽい塊が布に付着している。乾いて固まっているが、触れてみると表面はつるつると滑らかで、ぐにぐにとしたわずかな弾力がある。
興味津々で覗き込んできたニザームが呟く。
「
「はい。布幕は火星球を覆い、土台に蝋で固定されていた。そして、定刻になると溶けるように設定されていたのです。ばら撒いた物の中に蝋燭もあったのは、この跡を隠すためでしょう」
「だが、そんなことができるわけ……」
「できます」
「天文学と数学を使えば」
私とハサンは声を揃え、私たちの二本の指は、同時に部屋の一点を示す。
そこにいたルシッドは、体を硬直させ上擦った声を上げた。
「な、なんだ? 俺は何もしていない!」
「違う、君じゃない。君の後ろにあるものだ」
ルシッドが後ろを気にしながら、そろそろと横にずれる。
現れたのは、透明な円――観測用の大きな凸レンズ。
金属の輪にガラスが嵌め込まれ、たわんで巨大化した景色を映している。
「閣下はイブン・サフルの研究書『燃焼器具について』をお読みになったことはありますか」
「……いいや」
「では、イブン・アル=ハイサムの『光学の書』は」
「ああ、それならば何冊か読んだぞ」
イブン・サフルとイブン・アル=ハイサムは、私たちのほんの少し前の時代に、不確かな『光』というものを読み解こうと追い求めた先人である。
イブン・サフルは曲面鏡やレンズの光学特性を研究し、光の屈折の法則を発見した。そして光を収束させる凸レンズを設計し、それによって特定の距離にある物体を燃焼させることに成功した人物である。
一方、イブン・アル=ハイサムはイブン・サフルの研究をより深くし、「なぜ、どのように」光が対象を通過し屈折するのかを詳細に突き止めた。
彼らは光という不明瞭な研究対象を、自然科学と数学の組み合わせ、そして数々の実験により研究し、何十冊もの書に残してくれた。……まあ、イブン・アル=ハイサムも例に漏れず、政治に巻き込まれて自宅軟禁という憂き目にあっているが。
ニザームもこの部屋で起きた現象を悟ったらしく、「なるほど」と頷いた。
「そういえば『光学の書』にもあったな。つまり、窓から差す太陽光をその凸レンズにあて、ちょうど火星球の土台の蝋にあたるようにした、ということか」
「はい」
私はレンズに近寄って、角度を見た。今は壁の方を向いているレンズは、ルシッドがぶつからなければ、火星球の方に向いていたはずだ。
そばの窓からは、日の光が差している。日の光を受けるように角度を調整すると、レンズを通した光は収束し、小さな光の点となって渾天儀にあたった。
「予め太陽の差す角度や時間を計算しておけば、この凸レンズを利用して一定時間経過後に蝋を溶かすことができます――」
私は息を継ぎ、実際にここで起きた光景を想像しながら、誰に向けるでもなく呟く。
「犯人は、火星球の土台の
――そしてバドルは、横たわる物質となってしまった。
「これが火星球落下殺人事件の真相だ」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。彼の悲惨な最期と痛みを具体的に想像してしまい、胸が苦しくなったのだ。
しかしそのうち、みな思考は次の段階へ進む。
どのように殺したのかは判明し、人の仕業であると証明できた。
では――誰が、なぜ、殺したのか?
私はつい、ルシッドとファリードを目で追った。
ルシッドは疑心暗鬼に陥った顔で、周囲の人物を忙しなく見ている。ファリードはニザームのそばで樹木のように一言も発さずに佇み、真っ青な顔で現場を見つめていた。先ほど垣間見た虚ろな目はもうしておらず、あれが何を思った表情だったのかは不明のままだが、二人の態度に薄気味悪さを感じてならない。
犯人の条件は、バドルが定刻に決まった位置で太陽を観測することを知っていた人物。
さらには、光の屈折の理論に詳しく、太陽光が何時にどの角度で差すか、どのくらいの時間で蝋を溶かすのかを詳しく分析できる人物である。
他にどの程度いたのかはわからないが、少なくともルシッドとファリードは該当すると言えるだろう。
「俺が犯人だったなら」ハサンが私だけに聞こえる声量で、ぼそっと呟く。「殺害する直前に、現場の罠を調整しに来るだろうな」
その言葉は、私の背を凍らせた。
ハサンは確信しているのだ――火星球捜索という名目で天文学室にいたルシッドとファリード、どちらかが――あるいは二人ともが、犯人に違いないと。
私は、内心で犯人をただひとりに決めつけていた――だが、それをどう証明しよう? 彼を告発する、確かな証拠が、どこかに残っていないだろうか?
思い沈黙を破ったのは、ニザームだった。
「二人とも、見事な推論だった。ここで一区切りとして、哀れな彼を埋葬する準備をしてやろうと思うが、どうかね」
私はもう一度バドルの遺体を見下ろした。もう彼の遺体からは、犯人についての証拠が出てくるとは思えなかった。
「かまいません。どうか手厚くお願いいたします」
私たち『真理観測会』の四人は、その場に膝まづいて願った。ニザームは頷き、部下たちにバドルを運ぶよう命じる。
バドルの体が、二人の男によって慎重に持ち上げられる。
遺体の下から現れた、一枚の紙片が目についた。
そばに散る紙片や書物となんら変わりない、ただの紙。だというのに、私たちの目は吸い寄せられるようにそれに向いた。そこに書かれている文言が何であるかを、無意識のうちに理解していたからだろう。
「なんだこれは……こんな利用の仕方は、冗談ではすまないぞ……!」
ハサンの声は珍しく震えていた。それが怒りによるものか、怯えによるものかはわからなかった。
紙片にはこう書かれていたのだ。
『太陽と月は、一つの計算に従い運行する。』
――
ヒジュラ暦という太陰暦を使用し、他の暦の使用を禁ずる一文であった。
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