第2話 裏口入学の女子高生

 私立青葉丘高等学校の二年生の教室は、放課後のホームルームが終わって三十分が経過しても、奇妙な静けさに包まれていた。

 田中襟華は自分の席から動けずにいた。窓から差し込む西日が机の上に長い影を落としているが、その光すらも今の彼女にとっては晒し者のスポットライトのように感じられる。

 周囲のクラスメイトたちは、遠巻きに彼女を観察していた。直接目を合わせようとはしないものの、手元のスマートフォンを覗き込んでは、チラリとこちらへ視線を向ける。ひそひそというくぐもった声や、押し殺したような小さな笑い声が、教室のあちこちから羽虫の群れのように湧き上がっていた。


『あれだよね。レオレオの動画の』

『マジで裏口なの? やばくなーい?』

『逆ギレこわ。青葉丘の恥じゃん』


 直接言葉を投げつけられるわけではない。だが、クラスのグループチャットや裏の鍵アカウント、そして学校の非公式掲示板で今この瞬間も何が書き込まれているかは、痛いほど伝わってきた。

 襟華は机の下で、自分のスマートフォンを指の関節が白くなるほど強く握りしめた。各種SNSの通知はとっくに切っている。それでも、真っ黒な画面の向こう側で、『裏口入学の証拠出せよ』『こいつの親も終わってんな』『特定まだ?』といった、見知らぬ匿名アカウントからの無数の暴言が増殖し続けていることを知っていた。


 動画が投稿されてから、すでに四十八時間以上が過ぎている。


 ——違う。


 心の中で何度叫んでも、その声は誰にも届かない。

 本当は、駅前のロータリーで友人を待っていただけだった。そこへ突然、スマートフォンを構えた見知らぬ男が近づいてきて、しつこく顔にカメラを近づけられた。やめてくださいと言って逃げようとしても、ヘラヘラと笑いながら回り込んで進路を塞がれた。恐怖と苛立ちが限界に達し、思わず大声で叫んでしまったあの一瞬。


 自分の発した言葉が、自分の意図とは全く違う形で切り取られ、娯楽として消費されている。

 襟華は血が滲むほど唇を噛み締めた。今朝、朝礼の前に職員室へ呼ばれた時の、担任教師の重いため息と迷惑そうな視線が脳裏に焼き付いている。「どうしてあんな動画を撮られるような隙を見せたんだ。学校の品位に関わるから、しばらく大人しくしていなさい」と、まるで彼女が加害者であるかのような口ぶりだった。

 鞄の中で熱を持っているように感じるスマートフォンには、母親からの三十件を超える不在着信履歴と、「お父さんの会社に迷惑がかかったらどうするの」「なんであんな奴に絡まれたの」とパニックになって責め立てるメッセージの切れ端が表示されたままになっている。


 あの時、駅前のロータリーで自分に何があったのか。大の男に進路を塞がれ、どんな言葉をぶつけられて恐怖を感じたのか。それを静かに聞いてくれる大人は、一人もいなかった。


 教室の壁掛け時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。黒板に残された日直の名前すら、自分を責める文字列に見えてくる。世界中から監視され、指を差されているような息苦しさで、目の奥がじわりと熱くなった。

 これ以上、この空間には耐えられなかった。襟華は鞄をひったくるように掴むと、椅子が床を擦るけたたましい音にも構わず、俯いたまま逃げるように教室を飛び出した。廊下をすれ違う生徒たちの足音や話し声すら、すべて自分を嘲笑い、追い詰めているように感じられ、ただただ息が詰まった。


★★★★★★★★★★★



 株式会社リバース・ガードの第一会議室。

 任三郎は、長机に散乱したプリントアウト資料とタブレットの画面を交互に確認していた。キーボードの脇に置かれた灰皿には、火の消えた煙草の吸い殻が山のように積まれている。

