44話 欠けたピース 後編
《旭可南視点》
この頃本当に安心して過ごせたのは、学校だけだった。
学校にいる間だけは、人の顔色も周囲の音も気にしなくてよかった。急に殴られることも、食器が飛んで来ることもない。
金属の擦れる音、お湯を沸かす音、ライターをつける音。そういう危険な音がない『当たり前』が、僕にとっては何より大切な場所だった。
下校して一歩家に入ったら、何も失敗しないように、あの人のスイッチが入らないように、全身をアンテナのようにして過ごす。
物心ついた頃から僕は母と二人暮らしだった。あれが始まらなければ家のことも、僕の世話も最低限はしてくれる、物静かで優しい人だった。
それでも、僕からすればとても些細なきっかけで地獄は始まる。
一つだけよく覚えているのは、母が「父は私たちを捨てた」と喚いていた時、僕はそれの何に怒っているのか分からなかったから「人って捨てることが出来るんだね」とか「ゴミと違って回収されないの?」とか、そんなことを聞いたら蹴り飛ばされて引きずられ、ひどい目にあった。
だから喋るのも、泣くのも、逃げるのも、反応するのが駄目なんだと思って、ただ身を小さくして嵐が過ぎるのを待つようになった。
そうした方が早く終わると学んだから、感情も感覚も閉じられるだけ閉じた。怖かったような気もするし、僕のもののようで僕のじゃない身体が痛かったような気もするけど、最中のことはもうよく覚えていない。
嵐が収まる頃には、自分が何なのかも分からなくなっていた。
存在も時間も何も曖昧なまま、遠くでテレビの音だけが聞こえ始める。
それを聞いていると、ここが家で、今が夕方で、あの人が母であることや、ここに転がっているのが僕であることを一つずつ思い出していく。色んな感覚が少しずつ戻ってくるけれど、どうしていいか分からなくて、ただテレビの音を聞いていた。
しばらくすると僕は僕になって、やっと一日が終わったんだと分かる。
音を出さないようにそっと移動して、布団の隅で毛布をかぶった。テレビの音がしている間だけは、安心して目を閉じることが出来た。
一度だけ、あの人が暴れている時に、灯里と灯里のお母さんが差し入れを持って家に来たことがある。二人はためらうことなく僕を庇ってくれた。
子供には怖い光景だったはずなのに、灯里は逃げるどころか、真っ直ぐあの人を睨み返していた。その横顔だけは、今でもはっきり覚えている。いつも笑っている彼女が、あんな顔をするなんて思わなかった。
身体の痛みよりも、僕を覗き込む二人の心配そうな顔の方が苦しくて、大丈夫だと笑ってみせると、二人はもっと悲しそうな顔をした。
(どうして僕は、人にこんな顔ばかりさせるんだろう)
そんなことを、よく考えていた。
◆◇◆◇
彼女の怒った横顔を見てから数日後。
灯里は何かを決意したような顔で、僕の前に立った。
「今日から私が守ってあげるね! もう私決めたんだから」
それは予想もしない言葉で、一度聞いただけじゃ意味が分からなかった。
「え? よく聞こえなかった。もう一回言って?」
「だ~か~ら~、私が守ってあげるね! って言ったの。イヤって言ってもダメだよ!」
「何いってんの? あかりは僕より弱いじゃん。口喧嘩でも僕が勝つくらいだよ? ダイキを泣かすくらい強くなったら言いなよ」
「ふっふっふっ、可南君とダイキ君には勝たなくてもいいんだもーん。私は可南君に悪いことをする人に勝てばいいもん! 守りっこだよ、守りっこ! 可南君が勝てない人から私が守ってあげる!」
「……」
その「僕が勝てない人」が誰を指しているのかは、すぐに分かった。それでも彼女は、その人の名前を口にしなかった。
それ以上踏み込めば、僕が傷つくことを本能で分かっていたのかもしれない。
僕はもう、逃げることも助けを求めることも考えなくなっていた。
どうやって?
できるわけない。
何も変わらない。
どうしようもない。
……もう、どうでもいい。
そんな言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
それでも言われた言葉は嬉しかった。たとえ言葉だけでも、嬉しかったんだ。
「守る」なんて、人から言われたことがなかったから。
「あ、照れた!? ねぇ、照れてるよね??」
「照れてない。僕はあかりと話してるだけで楽しいよ。だから後は」
「後は?」
「もっとみんなが楽しめる、面白いことを考えよっか」
「まかせて!」
「うん……ぶふっ! 何してんのその顔はズリィ!! あはははは!」
「おほしろひこほでひょ?(面白いことでしょ?)」
なぜか灯里は、両手で両頬をぎゅっと押しつぶし、誰だか分からないくらいヘンテコになったタコ口の顔を僕に向けてきた。
「そうじゃない。いや面白いよ? でも、……あはははは! 何で今それなの?!」
「笑った!」
「だってそんなの笑うでしょ?!」
「ふふふ、ねぇ楽しい?」
「ん? 僕そう見えない?」
「ううん、楽しそうだよ。だから私も楽しい!」
僕が楽しそうだから自分も楽しい。そんなふうに言ってくれる人がいることが、不思議なくらい温かかった。
「もういいよその顔は。じゃあ帰ろっか。今日はルールをもっと考えるんでしょ?」
「昨日のじゃダメ? 私はあのくらい簡単な方がわかりやすいと思うんだけど」
「駄目。絶対困る」
「あぁぁ~~、可南君きびしい。何でダメ?」
「遊ぶ人の気持ちになって考えてみたらいいよ。だから例えばさ──」
二人で歩きながら、ああでもないこうでもないと話し合う時間がいつしか当たり前になっていた。
灯里は次から次へと新しい遊びを思いつき、僕はその穴を見つけて直していく。
気持ちがいいくらいに、僕たちは噛み合っていた。
一人では途中で終わってしまうものも、二人でなら形に出来る。その時間が僕は好きだった。
◆◇◆◇
十一月のある日。
僕と心中しようとして、失敗した母が死んだ。
鼻と口を塞がれて、固く冷たいものが首に押し当てられたのは覚えている。
最後に見た母は、泣いていた。
せめていつものように憎々しげに罵ってくれていたら、こんなことは考えなかったのかもしれない。
僕がいなかったら、この人は狂わなかったんじゃないか。
僕がいなかったら、この人は笑って生きられたんじゃないか。
僕の何が、この人をこんなに苦しめてしまったんだろう。
僕は、どうすれば良かったんだろう。
条件反射で閉じてしまった心は、自分自身の感情も痛みも感じさせなかったから、ただ母のことだけを延々と考え続けていた。
答えのない問いを繰り返しているうちに、僕の意識はゆっくりと消えていった。
◆◇◆◇
僕だけが助かり、心身が回復するまで四~五か月かかった。
その間、叔母が動いてくれたおかげで、僕は再び学校へ通えるようになった。
僕を引き取ってくれた叔母は、明るく朗らかな人だった。
そのことを話すと、灯里は安心したように小さく息を吐き、「そっか」とだけ言った。
それ以上は何も聞かなかった。
何も考えていないように見えて、人を思いやることが出来る。他の子にはない、その優しさが僕には何よりありがたかった。
ただ明日を迎えるだけで精一杯だった毎日が終わって、日常は少しずつ彩りを増していた。
笑い方も、自分の特技の活かし方も教えてくれた。大切な友達。
梅雨はもう、すぐそこまで来ていた。
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