第10章 火星球落下殺人事件
真っ先に思った。ありえない、と。
火星球がどこからともなく出現して死体のそばに佇んでいるのも、死体の周囲があらゆる備品で彩られているのも、どう考えても正常ではない――超常の力による死としか思えない。何か超常の存在、あるいは嵐の化身のようなものがこの部屋を通り過ぎていった爪痕だと。
私たちは誰も叫ばなかった。喉が凍りついてしまったかのように、叫ぶことすら忘れていたのだ。
死体と火星球に釘付けになっていた数秒を、永遠にも感じた。
私の横からさっと室内に踏み出したハサンが、素早く天文学室の中を見回し、柱の影や備品入れの大きな木箱を覗いた。他に人がいるかどうかを確かめたのだろう。だがハサンは、誰も見つけることなく戻ってきた。
私たちは重たい足を引きずって、死体のもとへたどり着いた。死体はうつ伏せの上、もはや顔の判別などできぬだろうが、背格好からしてもバドルに違いない。
頭の陥没の酷さは、塔の上から落とした卵のよう。どう見てもそばにある鈍重な火星球によって頭を潰されたとしか考えられなかった。中庭にいるときに聞いた「どん」という音――あの瞬間にバドルは死んだのだ。
つい先刻まで生きて笑っていたバドルが、物質として床に沈み込んでいる――その光景が恐ろしい悪夢のようで、吐き気とともに頭痛を催した。
「――神罰か?」
震える声で呟いたのは、ルシッドだ。
「俺たちが、
ルシッドからはこれまでの
「は。罰?」
低く冷静なハサンの声が、その場の空気を変えた。
「神が罰を与えるとしても、直接個人を殺めるものか。神が与える罰は乗り越えるための試練であり、こんな雑な殺人などなさるはずがない」
「殺人!?」
私たちはどよめいた。
殺人ということは、当たり前だが誰かがバドルを殺したということだ。
誰かが鈍重な火星球を消し、そして再び出現させて、バドルの上に落としたということだ。そんな奇跡のようなことが、人間の手で実行できるはずがない。
何より、バドルを殺そうと思い立ち、実行した人間の悪意を認めることになる。それはいっそ神の怒りによる神罰と認めるよりも恐ろしいことに思えた。
私はそう思いかけて、首を振る。
――いや。
私は、何にもおもねることなく、誰も否定することのできない世界の真実の法則を――真理を求めたい。そのためには、目を背けてはならないのだ。すべてを疑い続けなくては。
この事件は、殺人事件。必ず答えが用意された謎である。
誰かが、どうにかして、バドルを殺した。
あえて不可解な状況を作り出したのは、超常の力によるものであると錯覚させ、恐れさせるため。このまま神罰であると認めてしまえば、犯人の思うつぼだ。
私を慕ってくれた彼のためにも、謎を解き明かさなくてはならない。
「謎を解き明かそう」
私が告げると、ハサンは凄惨な現場の中で
「……そうだ、ハイヤーム。それでいい」
なぜかその声は、頭の中に直接語り掛けられているように響いた。
ルシッドとファリードが、ふらふらとバドルに近づく。そのまま彼に触れようとしたので、「触るな!」と叫んだ。二人はびくっと体を硬直させ、怯えた顔でこちらを見るので、なるべく冷静に説明する。
「ハサンの言う通り、これは神罰ではなく殺人だ。誰がどのように殺したのか突き止めるために、現場はなるべく動かさないでほしい」
「わ、わかった……」
二人は頷いたが、ファリードが後ずさったときに背後にいたルシッドにぶつかり、そばの机にあった観測具レンズが動いてしまった。
「わ、悪い。……もう動かない……」
ルシッドはそのまま立ち竦む。
ルシッドは特に精神的な傷が大きそうだと判断したのか、ハサンはファリードに「事態を教師か役人に知らせてきてくれ」と手短に依頼する。ファリードは真っ白に青ざめた顔でこくりと頷き、そのまま階段を駆け下りて行った。
「人が来る前にあらかた調べよう」
「いいだろう」
殺人が起きたとしても、現場を早く片付けたがる者も多い。役人の取り調べで犯人が割り出せなければ、謎は一向に謎のままになってしまう。
私とハサンは、なるべく物は動かさないようにしながら現場を検分していく。
それにしても、乱雑な現場だ。
書物や紙、芦の筆やインク壺、窓にかかっていた青い布幕や蝋燭や、金属の観測器具などが足の踏み場もないほど無数に散っている。火星球が落ちてきた衝撃で落ちてしまったのだろうか。
私とハサンは屈んで、その一つ一つを観察していく。
