第61話 飴と鞭と、ニュープラン

「レグルス。暴力はいけません」


凍りついた中庭に、シルフィーの凛とした声が響き渡る。

彼女は涙目で座り込むルーカスと、拳を振り上げたままのレグルスの間に割って入り、腰に手を当てて「駄目です」と首を振った。


「相手が誰であれ、言葉より先に手が出るのは貴方の悪い癖です。……それに、いくら『死ぬほど手加減した』とはいえ、皇族の頭を殴るなんて不敬が過ぎます」


シルフィーの言葉に、ルーカスがビクリと肩を震わせた。


「て、手加減……?」


「ええ、そうです。もし『剣帝』レグルス・バーンが本気で殴っていたら、ルーカス様の頭は今頃、熟れたトマトのように弾け飛んで跡形もなくなっていますから」


シルフィーはサラリと恐ろしい事実を口にし、ニッコリと笑った。

ルーカスの顔色が青を通り越して土気色になる。

殴られた痛みよりも、「自分は今、死の淵に立っていたのだ」という遅れてきた恐怖が、少年の背筋を冷たく這い上がった。


「あ? 当たり前だろ。ガキ相手に本気出すほど落ちぶれちゃいねぇよ」


レグルスが悪びれもせずに鼻を鳴らす。

そのあまりの態度のデカさに、腰を抜かしていたメイドたちは震え上がり、ガルヴァンは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

だが、シルフィーは一歩も引かない。それどころか、ふわりと微笑みながら意外な言葉を続けた。


「ええ。……でも、レグルスの言いたいことはわかります」


「あん?」


シルフィーの声が、少しだけ真面目になる。


「職務を全うしようとしたメイドさんたちへの理不尽な八つ当たり。それは確かに、見ていて気持ちの良いものではありませんでしたから」


シルフィーはチラリとルーカスを見る。

涙目で呆然としている第二皇子は、まさか聖女に自分の非を指摘されると思っていなかったのか、言葉を詰まらせた。


「な、なんだよ……! じゃあ、やっぱり俺が悪いって言うのかよ!」


「いいえ。どちらか一方だけが悪いのではありません。喧嘩両成敗、です」


シルフィーはパンッ! と小気味よく手を叩き、名案を思いついたように瞳を輝かせた。


「なので、こうしましょう! レグルスが、ルーカス様の『お昼寝区域』の芝生を完璧に整える。これにて、殴ったことと、暴言を吐いたこと……全てひっくるめて『プラスマイナスゼロ』ということで!」


「――は?」


その場にいた全員の声が重なった。

ルーカスは涙を引っ込めてポカンと口を開け、ガルヴァンは「……はて?」と首を傾げる。

殴られた慰謝料が「草むしり」? あまりにも釣り合いが取れていないというか、斜め上すぎる提案だ。


「な、なんだそれ……そんなことでチャラになるわけ……」


「お断りだ」


混乱するルーカスの言葉を遮り、レグルスが即座に吐き捨てた。


「なんで俺がそんな面倒くせぇことしなきゃなんねぇんだよ。俺は賓客だぞ? 庭師の真似事なんざごめんだね」


レグルスは興味なさげに欠伸をすると、踵を返して城の方へと歩き出した。


「じゃあな、おチビ。俺は部屋に戻ってワインの続きを――」


「……あら、そうですか」


遠ざかる背中に向かって、シルフィーは残念そうに、けれどもしっかりと聞こえる音量で呟いた。


「それなら仕方ありませんね。……ヴァルガさんに、このことを相談しに行かなくちゃ」


ピタリ。


レグルスの足が、地面に縫い付けられたように止まった。

背中から、どす黒い殺気のようなものが立ち上る。

彼はギギギ……と、油の切れたブリキ人形さながらの動きで首だけを振り返らせた。


「……おい。てめぇ、今なんて言った」


「え? ですから、ヴァルガさんに『レグルスが皇子様を殴って、反省もせずに逃げました』って報告を……。確か彼女、レグルスに会いたがっていましたよね?」


レグルスの喉が、ひゅっと鳴った。


「ッ……!!」


レグルスの顔が引きつった。

脳裏に浮かぶのは、鮮血のような赤い瞳と、鉄刃爪アイアンクローを装備した狂戦士の姿。

『私とヤろうぜレグルス! お前の最強の遺伝子を寄越せ!』と迫ってくるあの戦闘狂に居場所がバレればどうなるか。

今のレグルスにとって、ヴァルガとの「濃厚な接触(殺し合い)」は、草むしりの一億倍面倒で、精神的苦痛を伴うイベントだった。


「……わかったよ。やりゃいいんだろ、やりゃあ!」


レグルスはドシドシと足音を立てて戻ってくると、シルフィーの前で仁王立ちになった。


「その代わり、今日はこれで終わりだ。終わったら俺は部屋で寝る。絶対寝る。二度と連れ出すんじゃねぇぞ」


「はい! 交渉成立ですね!」


シルフィーは聖母のような、あるいは小悪魔のような満面の笑みで頷いた。

その様子を見ていたガルヴァンは、感嘆のあまり大きく息を吐き出した。


(なんと……。あの『自由と堕落の権化』と恐れられるレグルス・バーンを、たった一言で御すとは……)


レグルス・バーン。

その実力は一騎当千。王の命令すら気分次第で無視する、アルヴァレイン最強にして最悪の無頼漢。

そんな男が、10歳の少女の手のひらで転がされている。


(やはり、噂は真実であったか。このお方こそ、歴代最高の聖女……いや、猛獣使いと言っても過言ではない器の持ち主!)


ガルヴァンが勝手に評価を爆上げさせている横で、ルーカスはいまだに状況が飲み込めず、涙目で喚いた。


「お、おい! 待てよ! 道具はどうするんだ! 剪定バサミも鎌もないぞ! どうやって芝を刈るつもりだ!」


「あぁ? 道具だぁ?」


不機嫌MAXのレグルスが、芝生の上に立つ。

彼はルーカスを鬱陶しそうに睨みつけると、鼻で笑った。


「そんなもん、要らねぇよ」


レグルスの全身から、ビリビリとした圧力が放たれる。

それは庭師のまとう空気ではない。

戦場に立つ、殺戮者の気配だった。


「……おい、ガキ。よく見てろ」


不穏な言葉と共に、レグルスがゆっくりと右手を背中へと回す。

道具なしで、一体どうやって庭の手入れをするというのか。

ルーカスとガルヴァンが固唾を飲んで見守る中、最強の男による「常識外れの園芸」が始まろうとしていた。

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