 渡辺千尋は壁際のホワイトボードの前に立ち、手書きで整理された拡散経路のネットワーク図に黒いマーカーで何本もの線を引いていた。


「炎上観測板および学校の非公式掲示板における実名特定の動きですが、事前の打ち合わせ通り、一時的に勢いを削ぐことに成功しました」


 千尋はマーカーのキャップを閉め、硬い足音を立てて任三郎の方へ振り向いた。


「先ほど、弁護士経由で主要プロバイダへ発信者情報開示請求の事前警告を一斉に送信しました。同時に、青葉丘高校の教頭宛に『生徒の保護を最優先した法的措置の実働に入っている』と通達し、校内の生徒向けにも無用なSNS投稿を控えるようアナウンスを要請済みです。法的リスクをちらつかせたことで、匿名アカウント群の足並みは目に見えて鈍っています」

「ああ。まずは彼女の生活圏への延焼を止めるのが先だ」


 任三郎は資料から視線を上げず、ただ事実を確認するように短く応じた。


「だが、根本の火元は消えていない。神楽坂レオが意図的に用意した延焼工作の解析はどうなっている」

「こちらです」


 千尋は手元のノートパソコンを操作し、大型モニターに別のアカウント群の解析データを映し出した。黒い背景に、無数のIPアドレスとタイムスタンプが、目まぐるしい速度でスクロールしていく。


「最初に切り抜きを投稿した『レオレオファン・まとめ』という匿名アカウント。本家チャンネルで動画がアップロードされてから、わずか三分後に三十秒のハイライト切り抜きと煽りテロップ付きでSNSに投稿されています。一個人が偶然動画を見て、内容を確認し、編集作業を経て投稿するには、物理的に不可能な速度です。そして、通信履歴の傾向ですが」


 千尋の報告は淀みなく続く。


「過去に神楽坂が別の炎上を起こした際に、擁護コメントを連投していたアカウント群と一致します。ご丁寧に海外のプロキシサーバーを経由してIPを偽装していますが、活動時間帯のピークと、特徴的な煽り文句のクセが完全に一致しています。神楽坂側が事前に用意していたダミーアカウントと見て間違いありません」


 任三郎は大型モニター上の文字列を静かに見つめた。

 対象動画の概要欄、そして『レオレオファン・まとめ』の投稿文。そこにある言葉の並びを見た瞬間、任三郎の視界の端を、どす黒い不快なノイズが掠めた。

 熱心なファンが自発的に作った切り抜きではない。本家の動画公開直後に火種となる切り抜きを投下し、炎上が自然発生したように見せかけながら、自分は安全圏から顔の見えない群衆をけしかけている人間の手口だ。その悪意の構造が、任三郎の目には明確な異常として感知されていた。


「神楽坂の過去動画の完全版アーカイブ、ならびにプロミネンス・リンクとの業務提携の契約形態を引き続き洗え。指示系統の全容を可視化する」


 任三郎が手元の資料にペンで書き込みながら言うと、千尋は小さく頷いた。


「プロミネンス側への定例報告には、このダミーアカウントの解析結果は伏せておきますか」

「ああ。奴らがどう動くか見るまではな。表向きには、こちらが指示した『SNSの更新停止と沈黙』を守っているかどうかの監視だけを報告しておけ」

「わかりました」


 千尋は自身の端末へ向かいながら、任三郎の横顔を無言で見つめた。何かを言いかけてはゆっくりと口を噤み、彼女はそれ以上何も問うことなくキーボードへ指を這わせた。

 任三郎は新しい煙草を箱から引き抜き、火をつけないまま唇に咥え、手元の資料へ再び視線を落とした。


★★★★★★★★★★★



 見知らぬ人間にスマートフォンを向けられるのが怖い。

 放課後、襟華は足早に駅へと向かっていた。夕暮れ時の駅前は帰宅する学生や会社員でごった返しているが、すれ違う同世代の人間が全員、あの動画を見て自分の顔を知っているような錯覚に陥る。すれ違う人が手にしているスマートフォンが少しでもこちらを向くたびに、ビクッと肩が跳ね、心臓が早鐘のように鳴った。

 襟華は制服のネクタイを隠すようにカーディガンの胸元をかき合わせ、少しでも早く家に帰りたかった。だが、駅前の薄暗い路地に差し掛かったとき、前方に立っていた男女の姿に思わず足が止まった。

