番外編 規律と規則

 水道水を流しっぱなしにしてはならない。必ず洗面器に水を貯めて使用しなければならない。就寝時刻後に用を足すときは貯め水で流すこと。就寝時刻になったら、たとえ眠くなくとも布団に入らなければならない。毛布や座布団を枕として使用してはならない。云々。

 刑の確定と同時に手渡された分厚い再生紙の束には、事細かに規則や作法が羅列されていた。全ての漢字に仮名が振られているせいで余計に読みづらい。漢字が読めない奴はこんな大書、読み切れないだろうに。

 目次に戻る。上部に『所内生活のしおり(死刑確定者用)』と記載されている。わざわざ死刑確定者のために製作したらしい。

 厄介なのは、しおりの上では許容されているにも関わらず実現不可能な事柄があることだ。典型的なのは面会だろうか。申請し許可が下れば面会できることにはなっているが、実際、死刑確定者と面会するには家族にでもならなければ無理だ。

「点検だ」

 大柄な刑務官が居室に入ってくる。どうやらこいつが俺の主担当のようだ。名札がないので、何と呼べばいいか分からない。

「どうも」

 抱えていた再生紙の束に目を留めて、奴は不可解にも苦笑いを零した。

「何か問題でも?」

「いや。『所内生活のしおり』をそんなに熟読する奴も遵守する奴も、珍しいな」

「は?」

 こいつは何を言っているのだ。規則は守らせるためにあるものだろう。

「白石浜さんは、あれだな」まだ顔に笑みが滲んでいる。「生真面目だな?」

「生真面目な奴に死刑判決なんか出ませんよ」

「それもそうだが」

 刑務官は居室をうろついて備品を点検しはじめた。

「しおりに従って貯め水使うし、担当看護師にも敬語だし」

「? 看護師さんには敬語を使うべきでしょう?」

「明らかに年下なのにか?」

 全ての備品の点検といっても、四畳半ほどの居室ではさほど時間を要さない。ぐるりと一周して、刑務官は俺の真正面に立った。バインダーに何やら書き込んでいる。

「年下だからタメ口、年上だから敬語なんて基準は、お嬢には当てはまりませんよ。彼女は仕事として自分に接してる。職業人には最低限の敬意を払うべきだ」

「そうだ」バインダーにペンを挟み込む。「白石浜さんの『たとえ年下であっても、看護師には敬語を使うべき』という自分なりの規範にも、きちんと理由がある」

 点検自体は終わったはずだが、まだ話すつもりらしい。

「何が言いたいんです?」

「なぜ『水を流しっぱなしにしてはならない』なんて決まりがあると思う?」

 呆れた。手前が勝手に決めた規則だろうに、理由を被収容者に考えさせるとは。どうせ遠い昔に水を流しっぱなしにした不届きな輩がいたとか、そんな馬鹿げた歴史的経緯であって、規則だけ見れば合理性がないのだろう。俺の乏しい経験上、世の中の大抵の規則は下らないものだ。

「節水、とか」頭に浮かんだ最も取るに足らない理由を口に出す。

「まあ、それもあるが」

 刑務官はバインダーを腕に抱えたまま、もう片方の手で洗面台を指した。

「単独室の水回りは部屋の端にまとまっている。洗面台のすぐ隣は壁だ。そして、」

 壁を指す。

「ここの壁は薄い。洗面台で水を流した音が容易に隣室へ聞こえてしまう。隣人の生活音が耳障りなのは、想像つくだろ。死刑確定者は一日じゅう居室で過ごすから余計に、被収容者同士で揉める危険性が高い」

「ちょっと待ってくださいよ。じゃあ、」隣室で水を流す音など聞いたことがない。

「ああ、現在収容されている死刑確定者は白石浜さん1名だし、この部屋は両隣とも空いている」

 刑務官はまた笑った。

「だから、水が流れる音が隣室に響くから貯め水を使う、といった気遣いは、無用だ」

 なんてことだ。くそ真面目に水を貯めていた俺を縊り殺してやりたい。

「もちろん、節水はしてくれ」

「このしおり、意味あるんですか?」ノート1冊分はありそうなホチキス留めの紙束を振る。

「意味はある。ここの規則に妥当性のないものはない。被収容者の安全を守る。被収容者同士の無用な揉め事を避ける」指折り数えて見せる。

「そのために規則がある。だから少しでも疑問に思ったら、また点検のときにでも訊いてくれ。説明するから」

 大変お優しいご提案だ。反吐が出るほど甘ったるい。

「ご親切にどうも」

「いやいや」

 皮肉のつもりだったのだが、伝わらなかったらしい。刑務官は苦笑した。

「長い付き合いになりそうだからな」

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