「……ん」
始めに声を上げたのはハサンだ。
「血の飛び方について何か気づくか?」
言われるまま、飛び散った鮮血に注目する。
火星球には勢いよく血飛沫が飛んでおり、これがバドルの命を奪った凶器であることを明確に示していた。
周囲に散らばる書物の表紙や紙、布幕などにも上から血が付着し、染み込んでいる。血がかかった書物を持ち上げてみると、書物の下からは綺麗な石床が現れた――。
「……いや待て。この飛び方はおかしい」
これでは、元々床に物が散乱していたところに火星球が落ちてきて、バドルの頭に当たり、血が飛んだということになる。順序が逆なのだ。
「火星球が落ちてきた衝撃で、物が散乱したのではない……。そもそも落下した衝撃でものが散らばったのなら、部屋全体が荒れるはずだ。バドルの周囲にだけ散らばる理由にはならない」
ハサンが頷き、言葉を継ぐ。
「誰かが意図的に、
「つまり、散乱させる必要があってそうしたということだ。超常的な印象を付けるため? それとも……」
「いよいよ誰かが仕込んだ殺人罠だな」
ハサンが『殺人罠』と呼んだのは的を射ている。バドルが死んだ瞬間、現場には誰もいなかった。私たち四人が到着した時にはすでに死亡しており、入り口がひとつしかない天文学塔の階段で誰ともすれ違わなかったのだから。まだ室内に隠れている可能性も考えられたが、先ほどハサンが素早く調べていたので、その可能性も否定された。
つまり犯人は、その場におらずして殺人を成したのである。自動で作動する仕掛けか何かを用意していたに違いない。
だとするともう一つ疑問が出てくる。どこからか落としたであろう火星球を、どのように狙ってバドルに当てたのか?
「元々バドルがここに倒れていたという線はあるかな」
私の疑問を聞いて、ハサンがバドルの遺体を数カ所触った。
血に塗れた
「頸が折れている。元々倒れていたのならばこんな折れ方はしない。直立していたところに、火星球が落ちてきたんだ」
だとすれば、ますます『立って移動していただろうバドルに、ちょうど火星球を命中させる罠』の仕組みがわからない。
この事件は大きな謎に包まれている――まずは大きな謎を、細分化する必要がある。
一つ。『予め床に物を散乱させた理由』。
二つ。『無人の状態で、的確にバドルの真上に火星球を落とした方法』。
三つ。――最大の謎。『なかったはずの火星球はいったいどこから現れたのか』。
四つ。これも重要だ――バドルはなぜ、誰に、殺されたのか?
私の心臓はどくんどくんと跳ね回り、脳細胞に血を巡らせる。頭が熱くなり、様々な思考が一瞬にして押し寄せてきた。
今朝バドルと会ってから、今までのすべての会話、すべての見聞きしたものが圧縮されて脳裏を過ぎる。
その中で、わずかな違和感を覚えていた会話を思い出した。
「――ルシッド」
私は背後で固まっているルシッドを振り向いた。
「君はバドルが死ぬ直前――中庭で私たちが重い物が落ちる音を聞く直前に、『もうそろそろだ』と言ったね。あれは、何がもうそろそろだったんだ?」
「あ、あれは……」ルシッドはしどろもどろに答える。「この事件とは全く関係ないことだ……もうすぐ、太陽の位置を観測をする時刻だったんだ。真理観測会で決めていた定刻ってだけで……」
頭の奥で、真実の星が光ったような気がした。
「定刻――それだ」その言葉は、ハサンと完全に被った。
「バドルは必ず、決まった時間に、この部屋の決まった位置で太陽の観測をする習慣があった。だから、その時間だけはバドルの立ち位置が完璧に読めたんだ!」
そのとき、私たちの思考を遮る声が飛び込んできた。
「これは……聞いていたよりむごい」
裾の長い黒絹の衣服の男が、数名の兵士と文官を引き連れて部屋の入り口に立っていた。その男の目を見た途端、目が眩んだように視界が塗りつぶされた気がした――なぜだか男の目が強烈な光を放ったように見えたのだ。
「……ごめん」
男たち背後で、細い体躯をさらに細めたファリードが申し訳なさそうに言う。
「役人に通報しに行ったんだ。そうしたら、たまたまこのお方がいらっしゃって。明日の視察の前に、ネイシャプールの街を見ていらしたそうなんだ……」
その言葉で、鋭い圧を放つ男が何者であるかがわかった。
宰相ニザーム・アル=ムルクが、殺人現場に来てしまった。
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