 黒いスーツを着た背の高い男と、落ち着いた雰囲気の女性。


「田中襟華さんだな」


 男が低い声で名前を呼んだ。襟華は後ずさろうとして、靴の裏がアスファルトに擦れる嫌な音を立てた。


「……誰ですか。動画の人ですか」

「株式会社リバース・ガードの佐藤だ」


 任三郎はゆっくりと近づき、一枚の名刺を差し出した。隣にいる千尋も静かに頭を下げる。


「神楽坂と提携している事務所から、今回の炎上対応の依頼を受けている」


 敵だ。襟華は名刺を受け取らず、警戒を露わにして奥歯を噛んだ。


「何しに来たんですか。私に、動画のこと黙ってろって言いに来たんですか!」

「違う」


 任三郎の表情は全く崩れない。怒鳴られることなど最初から想定していたように、ただ淡々と事実だけを並べるように口を開く。


「彼らはあなたを『裏口入学の逆ギレ女子高生』として処理し、騒動を終わらせようとしている。だが、動画の音声には不自然な切断があった。怒る直前、神楽坂に何を言われた」


 襟華は息を呑んだ。

 動画が拡散されてから、誰もそんなことは聞いてくれなかった。隙を見せたお前が悪いと世間体を気にして責められるばかりで、彼女がなぜあんな大声を出すほど怒ったのか、その理由を尋ねようとする人間はこれまで皆無だったのだ。


「……親のコネで入ったのかって。お金を積んだのかって、カメラを顔に近づけてきて……やめてって言っても、ずっと回り込まれて……」


 言いながら、思い出した恐怖と悔しさで声が震えた。視界が滲みそうになるのを必死で堪える。


「それを聞いて、怒った。その部分だけを使われたわけだ」


 任三郎の言葉には、大人が子供に向けるような過剰な慰めや、胡散臭い同情は一切なかった。ただ状況の欠けたピースを埋めるための、事務的な確認作業のような響きだった。


「実名が特定される前に、ネット上の拡散導線を塞ぐ。学校側と掲示板の管理者にはすでに牽制を入れた。あなたの生活圏は守る」

「……どうして」


 襟華は戸惑いながら任三郎を見上げた。


「事務所の人なら、あいつの味方なんじゃないですか」

「俺は、事実のない火消しはしない」


 任三郎の目が冷たく細められる。


「あんな雑な切り抜きで他人の人生を潰せると思っている連中を、放置するつもりもない」


 襟華は差し出されたままの名刺を見つめて、立ち尽くした。

 ただ「切り取られた動画に嘘がある」という前提で淡々と話を進めるこの見知らぬ男の冷淡さが、ひどく調子を狂わせる。襟華は固く握りこんでいた自分の手のひらに、じわっと嫌な汗が滲んでいることに気づいた。心臓はまだ警戒でうるさく鳴っているが、過呼吸のように浅くなっていた呼吸のリズムが、少しだけ本来の深さを取り戻しつつあるのを感じた。


 その時、隣に立っていた千尋が、手にしていたスマートフォンを見て鋭い声を上げた。


「……佐藤さん」


 その声に、かすかな緊張が混じっている。


「神楽坂レオがSNSを更新しました。今日の二十時に、謝罪動画を出すと予告しています」


 任三郎は千尋の画面を一瞥した。こちらが提出した『SNSの更新停止と沈黙』という指示は、完全に無視されたらしい。


「謝罪じゃない。ファンへの被害者アピールと、さらなる攻撃の合図だ」


 任三郎は名刺を襟華の手のひらに押し付け、きびすを返した。


「……今は、何も見なくていい。スマートフォンは鞄にしまっておけ」


 任三郎はそれだけ言い残すと、振り返ることなく足早に歩き出した。千尋も襟華へ軽く会釈をし、ヒールを鳴らしてその後を追う。

 残された襟華は、路地の薄暗がりの中で、押し付けられた名刺の硬い感触だけを指先に感じていた。

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